
(わー、すごい久々の更新…)
マーシ・ショア『ウクライナの夜 革命と侵攻の現代史』(池田年穂訳、慶應義塾大学、2022年6月)を読んでいます。
・『ウクライナの夜 革命と侵攻の現代史』公式サイト
https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766428285/
たいへん面白く勉強になる。ウクライナ問題を論じる上で必読の一冊。もう8年もまえのことだが、これまで日本で紹介されておらず、ここで書かれてある事実も知らずにウクライナ云々を語っている自分が恥ずかしいくらいです。人名や地名がたくさんでてきますが、不慣れな方は、あまり気にせずに読んでください。
「第I部 マイダン革命」と「第II部 キーウの東の戦争」に分かれています。
著者のマーシ・ショアさんは米イェール大学の教員。ユダヤ系でイーデッシュ語、ポーランド語、ウクライナ語、ロシア語、ドイツ語などを駆使して、ウクライナ人をはじめ多彩な人々への取材を通じて本書を執筆している。
書き出しは哲学的で歴史の話しもややまったりとした感じでしたが、マイダン革命の箇所に入ると(26p以降)、いろんなひとたち(バンドのスターもいれば市井の庶民もいる)の話がでてきます。コロナに感染したり、たくさんの人名がでてくるので人名索引をつくりながら読んでいるので、まだ第一部の途中(56頁)ですが、ほー、と思ったところを紹介しておきます。
【マイダン革命について】
マイダンに行くことは、デモに参加するばかりでなく、それまでと変わる世界に足を踏み入れることを意味した──若い編集者で翻訳家でもあるネリア・バホウスカの説明によれば、「情熱的で、社会的にもイデオロギー的にも雑多な要素からなる」世界だった。マルキヤーンは、人々のあいだに普段はあった境界がなくなり、見知らぬびとと話すのがとても簡単になった、と説明した。あるライターの描写によれば、マイダンは「社会的接触の実験所」であり「ドニプロペトローウシク州のIT技術者と(山岳民族の)フツル人の羊飼い、オデーサの数学者とキーウのビジネスマン、リヴィウの翻訳家とクリミア・タタールの農民が連帯できる場」だった。ヴィクトーリヤ・ナリジュナとイーホル・ペトローヴシキが気づいたのは、マイダンにおいては、博士号を持つたくさんの都会の男女が生まれて初めて農民たちと会話したし、逆もまた真だったということだ。38p
ユルコは、この革命は「最大限にオープン」であり、きわめて異なるプログラムをも受け入れている、と説明した。リベラルも、社会主義者も、民族主義者も、奇人もいる。それと同時に「そのような多言語性や、イデオロギー上の多声音楽に対する実存的な寛容さ」だけではすべてを説明できないと指摘した。そこには、たとえば左派と、民族主義的極右のズヴォボダ(「自由」)党や「右翼セクター」のあいだに見られるように、真の相違と緊張が存在するのだ。46p
マイダンにおける極右、左翼、フェミニストの関係については、「10 ノアの箱舟」44-49pで触れられています。
【バンデラ主義者】
マイダンのスローガンの一つは「ウクライナに栄光を!英雄たちに栄光を!」だった。これは70数年前にウクライナ蜂起軍(UPA)、つまりウクライナ民族主義者組織(OUN)におけるステパン・バンデラ派とつながる軍事組織のスローガンだった。1941年6月、ドイツがソ連を攻撃し、ドイツ国防軍がウクライナ西部に到着したとき、ステパン・バンデラの追随者のうち少なからぬ者たちが率先してユダヤ人殺害に加わった。・・・マルキヤーンは私に語った。「僕の世代の多くは、バンデラがどのような人間なのかもしらない。それでいいのだと思う。」45-46p
「彼らは自分たちを愛国者だと呼んでいるが、その実態はナチスだ」と、10代のロマン・ラトゥシュヌーは、しばらくのあいだ市庁を制圧していたズヴォボダ党を指して言う。47-48p
【プーチンのプロパガンダを利する極右】
マルキヤーンにとっては、スヴォボダ党はならず者を意味していた。党員のなかにはクレムリンの工作員もいて、マイダンはファシストでいっぱいだというプロパガンダのタネをつくるために金をもらっているんじゃないか、とマルキヤーンや疑っていた。・・・オレクシーは、ズヴォボダ党や右翼セクターのメンバーたちが実際に金を貰っている工作員かどうかはわからないが、彼らが「主観的には」ウクライナの民族主義者だとしても、彼らの存在は「客観的には」クレムリンを利している、と指摘した。もし彼らが存在しなければ、プーチンは彼らのような存在を作り出さざるをえなかっただろうし、彼らがいない方が、マイダンはウクライナ東部の人間をより多く集めることができたに違いない──彼ら東部の人間たちはヤヌコーヴィチ(大統領)の支配に同じように苦しめられていたが、ガリツィア(ウクライナ西部)からきたファシストどもがロシア語を攻撃しにやってくると信じこまされがちだった。48-49p
【フェミニストを襲撃する極右】
映像文化センターでのオレクシー・ラドィンシキー(左派の若い映画製作者)の同僚である25歳のナターリア・ネシェヴェッツが、私をタラスとロマン・ラトゥーシュ(父子)に紹介してくれた女性だった。11月にユーロマイダンが発足した最初の日々、なたーりあと彼女の友人たちは極右の攻撃に標的になっていた。作成したフェミニストのポスターは破かれ、彼女たち自身もときには催涙ガスで(極右に)攻撃された。11月30日のあとになると、彼女が「ナチス」と呼んだ小さな集団の数々は、ナターリアの説明によれば、以前と変わらず存在していたものの、より人目につきにくくなっていた。48p
【極右を拒否しつつマイダンに留まった左派】
ポーランドの左派活動家スワボミール・シェラコフスキーは民族主義者の存在を擁護したが、そこが(左派の若い映画製作者の)オレクシーらのウクライナ人の友人たちとは違っていた。オレクシーは「ウクライナに栄光を!」というスローガンを嫌っていた。スワボミールに言わせると、このフレーズは国粋的としか言いようのない意味はもはや失っていたのだが、オレクシーらは彼に同意せず、このスローガンを拒絶した。それでも、左派の若者たちはマイダン革命を通じて勇敢にふるまい、最後の最後までそこにとどまった。48p
・・・以上紹介したのは「主義者」の話が中心ですが、ほとんどは主に著者の知り合い(なので多くは文学者や編集者など)の話です。普通の人たちのマイダン蜂起に対する思いなどを、彼女なりの分析を交えて紹介していますので、大変面白い。
2013年11月21日にヤヌコーヴィッチ大統領がEUとの経済協定締結を凍結したことへの抗議でマイダンに人々が集まったこと、20日後の12月10日にベルクト(武装警察)をつかってマイダンを暴力的に粉砕しようとして、それに怒った人々がさらにマイダンにたくさん集まったこと、さらに一ケ月後の2014年1月16日に国会議員を自由に罷免し、デモ隊を自由に弾圧できる「独裁者法」を国会手続きを簡略化した挙手によって強行採決して(ヤヌコーヴィチの地域党でさえ反対する議員がいたがウクライナ共産党は全党一致で賛成!)、それがさらに人々の怒りを買いマイダンを急進化させたこと、そしてベルクトによる暴行でデモ隊に死者がでたことなどがよくわかります。
「第II部キーウの東での戦争」はまだ読んでいませんが、2014年後半から本格化したドンバス内戦をあつかっているので、たぶんもっと重たい感じになるのだろうと思いますが、22年2月のプーチンのウクライナ侵略に直接つながる東部ドンバス地域の問題なので、これもまた襟を正して読んでみたいと思っています。
タイトルの「ウクライナの夜」は詩人マヤコフスキーが1926年に創作した作品「ウクライナに対する義務」(Долг Украине)にでてくる一節だそうです。ほー。
君たちは、ウクライナの夜 を知っているか?
いいや、君たちは、ウクライナの夜 を知ってはいない!
ここでは、空は 煙で 黒く染まる
──ウラジーミル・マヤコフスキー
ソ連邦崩壊からマイダン蜂起、ドンバス内戦からウクライナ侵略に至るまで、ウクライナ市民や左翼の奮闘、全然しりませんでした。まず知ることが「ウクライナに対する義務」だと思いました。
いま当時のウクライナ左翼の主張なども調べています。本当に2019年の香港とよく似ている(より暴力的ですが)。ここでもまた、あらためて独立左派の視点に学んでいます。

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