
うさぎ、といわれてぱっとイメージするのはセーラームーンくらいだが、じつはオザケンが「子どもと昔話」という雑誌に連載している童話のタイトルが「うさぎ!」なのだ。
そして「灰色」。「灰色」といわれてぱっとイメージするのは『指輪物語』に出てくる灰色の魔法使いガンダルフくらいだが、じつは「うさぎ!」はこの「灰色」の支配する時代の物語だ。
attacこうとうの会員Tさんから、「オザケンが童話を書いている。その内容がすごい。」と聞かされた。どうしてTさんがそんなことを知っていたのか。それはTさんの同僚が編集に携わっている「社会臨床雑誌」という学術誌に、「うさぎ!」の番外編が掲載されることになったからだ。Tさんいわく「本編の童話のほうは、現代批判、というか資本主義批判。ボリビアの水戦争を題材にしている。反グローバリゼーションの童話だ」と。
新幹線で大阪に行く用事があった。その前日にTさんから「社会臨床雑誌」を買ったこともあり、暇つぶしに読むか、とおもって横浜をすぎたあたりから駅弁を食べながら、ぱらぱらとページをめくった。「社会臨床雑誌」に掲載されたオザケンの文章のタイトルは「企業的な社会、セラピー的な社会」。
企業的な社会に対して、セラピー的、癒しの社会が必要だ、スローに生きよう、ロハスでいこう、とかいう内容かなー、と勝手に思い込み読む気をなくしたのだが、他にすることのない新幹線という空間だったこと、そして物語の出だしが「対外援助」を扱ったものであったことが幸いした。
物語はきららという少女が登場し、こんな風に始まる。
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「社会と何の関係もない言葉」きららという少女が、考えています。
このお話の頃の世界には、そんな言葉がたくさんありました。社会と、現実と、何の関係もない言葉。
例えば「対外援助」という言葉がありました。
いわゆる「豊かな」国が、税金で、いわゆる「貧しい」国に「援助」する、「対外援助」のお金。
本当は援助するのなら、貰ったお金を「貧しい」国がどう使おうと勝手なはずですが、そうではなくて、お金には「このお金を、こういう風に使いなさい」と、ただし書きがついていて、どうやらお金は、「豊かな」国の大きな企業が受けとることになっているのでした。
つまり「豊かな」国のA国の人びとが払った税金が、A国を出ることもなく、同じA国に本社を持つ大きな企業の銀行口座に流れて行きます。
お金を受けとった企業は、「貧しい」B国に、倉庫にゴミのように積んであった売れ残りの製品や買い手のつかない車を送りつけたり、B国の人たちが「建てないでくれ!」と涙を流して頼んでいる、大きなダムを建てて、村々をダムの底に沈めたりします。
そんなことがなぜか、もう五十年以上、「対外援助」と呼ばれているのでした。
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債務問題などにも取り組まないと、とおもっていたので、この書き出しに「お?」と興味を抱き、読み進んでいく。文体もよみやすい。「社会と、現実と、何の関係もない言葉」が、このようなわかりやすい説明でどんどん挙げられていく。「核保有の問題」、GDP、ベンサム、エコ・カー、専門家と呼ばれる人たち、宗教対立など、眠れぬ夜に屋上でこれらのカラクリについて考え事をするきらら、そして仲間の少年うさぎと少女クィルたちの対話という形式でこの物語は進んでいく。
そして戦争が、宗教対立などの「よくわからないもの」ではなく、「お金や、政策とか、石油の流れのコントロールとか、水源地の奪いあいとか、現実に根ざした、具体的なもの」が原因であり、人びとがその「具体的なもの」ってなんだろう、と考え始めると困るのが、「このお話の頃の世界を作り出している『灰色』」なるものだという。
「人びとが『何か、よくわからない、深遠な、解決不可能なものが理由で問題が起こっている』というイメージを持ったほうが、灰色にとっては都合がいいのです。」
「灰色。灰色は、人ではありません」
...こんな文章がどうして社会臨床雑誌という心理学批判の学会誌に載るんだろう、という当初から疑問があったが、それは話が展開していく過程で解消されていく。
「問題を『よくわからないもの』のせいにすること」という話で、うさぎが思い浮かべたのが、ベトナム戦争に賛成したアメリカの心理学者、マズロー。マズローは「『自己実現』というわけの分からない言葉をはやらせた人物」であり、彼の言う「自己」には根拠がないとして批判的に紹介される。
そして自己実現と称して「セラピスト」たちが持ち出す「セルフ・エスティーム」(自分に対する気分のよさ、自信の持ちよう)批判に話が移る。この「セルフ・エスティーム」は、自分が期待するもののうち、どれだけ実現することができたか、によって左右される。簡単に言えば「達成感」だ。
達成感を得るには二つの方法がある。一つは、本当に目標を達成すること、そしてもう一つが目標を下げることだ。そして「基地帝国」(アメリカ)では、この「セルフ・エスティーム」の研究が盛んであり、政治家や大企業などが関与してきた。かれらは、目標を達成することで達成感を得るのではなく、目標を下げて、大きな望みや期待を持たないで、諦めた気持ちで人びとが暮らすことを望んでいる。
しかしこの世を支配する灰色とその手下は、つねにこの社会の秩序が覆される革命におびえている。「人びとが、希望を持たなくなること。人の社会に、期待しなくなること。自分が生きている社会について、諦めること。そういうムードを世の中にいつも広げておけば、『革命』にはならない」
きらら、うさぎ、クィルたちは、「セルフ・エスティーム」を灰色たちによる社会的な予防注射だという。基地帝国では「セルフ・エスティーム」を浸透させるために政治家や議会が利用される......。
こんな感じで話は、心理学批判、ピーター・ドラッガー批判、セラピー批判、メディア批判、企業の誘導によるエコ批判、NGO/NPO批判などがどんどん会話形式でつづいていく。その会話も決まりきった面白くもない説明口調ではない。その場に一緒にいるような感じで「ふんふん」とうなずきながら読み進めてしまう。
とにかくいまグローバリゼーションで問題になっているさまざまな事象を「灰色が支配する世の中」に重ね合わせて批判する。よくあるパターンは、風刺的な、あるいは大人にわかる形で現代社会をすこし批判する、という物語(スタジオジブリなどの作品のように)だが、オザケンの童話の番外編は逆、というかまったく違う。扱う内容は「対外援助」や「イラク戦争」など実際の問題、そして物語(本編)の舞台は水戦争で反グローバリゼーション運動が注目したボリビア・コチャバンバ。登場する中心人物はフィクション。話の中で紹介されるエピソードの人物は実在(たとえばマズローやピーター・ドラッガー、ブッシュなど)であったり、「基地帝国」(アメリカ)、銅山の国(ボリビア)、剛ケツ(チャベス)だったりする。
これまでの僕の三十数年の短い人生のなかで、こんなすばらしい「童話」は、いや書物にはめったに出会わない。100%直球でストライクゾーンに「ずばん!」と入った感じだ。
なによりも「ずばん!」と来たのは、現状を批判するだけでなく、いったい誰がそれを進めているのか(物語では「灰色」と言われているがそれが何を指すかはすぐに分かる)、そしてその目的が何か、というところにまで、きららやうさぎやクィルのことばで語っていることだ。
巷にあふれるグローバリゼーションの問題を扱うさまざまな書籍には、問題だらけの現状を解説し、そういう状況を変えなければならない、というところまではたどり着くのだが、グローバリゼーションを進める「灰色」とその手下への怒りがない。「灰色」とその手下たちと闘うという姿勢がない。協力や対話、政策提言という、灰色の戦略に乗っかった活動が正しいかのような主張、そんなものは、きらら、クィル、うさぎたちはきっと声をそろえてこういうだろう。「灰色との対話!」
少し長くなるが、オザケンが何を伝えたかったのかが(たぶん)わかる箇所を紹介する。
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きららが言います。
「・・・・・『あなたたちは、反基地帝国なんですね』って言われる。全然違うよ。もし世界の半分以上の軍事費と八千発の核ミサイルがトンガ国のものだったら、トンガ国のことを考えるよ。反『星を壊すこと』、反『平等を許さないこと』、反『核兵器』、反『殺戮』。そういうことを考えるには、まず、どうしても基地帝国の指導者たちのことを考えなきゃならないだけなんだよ。別に反『基地帝国』じゃない。反『トンガ国』でもない。なぜ、何でも『国』でしか考えられないように、しつけられていしまっているんだろう? 続いている毎日の戦争は、人びとと灰色の戦争だ。」
「第二次世界大戦後の世界が、どうやって始まったかを考える」とクィル。「戦後世界の設計者の一人、ジョージ・ケナンさんが1948年に書いた政策計画文書によれば、『我々基地帝国は、人口は世界の六・三%にすぎないが、お金は世界の五十%を持っている。我々は、この不平等な状態を維持したい。我々は、この不平等さを維持するためのパターンを考え出さなければならない』。・・・・・・」
「ケナンさんの言う『不平等な状態を維持するためのパターン』。それにぴったりな、セラピーの技法。セラピーという、機械を止めずに、機械の生み出す痛みをやわらげるテクニック。そのテクニックに基づいた、セラピー的な社会。」
「うーむ」とうさぎ。・・・・・・
きららが言います。「第二次世界大戦後の世界を設計していたケナンさんが、『これからの時代に必要』だと思った『不平等を維持するためのパターン』。そこにちょうどぴったりと役割を果たす、セラピーのテクニック。もちろん不平等を維持するには、力で脅かすこと、つまり圧倒的な軍事力は欠かせない。それは、世界中に基地帝国の基地があることでもわかる。」
「けれど、力で脅かすだけでは足りない。さらに『不平等を維持するためのパターン』を徹底したい。徹底的に人びとをおとなしく、従わせたい。人々の希望を小さくして、革命が起こらないようにしたい。」
「灰色の狙いに、ぴったりなセラピーの技術。ちょうどケナンさんが使っている『devise』っていう言葉は、工夫して装置を考え出す、っていう感じの言葉だ。不平等なシステム、アパルトヘイトのシステムを維持するための、セラピー的な装置を考え出す。セラピー的なパターンを考案する。」
「うん。やっぱり間抜けじゃないと言えば、灰色は間抜けじゃない。」
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こんな感じで登場人物たちの素朴な疑問や会話を通して語られる。この番外編は、夜明けまで語りあった三人が朝を迎えるシーンで締めくくられている。
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平和市の町は、夜が明ける前の、魔法のような時間の中で揺れています。静かな波の上に浮かぶ、舟のようです。たくさんの鳥たちが、静かに空を渡りはじめています。目を覚ました小鳥たちが、さえずりはじめています。
うさぎが、大きく伸びをしながら言います。「うん、まあでも、人びとは勝つよ。」
「勝つねえ」ときらら。
「そりゃ勝つでしょ」とクィル。
けれども、期待を小さくするように、諦めた気持ちで生きるように、大きな希望を捨てるように、厳しくしつけられた「豊かな」国の人びとは、そんなうさぎたちの確信がどこから来るのか、想像もできないようでした。
彼らはみんな、「そんなことを言ったって、灰色は巨大だよ、倒すことなんてできないよ」という考えを、心骨にまで叩き込まれているようでした。
本当に灰色は、そんなに大きいのでしょうか?
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このオザケンの「企業的な社会、セラピー的な社会」が収録された『社会臨床雑誌』第14巻第3号は、直接、日本社会臨床学会に連絡すれば購入できるようだ。1冊2000円。すこし高いが、それだけの価値はある(同じ号は「グローバリズムと教育私企業化」が特集で、教育の民営化問題でGATSを扱った貴重な論文も掲載されている)。
○日本社会臨床学会
さて、同誌に掲載された童話番外編の最後にオザケン曰く、
この文章は、雑誌『子どもと昔話』に連載中の「うさぎ!」の、連載本編では語られていない一場面です。よろしかったら、どうぞ「うさぎ!」のほうもご覧になってください。
とのこと。番外編を読んでもっと、うさぎ、きらら、クィルのことを知りたくなった。さっそくTさんから教えてもらったオザケンの公式サイトにUPされている「うさぎ!」第一話を読んでみた。
○Ecology of Everyday Life : Kenji Ozawa(公式サイト)
読むまでは「番外編では学術誌ということもあり、資本主義批判がストレートに出ていたが、雑誌に掲載されている本編のほうは童話だからオブラートに包んでいるかな...」と期待半ば諦め半ばの「セルフ・エスティーム」状態だったが、本編もすごい。ぜんぜん子ども騙し、いや大人騙しではない(「うさぎ!」第一話曰く、子どもは「灰色」には騙されない)。最初から「灰色」の紹介ということでいきなり資本主義批判。これもあっという間に読めた。
物語の舞台は、ボリビア、コチャバンバ。そう、水の民営化問題で市民を挙げて多国籍資本とたたかい、追い出し、水の民営化に抵抗したあの町だ。「うさぎ!」はこの水戦争を題材にしている。
もっと続きがみたい!!
『子どもと昔話』の公式サイトによると、すでに「うさぎ!」は第六話まで連載が進んでいるようだ。ウェブで近所の図書館をしらべてみると、会社の近くの図書館にバックナンバーも含めて蔵書があった。さっそく昼休みに抜け出して、バックナンバーの「うさぎ!」をコピー。(すいませんお金ありませんでした・・・)
会社に帰って「灰色」に搾取されながら一気に読んだ。うさぎ、きらら、クィルの活躍が豊かに表現されている。また水の民営化だけでなく、グローバリゼーションによるさまざまな実際の問題も、物語の中に自然に挿入されている。
物語なので、内容紹介は控えるが、Attacのみなさん、グローバリゼーション問題に関心を持つすべてのみなさんにお勧めの物語だ。これは読んでおかないと人生損する、というくらいの物語だ。
○『子どもと昔話』
社会臨床雑誌と「うさぎ!」(のバックナンバーのコピー)は普段持ち歩くようにしている。見たい人は声をかけてください。ほんと、一人でも多くの人に見てもらいたい。
戦争のできる憲法をつくるための国民投票法案が衆院委員会で強行採決された。基地帝国の戦争に本格的に参加することが、この国の灰色とその手下どもにとっては何よりも儲かるようだ。なんとしてもこの流れをとめたい。
うさぎが、大きく伸びをしながら言います。
「うん、まあでも、人びとは勝つよ。」
「勝つねえ」ときらら。
「そりゃ勝つでしょ」とクィル。
※最後に、小沢健二さん、もしご覧になられていたら、数々の無礼お許しください。「うさぎ!」楽しみにしています。