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永続革命の狼煙~中国共産党第20回大会がはじまって

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10月16日に中国共産党大会がはじまってからも忙しくてほとんど情報を仕入れてなかったが、10月18日今朝の日経新聞に「習氏『毛沢東超え』示唆」という見出しで、習近平体制が、毛沢東が実現できなかった台湾統一と中国化されたマルクス主義を世界化にすることを目指しているという、中国総局長の桃井裕理記者の記事。全人代ではなく共産党大会なので、やはりこういう方面からの論評は必要だと思う。

・習氏「毛沢東超え」示唆 党大会報告、にじむ思惑 「マルクス主義の後継者」演出(日経新聞2022年10月18日)
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65219170X11C22A0EA1000/
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記事によると、活動報告では、毛沢東をはじめ歴代指導者からの継承が省略された習近平体制が直接マルクスの思想的な継承者であるかのような記述が目立つという。

◎「習近平=毛沢東(越え)」への違和感

そして、毛沢東時代にも好んで使われた「プロレタリア階級は全世界を解放して初めて自己を解放できる」というマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』に由来するセリフを紹介しつつ、記事はこう述べている。

「全人類の解放とは世界各国での社会主義革命を意味する。多くの人にとっては単なる”レトリック”だが、毛は実際に東南アジアなどで様々な工作を仕掛けた。…習氏がめざすものが『毛沢東並み』ではなく『毛沢東超え』ならば、世界の混乱はさらに大きなものになる。」

着眼点はおもしろいのだけど、やはり陳腐とまでは言わないが、一般的な「毛沢東主義」の印象をぬぐえない。

開かれたマルクス主義の立場から毛沢東思想を批判した中国トロツキスト王凡西の幻の名著『毛沢東思想論稿』の翻訳をお手伝いした(ひっかきまわした?)一人としては、同書や筆者らが長年にわたって展開してきた毛沢東思想や中共路線の批判に比べると、日経新聞の「習近平=毛沢東(越え)」といった論調は、やや違和感を覚える。

違和感の根幹は、王凡西に「マルクスやレーニンの膝くらいには届くかもしれない」と酷評された毛沢東とくらべると習近平はくるぶしにも達しない、という点にあるのではなく、日経新聞をはじめ一般的な「毛沢東主義」の認識にある。つまりは、かつてよく見られたプロパガンダ肖像画「マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東」と同じコインの裏側から、毛や習の政策を批判しているにすぎないのではないか、ということ。

もう少し分かりやすく言えば、毛沢東をマルクスやエンゲルス、あるいはレーニンの正当な思想的実践的後継者であるという立場から毛を批判し、そしてその毛の正当な思想的実践的後継者として習近平の一連の政策を批判することで、マルクスから習近平を同じ並びに置くという、中国共産党と同じことを、逆の立場からやっているだけではないか、という違和感だ。

◎語義矛盾だらけの公式報道

党大会二日目、自分のSNSのタイムラインに新華社のSNSのこんな文言が流れてきた。

「これからの中国共産党の中心的な任務は、全国各民族人民を団結させて率いて社会主義現代化強国の全面的完成という二つ目の奮闘目標を実現し、中国式現代化を中華民族の偉大な復興を全面的に推進することである」

これに対して、すぐにこんなコメントを付けた。

「語義矛盾だらけの文章だ。社会主義を現代化させた強国?社会主義を現代化させたら国家主義も大民族主義も強くなるのではなく弱くなるのは常識なのだけど。もう『特色』というより『反動』としか言いようがない。」

何が言いたいのかといえば、マルクス主義の基本のキである国家論そのものからして中国共産党は間違っているのであり、共産主義の未来社会を「生産者の自由な連合」としたマルクスやエンゲルス、あるいは共産主義へ向かう過程を「国家の死滅」とし、社会主義とは「階級なき社会である」と述べたレーニン、そしてそれを実現するための一時的な形態として「プロレタリアによる独裁」を想定・実践したが、中国共産党は「プロレタリアに対する独裁」というスターリンの教義をそのまま学び、今に至っている。

◎「毛沢東の中国」を批判するスタンスとは

しかし注意が必要なのは、そのような「プロレタリアに対する独裁」だとしても、王凡西は毛沢東ら中国共産党の革命家たちのなしえた中国革命を清算的に批判してはいない。批判の力点は、毛沢東がスターリンから学んだもう一つの教義である、一国社会主義や人民民主主義の教義(その急進的戦術の表れとしての「人民戦線」や「人民共和国」そして「国共合作」!)に置かれている。それは、内外政策のジグザグをもたらし、やがては激しい社会的亀裂をもたらすのだが、王はここでもまた、亀裂がさらに崩壊をもたらす、という清算的な結論ではなく、激しい社会的亀裂のなかから社会革命に向けた次の展望を、常に人民のたたかいのなかから注意深く掬い取ろうとしている。

この点は、じつは今日の赤裸々な階級社会となった習近平の体制への批判のスタンスとは異なる。この点については後述したい。

◎一党独裁+市場改革を懇願する日経新聞

当たり前だが、日経新聞の論述にはそのような視点は皆無だし、また他の論述についても見かけた記憶はない。10月18日の日経社説などは、凡庸なる独裁者の習近平に対して、一層の経済自由化を通じた経済復興を懇願する始末だ。

・中国経済浮揚へ市場重視に大胆な転換を(日経新聞10月18日社説)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK172LB0X11C22A0000000/

苛酷な階級社会である中国において、独裁者主導による経済自由化を通じた経済復興?ピノチェトかよ!と言いたくもなる。

社会主義への道は一党独裁ではなくプロレタリア独裁のはずだが、一党独裁を批判する言葉すらない。没落しつつある日本ブルジョアジーの代弁者は経済が回復すれば一党独裁でもいいのだろう。アベノミクスというアヘンで完全にマヒしてしまったようだ。

◎凡才が一億党員の上に君臨する必要性

とはいったものの、気にはなるのが当初から凡才と言われて久しい習が、なぜ生き馬の目を抜くような中国共産党内の権力闘争を争う一億党員のうえに、唯一の「独裁者」として君臨することができるのか。そこには常に求心力と遠心力が働く利害関係に根を張る組織的人脈によってつくられた派閥間のバランスのうえにある官僚機構の要請がある。

毛沢東時代も当然、利害関係による派閥はあったが、それがよって立つ階級的基盤はいうまでもなく労働者階級であった。官僚機構が労働者に擁立されていたというよりも、労働者の頭を踏みつけて土台にして君臨していた、というほうがよりイメージしやすいだろう。もちろん余り乱暴に踏みつけすぎると、土台自身が崩れるか、反乱を起こすので、下部になればなるほど官僚機構は労働者に気を遣わざるを得なかった。そのような意味からも、巨大な官僚機構によって踏みつけられ歪んでしまってはいるが、労働者国家という性格はあったと思う。

◎習近平の10年:「プロレタリア(に対する)独裁」の全面的完成

しかし、全く乱暴に踏みつけられた労働者らが蜂起した70年代からの幾たびの反乱は、89年6月に人民解放軍の戦車で圧殺された。さらに90年代以降の民営化による大量リストラに象徴される資本主義グローバリゼーションという新しい鉄鎖による人民(に対する)戦争によって賃奴隷となった。紙の上ではいまだ「主人」であるにもかかわらず、それはもう、労働者の分厚い胸と硬い頭のうえにまたがったかつての体制ではなく、世界中の資本主義企業につながった官僚機構から伸びる冷徹な無数の吸血ストローによって労働者や農民の生き血を吸って膨れ上がった、まったく違ったシステムになった。まさにジョージ・オーウェルの「動物農場」の最後のシーンである、支配者である豚(官僚)が、敵であった人間(ブルジョア)と瓜二つの姿になっていく情景を思い浮かべる。そういう意味では、「プロレタリア(の上に君臨する官僚)独裁」から、「プロレタリア(に対する)独裁」となってしまったのが、習近平の10年だったと言えるのではないだろうか。

◎指導階級?

話しを記事に戻そう。記事で紹介されている「プロレタリア階級は全世界を解放して初めて自己を解放できる」という一文。じつは共産党宣言にはでてこない(と思う)。いろいろググってみたら、エンゲルスがマルクスの死んだ年である1883年に書いたドイツ語版序文のつぎの一文のエッセンスを分かりやすくまとめたものだという。

「全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会発展のさまざまな段階での搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であったこと、だが、いまではこの闘争は、搾取され抑圧される階級(プロレタリアート)が、かれらを搾取し抑圧する階級(ブルジョアジー)から自己を解放することは、同時に全社会を搾取、抑圧、階級闘争から永久に解放することなしにはもはや不可能であるような、そういう段階に到達している」── エンゲルス1883年

かの人民共和国は、憲法の第一条でこう述べている。

「中華人民共和国は、労働者階級が指導し、労働者と農民の同盟に基づく人民の民主的独裁の下にある社会主義国家である。」

この「指導」する階級が、『共産党宣言』の「搾取され抑圧される階級とかれらを搾取し抑圧する階級」のどちらにあたるのかは言うまでもない。

◎階級協調と極左冒険のジグザグ

冒頭に紹介した日経新聞の記事では、毛沢東が成し得なかった二つの事業を、習近平は実現しようとしているという。ひとつは台湾統一。もうひとつは、中国化されたマルクス主義の世界化である。台湾問題については、また別に書いてみたいが、とにかく「米中対立」だけで台湾問題を考えることは避けたいとおもう。なによりも民主化を実現してから40年近くがたった台湾社会、さらに言えば台湾の階級闘争の観点から考えるのが筋だろう。これはまた稿を改めて検討する必要があろう。

もう一つの、「中国化されたマルクス主義の世界化」だが、日経新聞の記事は「毛は実際に東南アジアなどで様々な工作を仕掛けた」という。確かにそうなのだが、日経新聞の記事が「再来」を懸念する文化大革命から東南アジアへの工作が出発したのでなく、それとはまったく逆に、スターリニズムの階級協調をベースとした東南アジアへの工作の大敗北(インドネシア930クーデター)を糊塗するためのジグザグ極左路線として、文化大革命が発動されたというのが、王凡西をはじめとする、中国トロツキストの分析だった(国内的には人民公社など空想的集団化の大失敗としての大飢饉)。

つまり、日経新聞などの一般的な毛沢東主義の失敗の捉え方は本末が転倒しているのではないか。その意味で言えば、国内経済政策も失敗し(不動産バブルの廃墟群がそれを物語っている)、鳴り物入りの「一帯一路」も、「債務の罠」の典型のようなスリランカの事態をはじめほころびが見え始めている。コロナ対策ももう2年も前に「人民戦争」による「勝利宣言」をしたにもかかわらず、いまだに「人民(に対する)戦争」が続けられている。

◎たたかいの狼煙はあがりつづける

党大会の3日前の北京では、「人民(に対する)戦争」に対する反乱の狼煙が「ストライキで独裁国賊習近平を罷免せよ」「指導者ではなく普通選挙を」「奴隷ではなく主権者たれ」という直截的なスローガンとともに翻ったが、SNSを通じた情報拡散は、あっという間に圧殺された。この横断幕のスローガンの内容をさらに展開させた綱領的な文章《罢课罢工罢免习近平攻略》(学生と労働者のストライキで習近平を罷免するための攻略法)がウェブ上で流布されている。これを書いたとされる彭載舟さんとは連絡が取れなくなっているようだが、この文章のなかに「我々は何者か」という項目がある。

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これは「われわれは何者か」のリストの冒頭のみで、実際はもっとながい。
以下、ざっと訳してみよう。

5 我们是谁?(我々は何者か)

我们是没有社保的农民工(我々は社会保障のない農民工)
我们是看不起病的底层群众(我々は病院にも行けない底辺大衆)
我们是没有工作的灵活就业者(我々は仕事もないフレキシブル就業者)
我们是毕业即失业的大学生(我々は卒業したらすぐ失業者になった大学生)
我们是被一纸文件砸碎饭碗的教培职工(我々は通達一枚で仕事を失った教育産業労働者)
我们是大都市中被清理的低端人口(我々は大都市から排除されたローエンド人口)
我们是合法经营的小微商户(我々は合法的に営業してたSNSショップ店主)
我们的门店被封了门堵了洞(我々のショップアカウントは凍結された)
我们是濒临破产的服务行业从业者(我々は倒産に直面するサービス業の労働者)
我们不是房贷逾期就是准备跳楼中(我々は住宅ローンの支払いに四苦八苦するかマンションから飛び降りようかを考えている)
我们是被吸干三代财富的房奴(我々は住宅ローン地獄で三世代の収入を搾り取られた)
我们是不敢生育的丁克家庭(我々は子どもを生めないDINK夫婦)
我们是都市的打工仔(我々は都会への出稼ぎ労働者)
我们的孩子只能是留守儿童(我々の子どもは故郷で留守番)
我们是高考录取分数极高省份的家长(我々はセンター試験で高得点でないと入学できない地域に住む親)
我们是和父母分离回老家高考的高中生(我々は両親のいる実家から遠く離れた高校に通う高校生)
我们是被拐卖无处伸冤的铁链女(我々は売り飛ばされて鎖につながれて自由を奪われた女性)
我们是受诋毁打击的公知和园丁(我々は打ちのめされた知識人と教員)
我们是房屋被强拆的原住民(我々は住居を取り壊された先住民)
我们是摇号买车上学的公民中的二等(我々は抽選でやっと買えた車で学校に通う二等市民)
总之(つまりは)
我们不是独裁者口号中的人民(我々は独裁者の叫ぶ「人民」ではない)
我们更不是专制者口号中的群众(我々は専制主義者の叫ぶ「大衆」でさえない)
所以(なので)
我们不在沉默(我々は沈黙しない)
不在为独裁者的无能埋单(独裁者のためにタダ働きなどするものか)
我们不在做韭菜(我々は韮のように唯々黙って)
任凭权贵的镰刀任意宰割(権力者のいいように刈り取られはしない)
我们不在做奴隶(我々は奴隷のように唯々)
任凭权贵奴隶主任意压迫(権力者のいいように押しつぶされはしない)
我们要勇敢的站出来(我々は勇敢に立ち上がる)
我们要成立自己的组织(我々は自分たちを組織化し)
为自己的利益呐喊(自分たちの権利のために叫ぶ)
我们要成立自己的党派(我々は自分たちの党を結成し)
为自己的权益抗争(自分たちの権利ためにたたかう)
我们不需要独裁领袖(我々には独裁的リーダーはいらない)
我们需要的是为人民服务的公共保姆(我々に必要なのは人民に奉仕する公共奉仕者)
我们不需要独裁统帅(我々には独裁的総統はいらない)
我们需要的是保护公民利益的法制(我々に必要なのは市民の権利を保護する法制度)
我们不需要为独裁者唱赞歌(我々には独裁者のための賛歌はいらない)
我们需要的是可以对独裁者弹劾批评(我々に必要なのは独裁者に対する弾劾や批判)
我们需要做自己的主人(我々は自分自身の主人にならなければならない)
我们不需要生活在牢笼(我々は檻のなかでの生活など必要ない)

最後の二句は中国語「インターナショナル」の歌詞の一部を彷彿させる。この文章の全体の性格は08憲章のようなリベラル派のもので、国有企業の現場労働者などへの言及はないし、むしろより一層の民営化を提唱するのだが(厳しい階級社会のいまこそ、国有企業を本当の意味で全ての人民のための社会的企業に転換せよ、労働組合を民主化せよ、という要求が必要なのだが…)、激しい階級社会を反映した労働者階級の訴えを反映したものになっている印象がある。全文はこちらからみることができる。

中国語インターナショナルのサビにある「最後の闘い」はまだまだ先のはなしだが『毛沢東思想論稿』を貫く王凡西の思想的ベースである「永続革命」の兆しは、四通橋にあがった狼煙のように、全国全世界であがりつづけている。万国の労働者、団結しつづよう。

2022年10月21日

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