「震旦学院事件」の民族主義の集団的ファナティズムという警鐘
著者:項豎
上海の震旦職業学院のA教員が「報道取材」の授業で南京大虐殺に関する講義のさい、受講学生Bがスマホでその様子を撮影し、映像をQQグループ〔友達同士のチャット・グループ〕に転送した。その映像をC君がウェイボー〔中国版Twitter〕で拡散し炎上した[1]。ほどなくA教員は攻撃の的となり、学院をクビになった。しかも「人民日報」などの官製メディアはそれを煽ったのである(下の写真参照)。

(人民日報のツイートの訳:【震旦学院の教員による誤った言論を論ずる】南京大虐殺で犠牲になった同胞は30万人以上であることは不動の事実。むやみに憶測を加え、歴史の真相を疑うとは教師の風上にも置けない。苦難を忘れ、他国の悪行を否定するとは、国民の風上にも置けない!教育は真実を求めるべきだ、だが『偽証を確認する』口実で罪人に味方し、民族の苦難を覆い隠す、こんな無知不徳の人間がどうして次の世代を指導できるというのか。歴史観は基礎であり、教育は民族の未来。未来が基礎を欠いてしまって、民族は存亡できるのか?)
A教員は何と語っていたのか。ぜひ映像で確認してほしい。
【訳注:A教員の発言の文字おこしを訳しました】
日本軍は南京で人道に反する行為をしたことは間違いありません。なぜ、彼らはそのような人道に反する行為をしたのか。この点に関して、市民や軍人に対する教育にとっても重要なことなので、特に考えなければならないと思っています。30万人という数字は、ある人の記録から大まかに推定したもので、裏付ける情報はありませんが、3千人、2万人、50万人、7万人という推定もあります。解放後、中国の歴史家がこの中の一人の言葉を見つけ、30万人が南京大虐殺の資料として使われ、それ以来保存されているのです。
しかし、実は、私が大学時代に歴史の先生が、「国民党時代から現在に至るまで、犠牲者の遺族が生存しているうちに、死者数を正確にカウントできなかったことが残念でならない」とおっしゃっていたことを思い出します。
国民政府は実際に住民識別番号を持っていました。犠牲者は南京市でのことなので、その数は統計から計算することは可能なはずです。しかし現在でもまだ南京大虐殺の数が確定できないことから、日本側はその数を否定しているのです。
当時、私の大学の先生が京都大学に留学していたのですが、その時に見えてきたことがあります。 当時、中国の総理級の人物が来日し、テレビの生中継でそのことが話題になりました。彼は南京で30万人が殺されたと日本の首相に伝えたところ、日本の首相はその場で「そんなに多くはないでしょう」と言い出したのです。中国の総理、80年代の話ですが、その総理は「30万人はいないにしても3万人はいる」と言ったのです。それを観ていた私の歴史の先生は、なぜこの件に関して断乎とした主張ができないのか、我々に何か足りないところがあるからではないか考えたのです。
45年から現在に至るまで、長い間、社会組織の公式な作業もないまま、誰が死んだのか、名前が分かっているのは誰で、名前も住民識別番号も分からない犠牲者がどれくらいいるのか。30万人というのは中国の歴史小説に書かれた概略に過ぎないのです。
この数字をもとに統計をとった学者もいますが、名前のある人の数は数千人もいないことになります。そこで思うのは、なぜできていないのか、ということです。中国の歴史家は解放後に、中国五千年という記述を作りました。しかし実際には、私たちが記述できる歴史はそんなに長くはなく、5000年どころか、3000年もないのです。そして30万人の名前と識別番号については、真剣に研究されていないのです。
ですから、中国がいくら南京大虐殺を宣伝しても、この時代を裏付ける史料を出していないのです。ナチスによるドイツのユダヤ人虐殺を見てください。死んだユダヤ人はすべて名前が分かっており、家族もわかっています。私はヨーロッパに行ったことがあり、オーストラリアを含むいくつかの強制収容所にも行ったことがありますが、私が行ったときはオーストラリアでもディスカッションが行われました。 アイルランドのユダヤ人は、みんな名前がわかっているので、虐殺されたユダヤ人の数、逃げたユダヤ人の数の統計があります。しかし残念ながら中国にはないのです。南京大虐殺記念館にも名簿はありません。ぜひ皆さんいちど見学してください。
わたしがここで言いたのは、永遠に憎むのではなく、なぜ戦争になったのかを考えること、これこそこ最も重要だということです。
映像の冒頭でA教員は「日本軍は南京で人道に反する行為をした」と発言しており、人民日報が言うように「他国の悪行を否定」しているわけではないことがわかる。「民族の苦難を抹殺しようとする」という批判に至ってはあり得ないことである。A教員は3万人から30万人と、いくつかの推計人数を挙げているが、いずれにしても虐殺の苦難を認めているのである。「歴史の真実」については、中国共産党の教科書や公式文献でもあれこれと修正がされてきた経緯もあり、定説を疑い真実を探求する精神を学生に教えることは、教師としての務めでさえある。
もちろん、「無知」という批判については、A教員は受け入れなければならないだろう。というのも彼女は歴史の細部を誤って伝えているのだから。例えば、「30万人は1人の記述から大まかに推定した」と言っているが、実際に推定に使われたのは、慈善団体の埋葬記録、日本軍の記録、生存者の証言などである。例えば、彼女は国民党政府の戸籍記録を使えば被害者を数えることができるといっているが、1937年当時はそのようなシステムは完成しておらず、1946年に改正された戸籍法でも、満14歳以上の者にしか「国民身分証」は発給されていなかったからだ。[2]
しかし、これらの誤った主張は、南京大虐殺を否定するためのものなのか、あるいは南京大虐殺の犠牲者が確実に30万人以下であることを証明するためのものなのだろうか。 明らかにそうではない。A教員の論点は、国民党政府も中国共産党政府も、日本の右翼による南京大虐殺の否定により的確に反論できるように、もっと正確な統計をとり、被害者に関する詳しい情報を調べる機会があったはずで、それをしなかったのは職務怠慢、厳密さの欠如であり、極めて残念だというところにある。したがってA教員の「無知」はせいぜい学問的無知であり、官製メディアが「度を越えた憶測」とか「犯罪者に免罪符を与える」というレッテルを貼るのは、それこそ行き過ぎであることは間違いない。
もし、いくつかの論証を補足すれば、上記のA教員の論証が有効であることがわかるだろう。南京大虐殺記念館の職員である劉燕軍は、『抗日戦争』誌に発表した「南京大虐殺の歴史的記憶(1937-1985)」という論文[3]で、国共両政府が調査した経緯に言及している。
戦後の国内政治情勢の急激な変化により、南京大虐殺の調査・裁判・追悼が様々な面で大きく制限されたことに留意する必要がある。抗日戦争の勝利直後から共産党と国民党の対立が激化し、その後全面的な内戦が始まり、国民党政権は「共産党への弾圧と反乱討伐」を第一の任務とするようになった。そのため、南京大虐殺の調査と裁判は虎頭蛇尾〔こうとうだび=最初は威勢がいいが尻すぼみになること〕で、「一日も早く調査を終了せよ」「一日も早く裁判を終結せよ」という言葉が、調査や裁判の公文書に頻繁に登場するようになった。例えば南京市臨時参議会の南京大虐殺調査委員会の場合、1946年7月に作業を開始し、9月末に完全終了を宣言した。わずか2カ月で綿密かつ詳細な調査を行うことは困難であった。
...
1960年、南京大学歴史学部の教師と学生が南京大虐殺の調査を行い、関連する記録資料を検討し、関連写真を集め、南京大虐殺の生存者や目撃者を訪ね、約7万字の小冊子「日本の強盗による南京大虐殺」をまとめ、「人民日報」がそれを報じた。(原注:《支持日本三池礦工的鬥爭,南京三千煤礦工人集會》,《人民日報》1960年5月14日)1962年には、南京大虐殺25周年を機に初稿を見直し加筆、1963年には江蘇人民出版社が内部発行での出版を計画し、11月には江蘇新華印刷社が版下まで組んだが、何らかの理由で公刊に至らなかった。これは新中国の建国以来、最初の南京大虐殺に関する研究書であった。(原注:この資料は公開出版されず、また当時の政治情勢の影響が色濃く反映されており、今日から見て主張や指摘の一部に不適切な箇所はあるが、基礎研究の礎を築いた功績は大きい。1965年、南京大学歴史学科は、研究成果のすべてを外事部に提供し、来日した日本の友人たち向けに発表会や写真展を開催し、国内の多くの機関に謄写版のコピーを提供し、国内外の宣伝に一定の役割を果たした)。
...
「文化大革命」の期間中には、階級闘争の理論が極限まで展開された。抗日戦争を題材にした小説『戦闘の青春』は、「抗日軍人や人民を恣意的に中傷し、戦争の悲惨さを誇張した」というのが罪の一つで、「大毒草」と中傷された。人民戦争の大旗は無敵である」と題する反論記事は、「『戦闘の青春』は戦争の残酷さ、恐ろしさ、苦しみを誇張した陰鬱な作品だ。この作品は、日本の侵略者が放った『火』、革命的軍隊の『遺体』、大衆の『泣き声』から構成されている」と批判した。この本の著者である孫振に対して、「戦争の残酷さ、恐ろしさ、惨状を誇張し、敵の野心を高め、人民の威信を損ない、正義の戦争に反対する現代版修正主義の粗悪品を売りつけようとする」下心があったと批判した(《人民戰爭的偉大旗幟是不可戰勝的》,《人民日報》1969年2月10日)。そんな中、梅汝璈の書いた「谷寿夫、松井石根と南京大虐殺事件について」という記事が、「民族の憎悪を煽る」、「戦争報復を煽る」というレッテルを貼られて根拠のない非難を浴びたり、逆にこの批判記事に対して、侵略者の勇敢さを誇張し、軍国主義を評価しており、「漢奸」「売国奴」だと非難する人もいた。梅汝璈は、これらの問題を一つずつ説明しなければならなかった。(原注:梅小璈:《南京大屠殺及其他—先父梅汝璈的一些看法》,《侵華日軍南京大屠殺國際學術研討會論文集》,安徽大學出版社1998年版,第452-453頁。)
...
新中国建国後、中国政府は積極的に対日活動をおこない、民間外交を精力的に展開し、「日本の軍国主義と大部分の日本人民を切り離し、日本人民からの支持をかちとり、両国民の友好関係を発展させ、中日関係の発展を推進する」という原則と政策理念を打ち出した。1954年12月1日、毛沢東はビルマのウー・ヌー首相と会談し、「日本は今や半占領国となり、困難な状況にある」「日本民族は虐げられている」ため、「中国人民は日本をさほど憎まず、友好的態度をとっている」と指摘した(注:林曉光、周彥:《二十世紀五十年代中期中國對日外交》,《中共黨史研究》2006年第6期)。1972年9月、中国と日本は国交を正常化。日中関係の根本的な変化の結果、中国は戦後の日本軍国主義批判を終了し、中国メディアによる日本批判も大幅に減少した。
このような状況において、南京大虐殺の徹底的かつ広範で体系的な公表や批判を行うことは不可能であった。1975年、日中友好元軍人協会が南京を訪問した際、主催者は常に日本軍の侵略行為について話すことを避け、必要なときに少し話すだけで、最後に必ず「事件は過去のことです。日本人のせいではありません。責任は一握りの日本の軍国主義指導者にあるのです」と言い添えた。(原注:石井和夫:《“南京大屠殺”的思索》,《日本學》第4輯,北京大學出版社1995年版,第309頁。.
...
建設当初は、どちらかというと国内向けの愛国教育の場として位置づけられ、関係部署は「外国人を招いたり、手配したりすることはない」と提起したこともあった。中国の改革開放が進むにつれ、「平和教育」や「外国人との平和交流」がますます重要な役割を担うようになった。記念館の建設をきっかけに、南京大虐殺の資料収集は目を見張る進展を見せた。1984年、南京市政府は南京大虐殺の生存者と目撃者の初の大規模な調査を組織し、数ヶ月の間に1756人の生存者、目撃者、被害者が確認された。その後、《侵華日軍南京大屠殺史料》、《侵華日軍南京大屠殺檔案》、《侵華日軍南京大屠殺照片集》、《日軍侵華暴行—南京大屠殺》、《侵華日軍南京大屠殺史稿》などの資料や単行本が出版された。
まとめると、国民党の調査は虎頭蛇尾、中国共産党は1980年代半ばまで組織的な調査が行われなかった。つまりA教員の「犠牲者の遺族が生存しているうちに、死者数を正確にカウントできなかった」という言葉を正確に裏付けている。
上記の資料は、南京大虐殺事件についての国家慰霊行事と日本政府による北京冬季五輪ボイコット騒ぎに関するA教員の推測を一部裏付けるものでもある。南京大虐殺犠牲者追悼の日は2014年に設置され、その時点では今年の日中関係を予測することは不可能だった。しかし歴史上の日中関係の変化は、確実に中国共産党の南京大虐殺に関する説明や解釈に影響を与えてきた。
「警鐘」をデタラメにかき鳴らす輩
A教員の発言に対して、動画を撮影した学生は、その場で反論も議論もしなかった。議論する気がないのか、反論できないのか、それとも何らかの強い罰を与えようと思ったのか。その回答は、〔A教員が「3万人か30万人か」と発言した時に〕映像外に録音された撮影者の「50万で通報するか」[4]にある。〔この「50万」はスパイを指すネット用語。原注4参照〕
「環球時報」は、B君とC君は自分の正体がばれないような方法で私的な発言を告発する「密告者」ではなく、歴史的ニヒリズムに反対するために「警鐘を鳴らした人」だと主張している [5]。確かに、個人情報が赤裸々になるこの時代、ウェイボーに動画をアップロードすることは、確かにオープンな行為で、実際C君の身元もすぐに暴かれた。 A教員が処分されると、今度はC君もネット上での脅しや嫌がらせ遭った。
C君を批判する人の多くは、文化大革命で大勢の教員が学生から批判された歴史を念頭に置いていた。当時、闘争に参加した学生たちは、階級闘争の「真理」を習得したつもりで、それゆえに使命感からくる正義感や熱狂に包まれていた。一方、今日のC君は、現在の歴史教科書と「核心」的イデオロギーを基準にしている。「30万人はデータの根拠がない」という言葉を聞くや否や、「50万」「漢奸」「売国奴」を攻撃する民族聖戦モードに直進した。C君がウェイボーに投稿した動画は、確かに一種の「警鐘」だったが、それは無数の同類を引き寄せる「犬笛」だった。無名だった彼のウェイボーのアカウントは、数日のうちに数万人のフォロワーを獲得した。
このような集団的ファナティズムは内部告発以上に恐ろしい。数え切れないほどのC君が我々の周囲にいて「民族の大義」についての理性的な議論をする余地もない。歴史的な「民族の憎しみ」を晴らそうと躍起になり、「善か悪か」で意見の異なるすべての人々と一線を画そうとし、「魔女狩り」を喜んで行い、そして、彼らは 中国共産党に支配されたくない台湾人や香港人を「民族の裏切り者」と決めつけ、武力で処罰しろと騒いでいる…。
今年(2021年)だけでも、このようなファナティックな攻撃による被害者はA教員だけにとどまらない。4月には、湖南城市学院の教員、李剣は、「建築文化概論」の授業で「日本人は完璧を目指す」と発言したことが学生から通報され、学校から批判を受け図書館に異動させられた[6]。5月にはウェイボーで中国とインドの国境衝突での公式死傷者数に疑問を呈したハンドルネーム「辣筆小球」〔《経済観察報》の元記者〕が通報され懲役8ヶ月の判決を受け[7]、10月にはウェイボーで朝鮮戦争の正当性について批判的に考察することを呼びかけた金融ジャーナリストの羅昌平が通報され警察に刑事拘束され[8]、12月には民族主義に煽られたボクシングの試合で、中国選手の玄武が日本人ボクシング王者の木村翔を抱きかかえてリングにたたきつける反則を行った[9]。反則で負けた玄武は「中国が日本と戦うのにルールは必要ない」と言った[9]。
「震旦事件」の余波で、A教員の支持者も標的にされた。深圳大学のある教師が「人民日報:密告しない、暴露しないという最低限の道徳を」という記事を仲間内で転送したことを学生に通報された。その学生は「彼の徳はひとりではない、隣人がいるはず」〔仲間がいるはず〕と告発メールに書いたという[10]。ウェイボーでA教員を応援する書き込みを行った湖南省の女性教員は、地元当局によって強制的に精神病院へ送られた[11]。
このような集団的ファナティズムこそ、まさに歴史上多くの戦争を起こしてきた要素の一つである。日本の中国侵略もそうである。A教員はもちろん中国の世論状況をはっきりと理解していたはずだ。あるいは自分の学生の中にもそういった傾向があることも知っていたのかもしれない。にもかかわらず、彼女は動画の最後でこう発言を締めくくっていた。「いつまでも憎むべきではありません。なぜ戦争が起きたのかを考えるべきなのです」。この点からも、彼女は尊敬に値する勇気ある人物であることは間違いない。
急速に後退する国家
若いC君の方に反撃の矛先を向けるのはあきらかにお門違いだ。彼らが密告に熱心なのは、間違いなく「人民日報」や「環球時報」など官製メディアに触発されたからであり、更には国家の暴力装置が密告に介入することを知っていたからである。そしてメディアと国家機関の動き方は、支配の上層部からの意志が反映されている。
今日の中国は、改革開放がはじまってから、もっとも後退速度の速い時代と言える。このかん昔の雑誌を紐解くと、2013年に『炎黄春秋』雑誌に掲載された「习仲勋建议制定<不同意见保护法>」(習仲勲が異論保護法を提唱)という記事があった[12](「炎黄春秋」は党内改革派の雑誌で2016年に停刊。習仲勲は習近平の父親:訳注)
そこでは、習仲勲が80寝偉大に全人代の法制委員会主任のときに、そこで語ったスピーチが掲載されていた。
仲勲同志曰く 「私は長年にわたって考えてきたことがあります。如何にして異論を保護するのかということです。党の歴史を振り返ると、異論が大災厄をもたらしてきました。『反党連盟』、『反革命集団』『右翼投降主義』『左翼日和見主義』等々、私が経験しただけでもゆうに10や100の事件がありましたが、結局調査をしたところ、圧倒的多数は異論を提起しただけで、たんにイデオロギーの問題であり、また正しい意見もすくなくありませんでした。我々は党の指導者を断固として擁護し、党の方針や政策を断固として実行するものですが、指導者の意見や党の方針、政策に対して異論を提起してはいけないということではないのです。こうしたことから「異論保護法」のようなものを制定し、どのような状況において異論を提起していいのか、その異論が誤っていても処罰を受けることのないような規定をつくる必要があると思っています。」
李由義曰く「憲法ではすでに『人民代表は代表大会での発言と評決において、法的責任をつ給されない』と明記しています。これこそ異論保護法にあたるのではないですか」
仲勲曰く「私の考えは、誰であっても異論を提起する権利があるということです。人民代表は何人いますか?それに会議の席上だけでなく、いつでも異論を言っても犯罪にならないようにしないと」
李由義曰く「少し前に刑法改正を議論した時のコンセンサスは、思想だけでは刑法に問われないし、犯罪を構成しないというものでした。つまり誰であっても、異なる政治的観点だけで罪に問うことはできないということでした」
仲勲曰く「刑罰だけでなく、批判、監禁、降格、異動、除名などの処分についてもです。私の意図は、異論を提起した人の全ての権利を保護すべきというものです。刑罰を受けない、処分も受けない、こうしてはじめて忌憚なく発言できるのです」
李由義曰く「その通りです。これこそ現代社会において真実を語ることができない根本的な理由の一つなのです。処罰を恐れ、不遇を恐れてモノが言えないのです。1945年に毛主席が重慶を訪れた際、ロイターの記者キャンベルの取材を受け、そこで明確に次のように指摘しました。われわれは民主主義を実施しなければならない、つまりリンカーンの人民の人民による人民のための政治であり、またルーズベルト大統領の言う4つの自由を実施しなければならない、と」。
「『4つの自由』とは、言論の自由、信教の自由、恐怖からの自由、欠乏からの自由のことだ。前三者は異論保護の範疇に属する。処罰を受けず、脅威にさらされないことで、人間は思想を披歴し自由に話せる。1949年に制定された『共同綱領』では言論と出版の自由を明記している。1954年に制定された最初の憲法や、「四人組」勢力が跋扈する最中の1975年に制定された憲法、そして現行の1982年憲法でも、言論と出版の自由は明記されているが、現在に至るもそれを保証する関連法は制定されていない。」
穆生秦同志曰く「大学の党委員会で長年活動しているが、学生たちの思想は活発で、忌憚なく異論を提起します。指導のうえである一線を決めています。反党、反社会主義という一線を越えてはならない、というものです。」
仲勳同志曰く「それは非常にあいまいな一線です。例えば私は改革の初期に広東省で職務についていたとき、中央に経済特区の設立を提案しました。すると一部の人々から『外国ブルジョアジーへの投降だ』と批判されました。現行の政策に対する異論が反党、反社会主義だとされると、改革などできるでしょうか。」
穆生秦曰く「彭真同志からこんなアドバイスを聞いたことがあります。『兼聽則明,偏聽則暗』(広く意見を聞けば正確な判断が下せるが,意見を一方的に信じると判断を誤る)です。社会主義的民主主義は、異論に耳を傾ける必要があります。異論を認めない民主主義は不可能です。」
仲勳曰く「そうだとすれば私の主張はより断固としたものになるでしょう。」
みんなの議論が興に乗ってきたので、わたしも少し発言してみた。「一切の改革は異論から来るもので、革新とは現状の止揚のことです。社会科学と自然科学の領域において、異論は古いルールや旧秩序の圧力に直面します。真理とは誤謬の是正であり、真理はそのスタートにおいては少数の人間にしか理解されないのです。大きな問題に対する異論は、はじめは少数の者しか提起できないかもしれません。異論を保護することは真理の萌芽を保護することであり、改革の促進を保護することです。」
私の発言がどんどん広がっていくのをみて、仲勳同志が笑顔でこう言った。「今日はとてもいい議論ができました。この問題をさらに考える良いヒントをいただけました。次にまた機会があれば議論しましょう。」
A教員がいま直面する不遇は、「反党、反社会主義」というレッテルが、「歴史的虚無主義」「精日」(日本ファン)「叛国」のという罪状のレッテルに代わっただけだ。習仲勲が80年代に考えた問題は、今日においてはますます重要になっている。かつて「思想的に活発」で「忌憚なく異論を提起」する学生たちは、いまではまるでゲシュタポ(ナチの秘密警察)のようになってしまった。今日の中国共産党において、異論を敢えて保護したり、A教員を擁護しようという共産党員がいなくなってしまったのと同じである。
このような国家において、民族主義の集団的ファナティズムがどこへ向かうのか、不安にならざるを得ない。だが萎縮と逃避では役に立たない。冷静な人間は、この国と民族がふたたび闇に落ち込まないためにも、自分ができる方法で反撃すべきだ。
原注
[1] https://www.sohu.com/a/509599383_121019331
[2] https://www.sohu.com/a/509456916_121106869
[3] http://ww2.usc.cuhk.edu.hk/PaperCollection/Details.aspx?id=7717
[4] 「行走的50万(歩く50万)」はネット用語で、中国国内に潜伏する外国のスパイを意味する。語源は、北京市国家安全局が2017年4月10日に公布・施行した「スパイ行為に対する市民通報奨励法」に記載された「スパイ行為の防止や制止あるいは偵察行為の発見などに特別に重要な役割を果たした情報をもたらしたものには、10万から50万元の奨励金を支給する」という規定から。
[5] https://opinion.huanqiu.com/article/462UtmpaJ12
[6] https://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/kejiaowen/ql1-11092021041429.html
[7] https://www.dw.com/zh/%E8%BE%A3%E7%AC%94%E5%B0%8F%E7%90%83%E4%BE%B5%E5%AE%B3%E7%83%88%E5%A3%AB%E5%90%8D%E8%AA%89%E7%BD%AA%E6%88%90-%E8%A2%AB%E5%88%A4%E5%85%A5%E7%8B%B18%E4%B8%AA%E6%9C%88/a-57737615
[8] https://www.rfi.fr/cn/%E4%B8%AD%E5%9B%BD/20211008-%E8%A2%AB%E6%8C%87%E5%8F%91%E8%A1%A8%E4%BE%AE%E8%BE%B1%E6%8A%97%E7%BE%8E%E6%8F%B4%E6%9C%9D%E5%BF%97%E6%84%BF%E5%86%9B%E8%A8%80%E8%AE%BA-%E5%AA%92%E4%BD%93%E4%BA%BA%E7%BD%97%E6%98%8C%E5%B9%B3%E8%A2%AB%E5%88%91%E6%8B%98
[9] https://sports.sina.com.cn/others/freefight/2021-12-20/doc-ikyakumx5287688.shtml
[10] https://www.guancha.cn/economy/2021_12_21_619284.shtml
[11] https://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/renquanfazhi/ql2-12202021095854.html
[12] https://history.sohu.com/20140520/n399790041.shtml
スポンサーサイト