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王凡西 「米中国交樹立を論ずる」(1979年1月)の現代的意義

キッシンジャーが死んで、台湾有事が問題になり、米中関係の雲行きが怪しくなる中で、昨年、翻訳出版をお手伝いした『毛沢東思想論稿 裏切られた中国革命』(王凡西著、寺本勉、長堀祐造、稲垣豊共訳、柘植書房新社)の著者、王凡西(1907年3月16日-2002年12月30日)が米中国交回復の際に書いた「米中国交樹立を論ずる」(1979年1月)を紹介しておく意味はあるだろうと思い、一年ほど前に書いた私信とともに張り付けておきます。(2023年12月20日)

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王凡西「米中国交樹立を論ずる」(1979年1月)の現代的意義
2023年1月20日

以下は、『裏切られた中国革命 毛沢東思想論稿』に収録されなかった王凡西の「米中国交樹立を論ずる」の現代的意義を、本の編集段階で共訳者に送ったもの。

◆2022/06/23 稲垣→共訳者

「台湾テーゼ」の掲載、ありがたいですが、ここまでくると、米中国交樹立の小論(79年1月)も、すこし抜粋して掲載したい気もします。というのも、「思想論稿」や「文革論」や「台湾テーゼ」には出てこない毛沢東思想の最後の発展である「第三世界論」(74年提唱)に対する批判があるからです。

「第三世界論」はソ社帝(ソ連社会帝国主義)批判で、すでにソ連はないので、現代的意義はほとんどないように思いますが、けっしてそうではなく、まず、米中国交回復は台湾問題でもありますし、「第三世界論」は毛沢東版「平和共存」の展開として、また鄧小平の国連演説で有名ですし、一部の研究者にある「毛沢東世界革命論」への反論にもなります。

「毛沢東の世界革命」というおなじ傾向で昨年出版された『〈毛沢東主義〉マオイズム革命』(程映虹著、集広舎)は、60年代文革から70年代にかけてアジアやラテンアメリカに「輸出」された毛沢東の世界革命への批判はしていますが、その後、この「第三世界論」にはまったく触れておらず、いっきに80年代の文革批判へと飛躍してしまっているので、あらためて米中国交正常化と「第三世界論」の問題点を提起しておくことは、毛沢東思想全体への批判としても理論的にも重要でしょうし、また現在の米中摩擦の背後にある中国共産党の「米中共同支配」という本音に迫るうえでも重要な気がします。とまれ、米中国交回復は(ソ連の「平和共存」とならんで)、毛沢東思想と中国共産党の根幹である一国社会主義の人民民主主義のもっとも典型的な発展形態だとおもうのです(世界規模の「四階級ブロック」と言えなくもない)。

目次のところで王凡西の文章には、毛沢東思想論稿(1964年)、文化大革命を論じる(1966年)、台湾テーゼ(1977年)、米中国交樹立(1979年)というように、執筆年をいれると、読者にも親切な気もするんですが、どうでしょう?

◆2022/06/24 稲垣→共訳者

・・・「米中国交樹立論にかんして現代的意義が感じられない」ということですが、これは僕は逆に、これがないと『思想論稿』の現代的意義は、なにか底の抜けた感じにしか受け取られないのではないか、という想いがあります。王凡西という思想家が、あの時代だけでなく、資本主義になってしまった現代中国を見る上でも、そして将来の「社会主義アジア合衆国」を展望するうえでも重要な理論的貢献をしているということを示せるのではないか、と。ただそれには、もう少し丁寧な説明が必要でしょうかね。それはまあ本が出てからの議論になれば。

とりあえず『思想論稿』と「米中国交樹立論」をいっしょに論じる現代的意義、という点で以下を書いてみました。

+ + + + +

王凡西の「米中国交樹立を論ずる」(1979年1月)の現代的意義は充分にあると思います。

ひとつは、現在につながるアメリカとの関係(台湾問題を含む)を論じているからです。台湾問題にひきつけていえば、いまは「アメリカの介入を許さない」などと威勢のいいことを言っていますが、結局はアメリカにすり寄って台湾(中華民国)問題を解決しようとしたはじまりが、この米中関係改善です。さらにさかのぼって言えば、フルシチョフとの関係悪化(中ソ対立)の最初の種のひとつもこの台湾問題でした。56年スターリン批判で動揺するなか、毛沢東は武力で台湾統一を示唆しますが、平和共存のフルシチョフはそれに反対して、その後の中ソ対立の種を作ります(この点は、『思想論稿』の続編である「毛沢東思想と中ソ関係」に詳しい)。

「いまは米中対立のときなので、王凡西の『米中平和共存』論は、時代遅れになっている」というのは、王凡西の『思想論稿』の現代的意義を理解していないことになります。『思想論稿』の全編を通じて、そのような「平和共存」へ進む可能性は十分にあったと述べられていますし、ぼくも現在の「米中対立」は、70年代以来、中国の一貫した「アメリカ帝国主義との平和共存」の裏返し(表裏一体)だと思っています。

『思想論稿』は論争の書とも言えます。現代においてもそうです。『思想論稿』は、全体のまとめの「歴史的地位」を除くと「一国社会主義」批判で終わっています。大変素晴らしい結論ですが、64年に書かれたという時代的制約もあります。

つまり、そこから導き出される現代的論争、あるいは考えられる本書への批判としては、大別して二つあると思います。

(1)60年代の「一国社会主義」を反省して、毛沢東は「世界革命」を目指したので、『思想論稿』は間違っている。

→これはさらに二つの視点があります。

(a)文革までは問題だったが、毛は最後には本気で世界革命を目指した…○○さん?

(b)文革で表現されたあやまりを「世界革命」でさらに世界規模に広げた→『マオイズム』など最近の流行り&じつは中国共産党の公式評価でもある。

この(a)(b)どちらに対しても、附録の「文化大革命を論じる」と「台湾革命テーゼ」では答え(反論)が示されていませんし、示唆さえもないとおもいます。

つまり、せっかく論争の書である本書をいま出版しても、いま流行りの(a)(b)論の人たちからすると、逆に「時代遅れ」「不十分な議論」「その後の状況が王凡西の主張を覆している」としか思われません。もちろん「いや、ちゃんとその後も論じていますよ」というのは言えますが、せっかく文革論まで附録でつけるのですから、さらに「一国社会主義」と「文革」という敗北から進んでついには米帝との平和共存にまで進んだことを批判する論考を付録として付けるのは意味あることだと思っています。

しかも王凡西は(1979年に)後付けでそう言ったのではなく、すでに『思想論稿』(1964年執筆、72年出版)で展開されている議論から、その事態が予想されていたこと、そして実際にそうなった、ということが、米中国交樹立論などで、みごとな理論的完結を成し遂げていると思っています。

もちろん小論ですし、さらに抄録ですから、この理論的完結をすぐに理解することは難しいかもしれませんが、上記のように批判されたり論争になった場合に説明できる資料を収録しておくというのは意味のあることだと思います。

王凡西の「米中国交樹立批判」と同時期に書かれていっしょにパンフ化されている「中国のベトナム侵攻反対」「ベトナム・カンボジア戦争」も具体的な事件をあげて、一国社会主義の帰結としての米中共存を批判していますが、「ベトナム」「カンボジア」よりも「アメリカ」がタイトル名にあるほうが、インパクトや現代的意義はあると思います(「米中対立」はしばらくつづくことから)。

そして、『思想論稿』に対する、二つ目の論点、あるいは批判として、

(2)「鄧小平は毛沢東の一国社会主義から決別して改革開放へと進んだので、王凡西の批判は時代遅れ、現代的意義はない」というような批判があります。

どちらかというと、こちらのほうが主流でしょうね。

そして、ぼくらがいま『思想論稿』を世に問う現代的意義は、まさにこの批判に対する回答にあります。つまり、鄧小平の改革開放は、(『思想論稿』の最終章で王が論じた)「一国社会主義」に対するスターリニストによる反動的反論の実践であり、それはついには「資本主義への一辺倒」どころか、自らも資本主義、しかもその大国になってしまったということです。この点を論じる上でも、王凡西の米中国交樹立を論じた小論を入れておく意義はあります。

つまりは、米中国交樹立に関する論考が収録されず、『思想論稿』それだけだと(文革論が収録されたとしても)、なにか「底の抜けた感じ」がしてしまうのです。つまり「一帯一路のいま、『一国社会主義批判』って間が抜けてる」「それ、今と何の関係があるの?」「たんに毛沢東思想を批判したいだけではないの」「後からだと何とでも言えるよね」などという感想を持つ読者や研究者がいるだろうと。そうならないためにも、米中国交回復批判は必要だと思うのです。

しかも王は、国交回復それ自体、あるいは世界経済との連携それ自体は批判していません。世界経済、計画、民主主義、というトロツキーの過渡期経済論にそって、さらに世界革命を叫んでいる極少数ですが貴重な論考だと思います。

トロツキーは『裏切られた革命』の最後で、ソ連邦における資本主義復活に重要な役割を果たすのは「官僚という資本主義の伝動ベルト」だと論じています。中国共産党はつねに「資本主義の陰謀は外部からもちこまれる」として民主化運動を弾圧してきましたが、じっさいには労働者農民のうえに君臨する共産党自身が、資本主義復活の最大の勢力だったということを、理論的に予言していたのが『思想論稿』の大きな功績だと思います。そしてこの60年代にかかれた『思想論稿』を現代的な理論的功績に結び付けるのが、王凡西の米中国交樹立論だとも言えると思います。

「毛沢東路線は一国社会主義から文革で破綻し、それに代わって鄧小平の改革開放による資本主義化がすすんだ」という単純な二分法が主流でしょうが、『思想論稿』に「米中国交樹立」論をつけることで、毛と鄧の両者のあいだには政治的な「一党独裁」だけでなく、経済路線や革命路線的にも、一連の論理的なつながりがあるということを示せると思います。

しかし、これらの理論的作業は、本来は20年前にやっておくべき仕事でした。ずっと放置してきた僕の怠慢に大きな原因があると思っています。すこしでもその遅れを取り戻さないとと感じています。その意味で、みなさんには感謝してます。

長くなってしまいましたが、『思想論稿』の現代的意義、という点について、思っていることを書きました。参考までにベトナム侵攻問題に関する論文の中で「一国社会主義」に触れている点を抄訳しています。参考まで。

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王凡西 「中国のベトナム侵攻に反対する」(1979年3月3日)
https://www.marxists.org/chinese/wangfanxi/1979/marxist.org-chinese-wong-1979b.htm

(略)

つまりは、中国共産党指導部によるベトナム侵攻の決定は、まったく正当な理由はないということである。では、どうしてこのような決定を行ったのか。われわれはその理由をはっきりとさせておく必要がある。

結局のところ一言でいってしまえば、それは反動的な一国社会主義の呪いである。

中国という後進国家において一国社会主義を建設するために、中国共産党はこの30年のあいだに試せることは全てやってきた。最初はソ連「一辺倒」で、「兄貴分」の「無償援助」によってそれを達成しようとした。そして、それが失望に変わり「自力更生」を強調するようになった。この道は「三面紅旗」(社会主義の総路線、大躍進、人民公社、)から「文化大革命」にまで突き進み、あらゆることを行った。そしてまた大転換がもたらされた。資本主義国家への傾倒、なかでも最も強大なアメリカ帝国主義への傾倒である。その富や科学技術を利用して社会主義を建設しようとしたのである。そのために「社会帝国主義」との対決が必要になったのである。
中国共産党のこの新路線は60年代末からはじまり、最初の成果は1972年のニクソン訪中として、そして鄧小平の訪米による[米中国交樹立]署名で完成した。この路線を採用してから、毛沢東派は外交においてアメリカ帝国主義への迎合政策を実行した。それは、ベトナムで泥沼に陥っていたワシントンを手助けし、アフリカの新興各国においては、西欧で最も反動的な勢力[とは?]と結託した親欧米の保守勢力を公然と支援し、一切の革命運動への支援を停止し、ソ連邦とその勢力圏を除いた全世界での現状維持に熱中し、最近ではイラン革命において、シャー(国王)の支援の側についたのである。

この基本路線から導きだされた方針によると、それが反ソ連でさえあれば、どれほど反動的で反共的な勢力であろうとも、北京は親密な戦友として受け入れた。逆に、親ソ連であれば、あるいはソ連邦とわずかに近づいただけでも、ひどいときにはソ連の影響を受けていると考えられただけでも、それがどれだけ進歩的で革命的な勢力であろうと、北京はすべて敵だとみなすのである。
「およそ敵の敵はすべてわが友であり、敵の友はすべてわが敵である」。中国共産党の外交政策は、この単純な公式から導き出されたものである。かれらは最も基本的なマルクス主義の立場を放棄し、国家間における階級的性質や革命的性質の問題を完全に放棄したのである。
(以下、略)

◆2022/06/24 長堀→稲垣

(略)

米中国交樹立については、稲垣さんが添付ファイルで言うように運動的観点から現代的重要性が極めて高いなら、物理的に可能である限りにおいて、収録してもいいと思います。

私などが大学時代、スターリンは否定しても、毛沢東を否定しきれなかったのは、毛沢東がスターリンに抗して中国革命を成功に導き、世界革命を試行しているように見えたからです。多分、欧州マオイストなども同じでしょうが。

しかし、今になってみれば、毛沢東の世界革命論がマオイズムの輸出、ポル・ポト、連合赤軍、などの出現促進に終わったこと、さらには、革命後の毛沢東は個人崇拝から具体的政策まで、スターリンをすっかり真似ていることがはっきりしています。あまり、触れる人はいませんが、新中国の事象はほぼスターリンのソ連とパラレルだと最近感じています。そういう意味では「米中」には先見の明があります。

(以下略)

長堀祐造拝

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王凡西 「米中国交樹立を論ずる」(1979年1月1日)


中国の労働者人民が地主と資本家の政府を打倒し、中華人民共和国を樹立してから30年がたった。そのかんアメリカ合衆国は新中国を承認せず、一貫して敵視政策を続けてきた。アメリカは中国人民によって唾棄された蒋介石親子の政権を承認し、あらゆる手段で保護することで、中国革命への敵対と破壊を継続させてきたのである。

しかしここに来てアメリカは態度を変えた。蒋介石政権との防衛協定の破棄を宣言し、「中華民国」に対する承認を取り消し、中華人民共和国との正式な国交樹立を決めた。この転換に対して、我々はいかなる立場に立つのか。

アメリカ――今日の世界におけるすべての革命運動の最大の敵――が、ついに歴史的事実のまえに首(こうべ)を垂れ、ついに忌み嫌ってきた中華人民共和国を承認せざるを得なくなり、ついに表面的には中国革命への敵視をやめたことは、いうまでもなく歓迎すべきである。それはアメリカ人民の利益からしても、あるいは中国人民、そして世界人民の利益からしても、歓迎すべきことである。

台湾の蒋介石政権を代表とする少数の極反動派を除き、この転換に反対する姿勢を堅持するものはいないだろう。なぜならこれは中国と世界すべての労働者人民が採るべき基本的な立場だからである。

革命的社会主義者は当然にもこの立場に立つ。しかし我々の立場はそれにとどまらない。我々は歓迎するとともに、さらにもう一歩、革命的立場、とくに中国社会主義革命の利益という立場を踏み出して、なぜ米中がこの時期に国交を樹立したのかを分析しなければならない。結局のところ、中華人民共和国を拒否してきたアメリカの頑迷な立場を転換させた要因は何だったのか。

国際的、そして米中両国の国内事情から分析すると、要因は複雑かつ多様である。しかしここでは全面的にその問題を議論しようとは思わない。

中国のマルクス主義革命家として我々がまず関心を持つのは、結局のところ、近年の新中国におけるいかなる変化がアメリカの政策に転換をもたらしたのか、という問題である。

「三尺の氷は一日の寒日に非ず」。かつて中国共産党の論客は、中ソ関係が悪化した過程を、このように論じたことがあった。逆の場合、つまり冷え切った米中関係が解凍する過程についても、これを用いることは可能だろう。ある一定の年月をかけて徐々に冷え切っていった対ソ関係と、徐々に解凍していった対米関係は、ちょうど対の関係にある。

新中国樹立の当初、毛沢東はソ連に対する「一辺倒」を提唱した。しかし[ソ連の指導者たちから]非道な扱いを受け、関係が悪化してからは、「自力更生」を強調し始めた。しかし無情な経済の規律は、一国だけでは社会主義を更生[実現]することはできないことを、毛沢東に証明して見せたのである。閉じられた社会主義建設の過程で、彼は次々と拡大し続ける困難や危機に直面し、ついには別の方法を考えざるを得なくなった。つまり、西側に向かう事、しかも最強のアメリカに向かって出口を模索しなければならないと。そのとき、ちょうどアメリカもベトナムにおいて泥沼に陥っており、「栄えある撤退」を苦慮し、中国の手助けを望んでいた。両者の思惑が一致したことで、訪中したニクソンが上海コミュニケを発表し[ニクソン米大統領の訪中に関する米中共同声明、1972年2月28日]、米中関係の最初の雪解けとなった。すぐに国交樹立に至らなかったのは、台湾問題において全般的な合意が得られなかったという表向きの理由はあるが、それ以上に重要な問題として、中国共産党の当時の政策がアメリカ人からすると、軍事、政治、経済のいずれにおいても十分に満足いくものではなかったからである。世界の「二大覇権国」の狭間にあった中国もまた、アメリカ側に付くという断乎たる意志を示してはいなかった。経済においても、アメリカに対して中国市場が開放される可能性もそれほど大きくなく、展望は明るいものではなかった。そのような状況でアメリカが正式に北京と国交を樹立すると、その代償として台湾の蒋介石政権との「友好関係」だけを失うことになり、割に合わないものになっていただろう。

その時から、つまり1972年初めから現在までのあいだに、中国共産党の側においてアメリカを満足させる何らかの重大な変化があっただろうか。要点を押さえて言えば次の二つである。ひとつは、毛沢東が1974年2月に提起したいわゆる「三つの世界論」である。この理論のおもな目的は、西側資本主義諸国に対して、「社会帝国主義」こそが中国共産党の最大の敵であり、この敵に反対するためには、いかなる国ともいかなる勢力とも関係を深める用意があることを示すことにあった。1976年9月に毛沢東が死去し、その一月後に「四人組」が打倒され、中国共産党の新たな権力者はこの理論をさらに発展させた。1977年11月、「毛主席の三つの世界区分に関する理論はマルクスレーニン主義に対する重要な貢献である」という綱領的な長文が公表された。それ以降、かれらは理論および行動において、世界規模の「反覇権統一戦線」を積極的に展開し、アメリカもこの統一戦線内に含まれるという声明を公然と提起したのである。ふたつめに、「四つの現代化」というスローガンの提起と強調である。この綱領は、もともと三つの世界論とおなじく、毛沢東が権力を握っている時に提起されたものである。早くには1964年の全人代においてこのスローガンが提起されている。

1975年の第5回の全人代の政府活動報告のなかで、周恩来は重点的かつ具体的にこれを提起した。しかし「四人組」が打倒されてからは、この綱領に中国共産党の新実権派から全く違った意義が賦与された。かれらは規模を拡大し、手法を改めて、このスローガンを実現するために設けられた多くの制限を撤廃した。とくに対外関係において、外国からの支援という問題において、外国の支援を利用する際に支払う代償において、新実権派の政策はこれまでのものとほとんど性質が変化してしまったかのようであった。中国は、資本主義国家から科学技術を学ぶだけでなく、大量の機械や武器などを購入し、そのうえ国際資本の中国への投資を歓迎し、さらには外国政府からの借款にまで手をだそうとしている。外国からは消費物資の輸入だけにとどまらず、アメリカのコカ・コーラまで中国国内での販売を許可している。

こうした二つの巨大な政策的転換が、アメリカの支配者の好みを十分に満足させることは言うまでもない。この転換に対する彼らの反応もまた想像に難くない。モスクワに軍事的に対抗するために、北京がみずから持参してきたこの「中国カード」を切って遊ばないわけがあろうか。北京が差し伸べてきた手を用いて、界各地で発生し、また将来も発生するであろう革命運動の火の手を消さないでおけるだろうか。アメリカが今まさに陥っている経済危機と財政破綻、巨額の貿易赤字、ドルの暴落を前にして、経済恐慌の解決を模索するために、いま目の前で開かれつつある中国市場の扉にどうして身を投じてないでおけようか。どうして日本、フランス、イギリス諸国にみすみす利益を独占させておくことができようか。

かような巨大な利益を前にしたウォール街のボス連中は、いうまでもなく台湾の蒋介石らとの「友好関係」など重視するわけもなく、抗議の声など一顧だにするはずがない。

状況は極めて明確である。この時期に米中が国交を樹立したのは、中国当局が採ってきた積極的な反ソ政策、資本主義国家に対する政治、経済路線の一辺倒が主な理由なのである。この視点から米中国交樹立をみたとき、全世界の革命家、とくに中国の革命的社会主義者は、中国社会主義革命の前途に対する憂慮と関心を真剣に表明しなければならない。

我々の憂慮と関心は、以下のいくつかの点に集約できる。

1、中国をアメリカの反ソ政策という戦車に縛り付けることに断固反対する。国際的反ソ包囲網の「切り札」を演じることに反対する。中国は主導的に交渉を通じて中ソ関係を改善しなければならない。

2、資本主義国家の科学技術に学び、それを導入することは正しいが、崇拝一辺倒になってはならない。外国からの投資、外国からの借り入れ、資本主義国家との貿易を許可することは、原則的には労働者国家の利益を損なうものではない。しかし、それに伴う政治的代償は支払わなければならず、その限度も厳格に決めるべきであり、よく検討された計画に基づき、労働者大衆による民主的監督を実施することによってはじめて、これらの[開放]政策が中国の社会主義建設に損失ではなく真の利益をもたらし、中国の革命政権の強化にとって損失ではなく真の利益をもたらし、万国の労働者階級の革命と植民地解放闘争を損なうのではなく真の利益をもたらす。

3、文化大革命における中国共産党の老幹部に対する告発において、そしてまた「四人組」の失脚の後の党の新貴族たちへの告発において、我々は中国共産党の支配が、独裁かつ腐敗、そして全能をもう想した無能であることをみてきた。今日、国家全体がまさに資本主義世界への一辺倒へと進むなかで、この官僚体制が急速かつ深刻に堕落するであろうと確信する。この過程を若干でも阻止するために、我々は最大限の社会主義的民主を要求する。

4.ソ連の60年に加え、中国の30年の経験は、一国だけでは、自力更生であろうと、資本主義との連携に依拠しようと、真の社会主義建設は不可能であることを証明した。社会主義建設は国際的任務であり、いくつかの主要国において社会主義革命が成功してはじめて、国際主義の全体的な計画と協力のもとで、すべての国家における社会主義建設を完成させることができる。ゆえに、中国の社会主義建設を真に支援する方法とは、世界革命を支援することなのである。しかし中国共産党指導部はこれまでにおいても、その道を選択せず、さらには最近では、全く逆の路線にそって進んでいる。これは世界革命に対する裏切りであるのみならず、中国の社会主義事業に対する裏切りでもある。われわれは米中の国交樹立を歓迎するにあたって、この事実を重ねて指摘しなければならない。

1979年1月1日

◆稲垣メモ
・革馬盟の機関誌『戦訊月刊』第3、4合刊(1979年2月15日号)に、同じ内容とタイトル、「三男」のペンネームで掲載。79年には「双山」のペンネームで、本論考、「カンボジア・ベトナム戦争についての我々の立場」(79年1月21日)、「中国のベトナム侵略に反対する」(79年3月3日)の3論文を収録した「インドシナ問題」というパンフを発行しています。基調は反ソ、親米路線批判。
パンフはこちら
https://www.marxists.org/chinese/wangfanxi/1979/marxist.org-chinese-wong-1979.htm

・中米関係と3つの共同コミュニケ(日本語)
https://www.fmprc.gov.cn/ce/cgosaka/jpn/zgyw1/t792551.htm

・鄧小平のアメリカ訪問(79年1月、中国語):ベトナム懲罰発言(帰国の際アメリカから日本に寄っている)
 http://cul.sohu.com/20080229/n255446586_1.shtml

・四人組打倒と文革終了、華国鋒から鄧小平へ、76年の天安門事件(周恩来追悼から出た民主化要求の裏幕とされた鄧小平に対する弾圧へとつながる)の名誉回復から78-79年の民主化運動の発展と鄧小平による弾圧。80年代の学生運動(86年)から89年北京の春と民主化運動など

・王凡西は独裁と腐敗の官僚体制による「四つの現代化」がより一層の腐敗を招くことを予言。80年代のインフレや官僚ブローカー、そして今日につながる中国資本主義化をすでに予言している。

王の「論中美建交」(筆名:三男)が掲載された香港トロツキスト月刊誌『戰訊月刊』1979年2月15日号
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