「八児の母」動画
動画の投稿主は、中国政府の推奨する「プラスエネルギー」や「助け合い精神」を宣伝するため、悲惨な女性に優しい声をかける映像を撮りたかったようだが(「寒くないですか」「御飯が冷えてますよ」「暖かい服をきさせてあげますね」など女性を気遣うそぶりだが、無断で離れ小屋に入って勝手に撮影している感じ)、その動画を見た全国のネチズンからは「寒さよりも首につながれた鎖につっこめ!」「なんで誰も彼女を救出しない」などの猛烈なツッコミがあがった。祝賀ムードに水を差してはならないと慌てた地元当局がソッコーで調査し、ソッコーでこの夫婦の婚姻関係には問題がないなどと発表した。
だが、あまりに不自然な事態に全国のネチズンから「だったら証拠を出してみろ!」などと一斉に当局批判の書き込みがあったり、「もしかしてこの行方不明の少女では?」とよく似た子どもの写真などがネット上を駆け巡った。そして、その後の調査で、実は女性は子どもの頃に誘拐されこの夫に買われたことがわかり、2月10日、ついに夫と売人らが当局に拘束された。
しかし実は女性が監禁されていた家庭は、政府の貧困支援対象家庭で、恐らく地元当局も彼女の存在を以前より知っていた可能性がある。少なくとも夫は何度も政府の貧困支援を受けたり「親切な」ネチズンらかの差し入れを受け取っていたことが、中国政府の推奨する「ひとりひとりが貧困支援を」という政策に迎合することでポイントを稼ごうとしたネチズンらのSNSへの書き込みや投稿動画などから分かっている(ちらっと母親が映っていた写真もあったという。「端傳媒」のこちらの記事(中国語)も参照)。
まさに祝賀資本主義の本領発揮ともいえる事件。「失うものは鉄鎖のみ」という「共産党宣言」の終句を地で行くような苦難に喘ぐ中国の人々とどうつながるのか、考えなければならないことは多い。
以下は、中国国内の開明的なメディアで編集者を務め、現在はドイツに在住するライターの長平氏が、この事件と北京冬季五輪の問題を関連付けた「ドイツの声」(中文サイト)の記事からの翻訳。原文はこちら。https://bit.ly/3JrlGz1
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長平レビュー:谷愛凌、彭帥、朱易と「八児の母」
谷愛凌(Eileen Gu)、彭帥、朱易(Beverly Zhu)、そして豊県の「八児の母」(彼女は現在の所、確定した名前がない。楊〇侠あるいは小花梅あるいは李莹)……この数日、数名の女性たちの物語が中国の全体像を表現している。しかし、中国メディアでは谷愛凌ただ一人だけが突出して報じられている。他の3人は厳格な検閲、統制、隠蔽の憂き目にあっている。より正確に言えば、谷愛凌も率先して自己審査で検閲に協力しており、きらびやかなイメージの演出に一役買っている。アメリカで育った「天才少女」は、北京冬季五輪のフリースタイルスキーのビックエアの中国代表選手として金メダルを獲得しただけでなく、アメリカの有名大学に入学する秀才であり、多くのファッションブランドを宣伝する気鋭のモデルとしても活躍している。
◎ 「天才少女」の嘘と政治
かつて中国メディアの寵児だった女子テニスダブルスの世界チャンピオン・彭帥。いまではほとんど中国世論から消えた存在になっている。しかし西側メディアにおいては、彼女への関心は谷愛凌に勝るとも劣らない。というのも去年11月に、彭帥は前副総理の張高麗からセクシャルハラスメントを受けたことをウェイボー(中国版twitter)で告発したあと数週間、人々の前から姿を消したからだ。その後、外国メディアの取材に応じた彼女はあきらかに当局のおぜん立てとシナリオ通りに演じ、当局の意図に完全に合わせる発言を行った。それはまるで中国ではおなじみの「テレビを通じた犯罪自白」とよく似ていた。政治の話はしないと公言している谷愛凌も、この政治スキャンダルのなかで役割を演じている。彼女は金メダルを獲得したときのインタビューで、「本当に彼女(彭帥)が明るく、元気そうで、やりたいことをしているのを見て感激した」と語っている。谷愛凌と彼女の母親の谷燕は取材で政治的話題を振られることに極めて敏感であり、自分たちが発言を当局が必要としているのか、必要ならどのような発言を望むのか、ということをはっきりと認識している。あるネチズンによると、谷愛凌と彭帥の違いは、スポーツ好きの政治指導者が関係しているかどうかだけだという。
谷愛凌との距離で言えば、朱易のほうがもっと近いかもしれない。二人の年齢はほぼ同じ、そしてどちらもアメリカで生まれ育ち、国籍の件でもよく分からないまま中国代表選手としてオリンピックに参加しているからだ。不幸なのは、朱易のほうは(フィギアスケート)競技で転倒してしまったことである。その結果、彼女は多くのネチズンから嘲笑と侮蔑を受けた。新浪ウェイボー(ポータルサイト新浪の提供するSNS)では「#朱易がこけた」のついたつぶやきが2億件にのぼった。多くの書き込みも、彼女のことを「恥知らず」「なるようになれ、だな」「どの面下げて」などと論じている。これに関して、谷愛凌は不誠実にも、Instagramで公然と次のような嘘をついている。「中国のSNSを使っているユーザーは、90%以上が前向きで、人々を奮い立たせるようなコメントをしている、私はそう思っています。これ(肯定的なコメント)はスポーツの一部であり、誰もがその事をよく理解しています。」
Twitterでは谷愛凌に対してこんな質問が寄せられた。「あなたはInstagramを使えるのに、なぜ中国の一般庶民はInstagramを使えない?」 それに対して谷愛凌はまた嘘でコメントを返している。「(中国では)誰でも無料でVPN(Virtual Private Network=仮想専用線)をダウンロードして利用できます。」(VPNを使うと当局の規制をすり抜けてInstagramを利用できるという意味:訳注) だが中国では、すくなくとも100人以上がVPNを利用した検閲回避を理由に、警察から呼び出されたり、警告や処罰を受けたり、実刑判決を受ける者さえいるという報道もある。
中国政府の歓心を買う西側の人間と同じように、谷愛凌も米中両国の国民の「コネクション」(つながり)と「インタラクション」(交流)の促進という主張で自らの政治的立場を擁護している。学業でも突出した成績を残していると言われているこの「天才少女」と、高学歴の母親は、中国庶民がTwitter、Facebook、YouTube、Instagramといったサービスの利用を制限されていることを知っているし、100万もの無辜のウイグル人が拘留され、外の世界と「コネクション」も「インタラクション」もできないことも知っているはずだ。英語も中国語もつかって自由にインターネットサーフィンができる彼女たちが、「8人の子どもたちのお母さん」の不遇を知らないはずがない。だが、谷愛凌は「賢明」にもそれらのことには沈黙しつづけている。このことからも「コネクション」と「インタラクション」が一種の政治的嘘であることが分かる。
◎ 谷愛凌と「八児の母」との距離
ざっと見たところ、谷愛凌と「八児の母」の距離が一番遠いようだ。谷愛凌は、あと10億回生まれ変わっても、自分が「八児の母」のような悲惨な状況になることはないと思っているようだ。だが「八児の母」の不遇は一般のネチズンにとっては、ぞっとする事件だ。たとえばウェイボーの@托尼趙四塔克というアカウントはこうつぶやいている。「10億回生まれ変わっても谷愛凌にはなれないが、豊県の母のような境遇に陥る恐怖とは隣り合わせだ」。また@TiAn咸魚安というアカウントで公開された「彼女と彼女の距離」というイラスト漫画が30万回もリツイートされ、それもまた検閲で削除されている(イラストは一番下にはりつけています:訳者)
私はこう見る。もし「八児の母」の物語がそれほど社会的怨嗟を呼んでいなければ、「八児の母」と谷愛凌の距離は一番近かったかもしれないと。というのも、すばらしい経歴を持つ谷愛凌の人生で、唯一欠けているのが「道徳」の二文字だからだ。彼女の宣伝チームは、たとえば学校に通えない子どもを支援して「感動中国」の宣伝にさらに一役買うために、いま必死に「八児の母」を上回る「プラスエネルギー」(原文:正能量)の支援対象を探しているかもしれない。中国政府は「貧困を完全に解消した」と宣伝している。だがこれもまた不都合な真実にぶちあたる。少し前だが「スマホによる疫学調査が明らかにした過酷労働ナンバーワンの中国人:行方不明の子どもを探しに北京に来て早朝バイトで仕送りを続ける父親」という『中国新聞週刊』の報道がSNSで爆発的に拡散されたが、すぐにリツイートが禁止されるという事件がおこった。理由はこんな通報があったからだという。「国家は2020年に貧困を解消したのであり、(貧困の存在を明らかにした)記事は不適切であり、一方的に生活面の苦境だけを強調して読者をミスリードするものだ。」
このような当局主導の「道徳警察」(原文「道德绑架」=社会正義を振りかざすこと:訳注)に対する中国世論の嫌悪は、首を鎖につながれた「八児の母」の不遇に次ぐものだろう。このような全体主義社会において、道徳によってすべてが検閲されてしまっては、庶民の生活もまったく自由間ままならない。多元的価値観を高く評価する西側社会においては、「道徳警察」も不道徳な行為だと見なされる。とりわけマッカーシズムの負の遺産が残る中では、中国政府支持者による非難にはとりわけ慎重にならざるを得ない。だが「道徳警察」と道徳的義務の区別は、我々の日常生活と完全に無関係だとは言えない。谷愛凌のサクセス・ストーリーを巡る議論において、完全に明示されるわけではないが、また払しょくもできないのが、この個人の道徳という問題である。
強制的な善行は道徳警察であり、悪意ある行為の禁止は道徳に合致するという意見がある。では、個人的名声のために全体主義を支持すること、あるいはもっと具体的に言えば、ネット検閲の存在を糊塗するために公然と嘘をつくことは道徳的な行為と言えるのか。特権───曖昧な国籍規定によって中国代表選手に選ばれ、(中国では)違法にもなるVPNを使った海外ウェブサービスを利用してもお咎めもなく、新疆綿の使用をやめたBCI製のウェアを公然と着用しても「小粉紅」(中国のネトウヨ。民族主義的に中国共産党を無批判に擁護するネチズン。雇われネトウヨも多い:訳注)からの攻撃を受けることもない、このような特権を享受することが道徳的に許されることなだろうか。
谷愛凌を擁護する人はこう言うかもしれない。中国を舞台にすることで、中国政府のステージに押し上げられたことは彼女の個人的選択であり、それは中国というステージの広大さを物語っているだけである、と。私が以前のコラム「長平レビュー:謝霆鋒と趙薇との距離はどれくらいか」で指摘したように、ナチス政権が国民から歓迎されていた度合いは現在の中国共産党政権に勝るとも劣らないが、それはナチスを支持した道徳的そして法的責任を回避できるというわけではない。
一般の庶民と谷愛凌、そして「八児の母」の距離がどれほどなのかを考えるとき、人々は無意識に谷愛凌の行為を正当化するかもしれない。だが全員が谷愛凌に生まれ変わりたいと思っているわけではないと、私は信じたい。もし仮に彼女のような境遇に生まれ変われるとしても、多くの人はやはりもう少しマシな道徳的生活を選択したいと思うだろう。とはいえ、このような全体主義的社会においては、谷愛凌、彭帥、朱易、そして「八児の母」のあいだの距離はそれほど離れてはいないのである。

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