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(區龍宇)武三思と陳獨秀──五四運動100周年に寄せて(2019年5月)

【解説】本論は五四運動100年に際して、逃亡犯送還条例に揺れる2019年5月8日、香港紙「明報」の水曜コラムに掲載された。
https://life.mingpao.com/general/article?issue=20190508&nodeid=1557253966233

2019年から20年にかけて闘われた送還条例反対運動は空前の激しさを見せたが、最期には敗北を喫し、厳しい状況が現在も続いている。この文章は現在は、區さんが主宰するウェブサイト「無國界社運BORDERLESS MOVEMENT」や香港獨立媒體で全文をみることができる。

https://borderless-hk.com/2019/05/15/%e6%ad%a6%e4%b8%89%e6%80%9d%e8%88%87%e9%99%b3%e7%8d%a8%e7%a7%80-%e4%ba%94%e5%9b%9b100%e5%b9%b4%e7%a5%ad/

https://www.inmediahk.net/node/1064073

内容の前半は、「革命」が独裁をもたらしたという李澤厚氏の旧著での主張に対する反論であり、中国革命が易姓革命に後退してしまったことをあげて、五四運動と民主革命を防衛しつつ、後半ではなぜ中国で民主革命が実現しないのかについて言及している。なお李澤厚氏は1989年民主化運動を支持したことで批判を受け、92年にアメリカに移住、2021年11月に91歳で逝去された。

訳者は筆者本人から紙面掲載直前に原稿を提供され、途中まで翻訳していたが、その直後に爆発した「香港の反乱」への対応に忙殺されてしまい、これまで放置してきた。すでに5年が経過したが、反乱へ弾圧や中国本土における白紙運動などを経て、今日あらためて読むとまた違った発見があるかもしれない。

提供された原稿には文献参照の注釈がついており、明報紙面や上記ウェブサイトの掲載時には省略されていたが、参考のために掲載しておく。本文の訳文は日本の読者にもわかりやすいように適宜補っている。(い)




武三思と陳独秀
五四運動100周年に寄せて


區龍宇

(香港紙「明報」2019年5月8日掲載)


中国共産党の指導者は五四運動100周年を祝うスピーチで青年たちに「五四運動の精神とは愛国主義である。それゆえ青年は党に従い、党とともに進まなければならない」と諭した(原注1)

五四運動の学生らはまさにその愛国ゆえに、政府に従うのではなく、政府に抵抗したのである。これは狭義の五四運動であり、広義の五四運動とは新文化運動を含むものである。1915年に陳独秀が創刊した『新青年』は、偶像の打倒を奨励し、個性の覚醒を提唱したのであり、誰かに従えと主張したことはなかった。五四運動の勃発から一か月後、陳独秀は北京でアジテーションビラを配布して逮捕された。当時26歳の毛沢東は「陳独秀の逮捕と救援」を書き、そのなかで、中国は外憂内患にあるが、それは最も危険なことではない、「危険なのは全国の人民が、運命を妄信し、強権を妄信することである。まるで個人を認めず、自らを認めず、真理を認めようとしない。これは科学思想の未発達の結果である。中国は共和制を名乗っているが、実際には専制であり……これは民主とは結局のところ何なのかを民衆が理解していない結果なのである」と述べた。(原注2)

時は下って1949年。全く別人の毛沢東がいた。変われば変わるほど変わろうとしない(保守的になる)、という西側のことわざがある。このことわざは、不断の「革命」を経た今日の中国にぴったりのようだ。いま進む事態の一つ一つが復古劇のようである。インターネット上ではずっと以前から次のような隠語が流行していた。「清王朝は中国にあり。中華民国は台湾にあり」。学者の王飛凌は今日の中国をストレートにこう表現している。「輪廻転生した秦漢体制である」。(原注3)

余英時教授は最近こう指摘している。中国の歴代の指導者のあいだでは「儒家の政治用語がますます優位を占め、マルクス主義の政治用語は従属的な地位に陥っている。」(原注4)それはマルクス主義も西側から伝わったものであり、同じような破壊的作用を持っているからである。そして、この「西側的価値」を阻止するためには、外儒内法の「中華道統」(※訳注)をもう一度活用することが比較的安全な方法だからだ。なぜなら、この思想がどれほど歴史的に意義があったとしても、そのなかにはまったく民主的要素が存在していないからである。

※訳注:外儒内法とは表向きは儒家を重用するように見せかけ、実際には法家を通じて支配する統治手段。「中華道統」とは中国の伝説上の支配者から続く支配の伝統を指す。

◎文革の責任は五四運動にある?

陳独秀が近代中国の民主的勢力を代表していたという主張に賛同する意見はそれほど多くない。近年、中国の一部の研究者は新儒家の継承者のようになっており、「(五四運動を含む)新文化運動は…全面的な反伝統主義ゆえに…最終的に一切を否定する文化大革命を引き起こした」と指弾する。(原注5)

だが実際には、五四運動の「主将」(陳独秀のこと)は全面的な西欧化を主張したことはなかった。著名な五四運動研究者の周策縦によると、全面的な西欧化は「五四運動以降の一部の知識人が提起したもので、それはすぐに修正された」(原注6)。また、陳独秀は当時「青年の誤解」という文章のなかで、青年は「東を支えて西を倒す」ことにならないよう、「主義を主張しすぎて、他の人がその主義が万能だと迷信したり、抑圧的な家庭から逃れよと主張して、頼る人なき母親を見捨てる」ことのないように気をつけよと書いた(原注7)。ここからも陳独秀は義和団的、紅衛兵的精神(反動思想を含む抵抗運動の意:訳注)とは無縁であることがわかるだろう。

陳独秀の民主思想は一貫している。陳独秀の後輩の王凡西は『晩年札記』のなかで、1937年に陳独秀を訪ねた時のことを回想している。陳独秀が「武三思主義」に言及したので、王が「その含意を彼に訊ねたところ、武三思が『自分に対して好意を持つものはいい人で、自分に対して悪意を持つものは悪い人だ』と言っていたということを教えてくれた」と書いている(原注8)

武三思とは、武則天(則天武后、690年- 705年)の甥で、歴史の評価では、性格はずうずうしく、またおべっか使いで、武則天の邪魔者を抹殺したことで重宝された。上記の彼の座右の銘は、普通に聞けば当たり前のことかもしれないが、すこし考えてみると、問題のある考えだということがわかる。陳独秀が言いたかったことは、この種の人間にとって物事の良し悪しは自分が基準なのだ!人としてのモラルも原則も客観的な行動基準もない。武三思主義は実際には文革で叫ばれた「一切を打倒せよ」のスローガンと通じるところがある。つまり、一切を打倒してもいいが、この「一切」には自分(あるいは毛沢東)は含まれない、ということなのである。陳独秀は中国の専制主義者の特徴に警戒するよう訴えたのである。

もし中国と西洋の文化の違いについて何か語るところがあるとすれば、武三思主義はおそらく中国に特有のものであろう。ヨーロッパの中世の大王がどれだけ独裁的であろうと、一切を自分で決めることはできなかった。なぜなら宗教上の信仰については大王の専権事項ではなかったからである。中国だけが、信仰も含めてすべて支配する恐るべき皇帝が存在していたのである。

◎欧州の啓蒙主義

五四運動は中国のルネッサンスと啓蒙主義運動だと評価されているが、なぜそれは成功しなかったのだろうか。李澤厚は1985年に「救国が啓蒙を圧倒する」という観点を主張した(原注9)。89年の天安門事件後に、彼は劉再復とともに『告別革命(さらば革命)』を発表し、五四運動は民主化をもたらさなかったと主張した。それがもたらしたものは革命であり、革命とはつねに「(暗黒の)中世を再び復活させるもの」だからだという。(原注10)

李氏の論点には暗に「救国運動と啓蒙運動は必然的に対立する」という前提が含まれている。しかしそのような観点には問題があるだろう。オランダのスピノザはラディカルな啓蒙主義の大家であり、まさに「救国」の時代、つまり1568年から1648年にかけて行われたオランダ独立戦争の時代に生まれたが、かれらの救国思想は啓蒙思想を押しのけはしなかった。

革命という問題について、李澤厚氏はイギリスの1688年の名誉革命のみが、つまり流血なき革命のみが民主化を推進したと考えている。しかし香港の研究者、陳方正は五四運動を論じた著書『大逆転与新思潮』のなかで、1688年の名誉革命も「大衆的、暴力的、分断を産んだ」革命だというSteve Pincusの論考を引用して、次のように結論付けている。1688年の名誉革命は激しじく血が流された1640年の内戦(ピューリタン革命)の継続であり「名誉革命は(一連の)『大革命』のプロローグではなくエピローグであった」(原注11)。イギリスの革命は血を流したわけだが、それによって民主をかちとったのである。つまり、革命が必ずしも「中世を再び復活させる」わけではないのだ。

ヨーロッパでは大激動を経て代議制民主主義が実現されたが、それは啓蒙運動による民主革命がもたらしたものと言える。ではなぜ中国ではそれが実現しないのだろうか。簡単に言えば、革命には易姓革命と民主革命という2つの種類があるということだ。中国では歴史的に前者のみ、つまり皇帝の首を挿げ替えるだけで(易姓革命)、制度にはまったく手を付けなかったことから、中世(暗黒の時代)への回帰を繰り返してきたのである。山に立て籠りゲリラで戦うスタイルも、民主革命というよりも易姓革命に近い。だがヨーロッパでは民主革命が勝利した。このタイプの革命は制度的変革をもたらし、それは主権在民を実現した。つまり現在の主要な民主国家の多くもまた革命によって成立したのである。民主革命の特徴とは、普通の人民が啓蒙により覚醒して民主主義を実現することにあり、その過程で鍛え上げられるのは、戦闘能力ではなく政治参加の能力なのである。イギリスの民主革命では平等派(レヴェラーズ)も活躍し、その潮流は後の労働者民主派の先駆けとなった。

中国における啓蒙運動が不成功に終わったことを不正確に語るよりも、近代中国史において「近代化」を推進した勢力の具体な研究を行い、それらの勢力が本当に「救国運動」を優先して民主化を放棄せざるを得なかったのかどうかを分析することのほうが重要ではないだろうか。

◎中国ではなぜ啓蒙が成功しなかったのか

まず国民党の場合から考えてみよう。孫文は民権を語ったが、彼の思想は軍政、訓政(独裁)を通じて憲政に至るという思想であり、ヨーロッパの立憲主義の原則に反するものであった。なぜ最初から普通選挙を通じた全権の立憲議会を設立することができないのだろうか。なぜ大権を掌握した指導者、自ずとその権力を人民に差し出すまで待たなければならないのか。胡適は1929年に発表した「我們什麼時候才可有憲法?(我々はいつ憲法を獲得することができるのか)」で、孫文はそもそも憲政を実施するつもりなどなかったと驚きをもって警告している(原注12)。孫文の国民党もそもそも極めて独裁色が強かった。1924年の国民党の最初の大会で採択された党規約では「総理が最終決定権を有する」という規定さえある(原注13)

孫文は、状況に迫られた苦衷があり、「中国人民には・・・根深い奴隷根性があり、それは盤石のごとく揺るがない」ので民主の能力に欠ける、と語っている。胡適は詰問する。「あなたは人民に実践のなかでそれを学ばせようともしていない。なのにどうして人民がそれが学べるというのか」。(原注14)つまり孫文は意識的な独裁者であり、「救国の必要に迫られていた」(から民主化を放棄したあるいは後回しにした)などという事実はなかったのである。

次に中国共産党を見てみよう。(2014年の)雨傘運動の学生たちは労働者のストライキを打とうとしたが、成功しなかった。だが1919年の学生たちはそれに成功している。それは雑誌『新青年』が五四運動の数年前から積極的に民主と科学による教育に積極的にとりくみ、青年たちが民衆の中に深く入り込んで啓発活動を行うことを奨励したことによる。(北京で)五四運動が勃発した一か月後、上海の労働者は大規模なストライキを発動して、それは全国に波及した。これによって北洋政府をしてパリ講和会議における調印を拒否せしめたのである。中国の民主革命の波も勢いづいた。陳独秀らは1921年に中国共産党を結成し、当時の欧州左翼の伝統にのっとり、民主的な憲法制定を実現すべく、1923年7月には「対時局的主張(時局に対する訴え)」を発表し、国民議会の招集を訴え、それを国民党がけん引するよう訴えた(この主張が世論の広範な支持を得たこともあって孫文はその時流に乗った)。

1921年から27年にかけて、中国共産党は間違いなく労働者民主派であった。だが陳独秀を中心とする民主的左翼は、大革命(1924年から27年の第一次国共合作の国民革命をさす:訳注)のなかで最終的に国民党から弾圧されただけでなく、モスクワからの牽制によって革命は敗北した(スターリン一派に支配されたコミンテルンの指導は一貫して、国民党こそが革命政党であり中国共産党はそれを支えるべきだという階級協調主義を陳独秀らに強いた:訳注)。革命の敗北後、モスクワはさらに(革命敗北という不利な状況下にもかかわらず)武装蜂起を共産党に命じたことで、中国共産党は都市部における9割方の力を喪失することとなり、農村への転戦を余儀なくされた。様々な愚策(コミンテルンが指導した)はすべて陳独秀のせいにされ、彼は除名された。

時を同じくして中国共産党は労働者党から農民党へと転換し、さらに長期にわたる武装割拠という状況は、左翼の民主革命派というよりも水滸伝における山城の頭目に近かった。さらに毛沢東が独裁体制を敷いたため、当初の理念から大きく逸脱することとなったのである。(毛沢東が)1942年に延安で発動した整風運動は(党内に残る)民主的精神を完全に破壊した。その翌年(1943年)、中国共産党は指導的思想として「毛沢東思想」を高く掲げることになる(王稼祥が「解放日報」に発表した「中国共産党与中国民族解放的道路」で初めて「毛沢東思想」に言及したことを指す:訳注)。その年の3月、中国共産党は孫文を見習い、毛沢東主席が最終決定権を有することを正式に決定し、個人独裁への道を開いた(原注15)。時まさに抗日戦争の真っただ中であったが、独裁者を作り出すことが、救国や「新民主主義革命」にとってどのような手助けになったというのか。それは、むしろ易姓革命への大後退であった。

◎いかに西側の政治文化を受容すべきか

このような孫文や毛沢東の出現は偶然ではない。指導者とは社会勢力の対立と総和の結果であり、具体的な社会状況にその原因を求めなければならない。しかし中には、中国で民主主義が根付かない理由を「中国人の根深い奴隷根性」に求めるいい加減な主張もある。それはまるで、選手に向かって「泳ぎを勉強しろ!」と怒鳴りながら、その選手がプールに近づこうとすると鞭をふるって妨害し、さらに「本当に貴様は上達しないな!」と悪罵をつくようなものである。中国は歴史的にも民主的要素を欠いていたことはいうまでもないが、それを「中国人民の素質が低すぎるからだ」という理由にすり替えることは、専制主義者の責任を棚に上げすることになる。このような考えは厳復(1954-21、清朝末期から民国初期にかけての啓蒙思想家、翻訳者:訳注)の足元にも及ばない。彼はモンテスキューの『法の精神』を翻訳する際、人民が愚かな状態にある一番の責任は専制君主にあることを強調した(原注16)

もちろん人民は専制君主を批判するだけでは民主革命を実現することはできない。それでは項羽の「取而代之」(取りて代はるべきなり。「史記・項羽本紀」より)という易姓革命にとどまるだけであろう。中国の伝統には欠ける西側の民主的文化を意識的に学ぶ必要がある。こうして初めて思想と知性の上で臣民思想から解放され、真に市民(主権者)になることができるのである。すべて西側に倣えと?そうだ。だが「すべて西側に倣う」ということは、あらゆる文化領域においてではなく、政治文化の領域に限られる。西側文化も唯一無二のある一つの思想ではなく、極めて多元的な要素が含まれている。その多くは中国文化に欠けているものであり、それは学ぶに値する。

これまで中国人は実践における多元主義については、あまり学んでこなかった。ゆえに意見の違いや衝突に対する民主的な処理の方法についても学ぶことができなかった。そもそも中国は政治制度にかんしては早くから西側のものを導入している。共和国にしてもそうだし、憲法でも主権在民が明記されている。しかし絵に描いた餅では駄目で、その実現には、さらに自ら励まし努力しようとする人民(原文「自強人民」)が必要不可欠である。励ましと努力には力を合わせて、意見の衝突の対処方法を学ぶ必要がある。香港人は「自分たちはとっくに西側化している」と考えているようだが、香港人の多くは、対等な立場を保ちつつ安定的に会議を開くことさえもできず、運動の「先輩たち」に倣うだけの習慣しか身につけていない。

「中国人」というアイデンティティを拒否することは簡単だが、真の市民になることはそう簡単なことではないのである。

2019年5月8日

(原注1) 紀念五四運動100周年大會舉行 習近平:新時代青年要熱愛祖國
(原注2) 《陳獨秀之被捕及營救》,載於《陳獨秀評論選編》,上冊,河南人民出版社,1982,106-7頁。
(原注3) 《中華秩序—中原、世界帝國與中國力量的本質》,八旗文化,新北市,2018,26頁。
(原注4) 《試釋五四新文化運動的歴史作用》,https://udn.com/news/story/11325/3783951
(原注5) 《反傳統主義的七十年》,謝選駿,載於《五四與現代中國-五四新論》,山西人民出版社,1989,30頁。
(原注6) 周策縱《五四運動:現代中國的思想革命》,江蘇人民出版社,1996,476頁。北京大學出版社在1990年出版了一個五四運動文獻特輯《從西化到現代化》,其中收錄了1930年代嶺南大學教授陳序經《全盤西化的理由》(376頁),不知道是否第一個鮮明主張全盤西化的人?
(原注7) 《青年底誤會》,載《獨秀文存》,安徽人民出版社,1987年,615頁。
(原注8) 舊唐書原文是「不知何人名作好人,唯有向我者是好人耳」。載於《王凡西文集》,第三卷,532頁。
(原注9) 載《中國現代思想史論》,東方出版社,1987年。
(原注10) 《告別革命》,天地圖書有限公司,香港,1995年,85頁。
(原注11) 《大逆轉與新思潮—五四、啓蒙與現代化探索》,陳方正,中華書局,2018,7-14頁。
(原注12) http://blog.renren.com/share/173134198/5661283962 (題名なくリンク切れ)
(原注13) 參看周策縱《五四運動:現代中國的思想革命》,江蘇人民出版社,1996,340頁。
(原注14) 《試釋五四新文化運動的歴史作用》,https://udn.com/news/story/11325/3783951
(原注15) 《1943年3月20日毛澤東任中共中央政治局主席》
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64165/77585/78763/5461956.html
(原注16) 《中國人缺少什麽—西方哲學接受史上兩個案例之研究》,周國平,香港中和出版有限公司,2017,40-1頁。

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