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習近平の「世界革命」!? 

習近平の三期目続投が報じられ、海外の香港人の友人に、こんなメッセージを送った。

「日経新聞が『習近平の独裁』とか『集団指導体制の終焉』と騒いでいるが、ゼロコロナ後の厳しい国内外の状況を想定しているから、胡錦涛に対する陰謀的なやり方を含めて、強固な指導体制をつくったというのが、習の三期目続投を含む今回の人事の理由ではないか」

新聞受けに入っていた新聞を広げると、「習近平の世界革命!?」と一瞬、目を疑うような見出し。よく見たら「習氏の『革命』世界に問い」だった。

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筆者は中国総局長の桃井裕理記者。前回といい、なかなか味なタイトルと内容だが、どうやら本気で習近平と毛沢東とマルクスを重ね合わせたいのは、日本のブルジョワジーのほうではないかと思うくらいしつこい。そしてツッコミどころも満載。

いわく、

「習氏は知識青年を農村で働かせる『下放』で15歳からの7年間を黄土高原の寒村で過ごし、マルクス主義や毛沢東思想に傾倒した。」

「党大会で習氏は『マルクス主義の中国化と現代化』も掲げた。毛沢東が社会主義の実現を目指した革命は、経済の窮乏を招いた。共同富裕を実現し『社会主義2.0』を達成すれば毛沢東を超える──習氏がこう考えても不思議ではない。」

「だが、見落とされている事実がある。マルクスは資本主義の発展で労働者の貧困が加速すると考えたが、実際には分厚い中間層が出現した。原動力となったのは自由に裏打ちされた個人の力だ。」

きっと窮乏化理論のことだろうけど、スターリンの第三期論以外で、マルクスやエンゲルスからレーニン、トロツキーまで、そんな単純に資本主義が発展すると労働者の貧困が加速するなどと考えた人はいない。帝国主義の搾取や大恐慌など、かなり特殊な時期や資本のサイクルの不況期には、そうなることは想定していただろうが、むしろ景気循環の好況のときにこそ労働者の組織化のチャンスだというのが普通のマルクス主義者の理論。

ここでも日経新聞は、スターリンや毛沢東らの「公式マルクス主義」の罠に陥っていると思う。陥っているというよりも共謀だな、こりゃ。そういう意味ではスターリン以来の「人民戦線」は成功しているとも。とほほ。

絶対的に窮乏化するというのはマルクスの理論よりもむしろマルサス理論のほうで、マルクスがいったのは相対的な窮乏だという指摘もある。たぶんそうだろう。

(余談:マルクスの窮乏化理論については、ドイツ社会民主党のほぼすべての議員が第一次世界大戦の戦時予算に賛成するなか、カール・リープクネヒトとともにたった二人で戦時予算反対を投じたドイツ社民党国会のオットー・リューレが後に亡命して執筆した『カールマルクスの生きた思想』に寄せて、トロツキーが書いた序文「現代マルクス主義」という論考でも言及されている。トロツキーの序文は、世界恐慌から立ち直りにむけたニューディールという資本主義の戦時経済の時期に書かれたものなので、今後の参考になるかと思い、時間があれば読んでみたいのだけど……。『トロツキー著作集 1938-39下』に収録されているので、興味ある方はぜひ)

さて次に「実際には分厚い中間層が出現した」。しかし日経新聞が指摘し忘れているのは、そのような「分厚い中間階層」の出現は、資本主義による「世界革命」、つまり帝国主義による植民地からの収奪によって成立したということである。日本の場合はいうまでもなく、日清日露戦争の賠償金と台湾、朝鮮、中国東北部の植民地経営などだろう。まさか日本のブルジョアジーは中国も同じ道を辿るように勧めているのではないだろう。

戦後の日本は植民地経営などない?世界最大の軍事力をもつアメリカのもとで、朝鮮戦争、ベトナム戦争という反共侵略戦争の特需、その70年代以降の冷戦期においては米軍基地を沖縄に押し付けるという差別的な対応をとってきた。まさか中国にも同じように台湾やアジア諸国、あるいは太平洋諸島を犠牲にした軍事特需による中間層の登場を促しているわけではないだろう。

中国共産党は、一帯一路やアジアインフラ投資銀行など、グローバル化にあたっては「帝国主義にはならない」と再三言っている。それを信じるかどうかは、進出先のアジアやアフリカ、太平洋諸国の民衆が示すさまざまな抵抗から判断したいが、すくなくとも、かつての帝国主義のやってきたことについては、その直接の被害者であり、それを跳ね返した歴史的伝統という正統性のうえにたって、国家の経営権を簒奪している中国共産党のほうが、よく分かっている。

とにもかくにも、あまりに階級理論が雑過ぎるというのが率直な感想だ。ホント、日本で最も影響力のある資本家新聞がこれでは、黄昏の日本資本主義の完全な日の入りもそう遠くないのかもしれない。大会直前に北京に翻った抗議の横断幕に書かれた「ストライキで習近平を罷免しよう」という強烈な階級的メッセージすら報道しなかったのだから、資本家新聞としては失格では?と他人事ながら心配してしまう。

しかし、日本資本主義の没落とともに新たな希望がひとりでに昇ってくるわけではない。たたかい無くして展望はない。そして、展望なくしてたたかいもないのだが、どのような展望を持ち得るのか。

「永続革命の狼煙」という、やや突飛なタイトルをつけてしまったかと反省する間もなく、党大会は、堂々たる空虚な《インターナショナル》の演奏のうちに終了してしまったのだが、その日の夜、中共ナンバー2として登場した李強が、トップとして君臨して2か月にわたってロックダウンを強行した上海で、北京に翻った抗議の横断幕を連想させる「不要、不要、不要、不要、不要」の文字が書かれた横断幕を掲げた若者ら数人が、夜の上海の街頭(しかも車道!)を、《インターナショナル》を歌いながら行進する映像がYOUTUBEで紹介された。



思わず「よくやった。革命の精神は死なず」と独り言。上海は、中国語版インターナショナルの歌詞の訳者の一人である陳喬年(陳独秀の次男)が国民政府に逮捕され、1928年に26歳で処刑された都市でもある(兄の陳延年も前年27年に29歳で上海で処刑されている)。現在、よく歌われるフレーズの「这是最后的斗争,团结起来到明天」(これは最後の闘争 団結して明日を迎えよう)は陳喬年らの訳詞を採用している。

最後に、インターナショナルを歌う彼女たちの映像をSNSで紹介したときのコメントを紹介して、おしまいにしよう。

「10/23、中国共産党大会が終了した日の上海。かの横断幕を思わせる「不要、不要、不要、不要、不要」と書かれ横断幕を持って《インターナショナル》を歌う!万国の労働者、大会堂の公然たる陰謀詭計のセレモニーの空虚な演奏にではなく、街頭の隠然たる人民の抗議の声に団結せよ。」

(以下、執筆途中だけど、いつ続きが書けるか分からないので、ぶら下げときます)

毛沢東が(主観的に)本気で考えた「世界革命」は一国社会主義をベースとしており、ごくごく当たり前のマルクス主義理論からすれば、それはかなり的外れな政策であり、スターリン以降のほとんどの公式共産党が、一国社会主義の理論に基づいている。さらにそれは、「人民民主主義」や「人民戦線」に象徴される中国共産党お得意の「人民」理論に基づいているが、それもまた、マルクスののちに、実際に革命で権力を握ったレーニンの理論からは、完全にとまでは言わないにしても、かなりズレている。一国社会主義の理論はスターリンのものだし、「人民」理論は、分かりやすく言えばロシア2月革命後の臨時政府(レーニンと激しく対立した)の理論であり、スターリンもまた当時その理論の中にどっぷりつかっていた。

毛沢東の革命理論が、いかにスターリンからの借り物であるのかについて、そしてそのスターリンの理論がいかにマルクスやレーニンから外れているのかについては、絶賛発売中の『毛沢東思想論稿 裏切られた中国革命』(寺本勉、長堀祐造、稲垣豊訳、柘植書房新社)に詳しいのでぜひ読んでもらいたい。

さて、先に紹介した日経記事の習近平にかんする論評だが、「マルクスや毛沢東に傾倒した」?あの時期はみんな「傾倒」するしかなった。さもなくば反革命のレッテルを張られたのだから。中共お得意の指導者の伝説づくりの罠に、まんまとハマっているとしかいいようがない。農村から早々に北京に逃げ戻ってきた習近平は、その後、再度農村に「下放」されたが(そんな青年は幹部の子弟だけでなくごまんといた)、文革末期には北京の清華大学に推薦で入学、その後、他の太子党と同じように、親の口添えでいくつかの地方のトップを務めるのは鄧小平の「改革開放」以降のこと。父親の習仲勲は文革で打倒されたが後に名誉回復し、広東省の第一書記となり改革開放の旗振りとして深圳経済特区を運営した。その息子の習近平にマルクスも毛沢東も必要ない。必要があるとすれば、中国共産党の神話としての「毛沢東思想」であり「中国化されたマルクス主義」であるが、それはまた批判的思考としてのマルクス主義とは無縁の、上意下達の公式マルクス・レーニン主義という名のスターリン主義に他ならない。

父親の習仲勲が文革で批判されるなど、その後の権力闘争のなかで、習近平が文革式の権力闘争に倣っているといった習評伝もいくつか見られるが、彼個人の心の内を知ることはできないが、はっきり言って改革開放以降の鄧小平が実権を握ったとき、文革で批判され、打倒された幹部の多くが名誉回復を果たし、その後の改革開放の中核を担うカードルになるが、習近平もまたその一人であり、習やそのブレーンらが、文革を再演しようとしているなどと本気で考えるのは、あまりに無知ではないか。文革時代のクソ使えない地方ボス化していたド官僚どもを追い落とすことに、鄧小平ら実権派がどれだけ苦労したか、習近平ら当時の太子党なら知らないはずがない。

もし仮に、習近平が文革スタイルを模倣しようとしているのであれば、民主集中制とはまったく無縁の党内権力闘争や陰謀でしか、後継者を選出できない毛沢東以来の中国共産党の宿痾によるものだが、実のところ、「世界革命」どころか(そんなものは内政干渉に反対した55年バンドン宣言で放棄している)、「革命」それさえ、鄧小平時代には縁を切っている。

(未完)

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