
この概念図は2016年9月の香港議会選挙直後に執筆された區龍宇さんの論考「求變 — 初論2016立法會選舉結果」から拝借(論考はこちら)
香港民主化運動の源流:民主回帰派、本土派、民主自決派、そして左翼
稲垣 豊 ATTAC Japan(首都圏)
(『現代の理論』2020年春号に掲載したものに若干加筆しました。香港の反乱の総括の一助になればと思い転載します。編集部の付けた原題は「香港―自由と民主の闘いは続く 「民主派」の分解と香港アイデンティティ」。この論考の重点の一つは、一見あい対立するかに見える民主回帰派と本土派ですが、かなり類似点があるということです。 2021・10・30追記)
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獰猛な火炎の暴龍スマウグにも弱点が二つある。ひとつは富に対する無限の欲望。そしてもう一つは堅い装飾具の胸元にぽっかり空いた穴だ。暴龍スマウグは鋼の黒い矢を放つ弓の名手にその穴を撃たれて斃れる。英国のファンタジー作家J.R.Rトールキンの『ホビットの冒険』終盤のエピソードの一つだが、中国という獰猛な巨龍の胸元にぽっかり空いた「香港」という穴、そしてそこに撃ち込まれる黒鋼の矢は、不屈の闘志を見せる香港の若者たちと重なって見える。
トールキンの作品に親しんだのは中学生のときだが、その数年後に中国への留学を経て日本で大学に入り、大学在学中の1997年の香港返還デモに参加し、民主的左派の活動家らと知り合った。またそれを前後して香港を活動のハブ拠点としていたアジアの草の根労働者運動のネットワーク「アジア太平洋労働者連帯会議(APWSL)」の日本グループにも参加したことが、香港の社会運動や、その後の中国の自立的労働運動にも関心を持つことにつながった。
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本稿では、香港の民主派内部で80年代初頭から続く議論に焦点を当てることにしたい。(80年代民主派のさらに源流である70年代の国粋派、社会派、『七〇年代』などのトロツキストやアナキストなどについてはまた別途論じる必要がある:後記)
◎民族自決と民主自決
2014年の雨傘運動の後、「自分は中国人ではなく香港人」という香港人アイデンティティがとりわけ青年世代の中で顕著になり、二つの潮流に結実する。一つは香港人という民族アイデンティティを前面に押し出した「本土派」。香港こそが自分たちの本土=故郷であり、大陸系中国人とは文化が異なるという主張で、より進んだイデオロギーとして「香港民族」や「香港独立」など民族自決を掲げる傾向。もう一つは、中国政府が約束した「高度な自治」のデタラメに対して、「香港のことは香港人自身が決める」という自己決定権(自決権)を前面に押し出す民主自決派。どちらの潮流も雨傘運動後の2016年の立法会選挙ではじめて議席を獲得するも、議員宣誓の不備などを口実に議員資格をはく奪。中国政府は、民族自決(独立)だけでなく民主自決についても「香港基本法に抵触する」と判断。民主自決派とみられてきた若い政治団体「衆志/デモシスト」は、2020年初めの総会で「民主自決」を規約から削除した。2020年9月に予定されている立法会選挙への立候補資格をはく奪されないための予備措置のようだが、やや残念だ。というのも、この「民主自決」という主張は、80年代初頭から始まった香港の主権返還を巡る中国とイギリスの政府間交渉に端を発した社会運動における議論のなかで、私の古くからの友人の左翼活動家らが提起してきたものだったからだ。〔その後国家安全維持法の施行直前の2020年6月30日に衆志は解散、21年に入り主要メンバーらが逮捕された〕
◎泛民主派の四つの路線とその破綻
1982年から中国政府とイギリス政府の間で香港の主権を巡る交渉が始まり、「97年香港返還」、「基本法の制定」「香港の資本主義制度は50年不変」といった約束が香港人の頭ごなしに決められたのが84年12月。その過程で香港社会からも当然のように声が上がり、中国への主権返還と民主主義の実現を目指すという「民主返還運動」が始まった。その運動が後に「泛民主派」(Pan-democracy camp、以下「泛民」)と呼ばれる政治潮流になるのだが、現在の「民族自決派」も「民主自決派」も、この「民主回帰」に内包された次の四つの路線の破たんを培養土として育成されたと言える。一つ目は民族主義路線、二つ目は反共路線、三つめは中国と香港の分断路線、最後の四つ目は中英政府に忖度した妥協路線である。この四つの矛盾と補完が相互に浸透しあったのが泛民路線ともいえる。
一つ目の民族主義路線とは、排外的な民族主義ではなく、70年代までの反植民地主義の思想を一定程度組み込んだ中国や中華への憧憬を含んだものである。それは「改革開放」直後の80年代に中国政府がとった資本主義世界に開放的な政策と合致した。中国政府にとっても香港は「長期打算、充分利用」(反植民地闘争は放棄して、長期的な展望で香港を活用する)する地域としての当初からの位置づけを、97年返還に焦点を合わせて発展させていく。80年代初頭から本格的に始まった改革開放政策の中心を担う深圳など4つの経済特区構想にとって、香港という世界に開かれた自由貿易港の存在は必要不可欠であった。その意味で、植民地解放闘争の大義よりも「平和共存」という、世界規模での階級協調政策ともいえる「長期打算、充分利用」という長年の政策を引き継いで「植民地資本主義システムの50年不変」という政策に移行したことは何ら不思議なことではない。
このような経済的なベースがあったとはいえ、80年代は中国と香港のあいだには蜜月ともいえる時代が訪れていた。1983年末、香港の中英両政府の返還交渉が進む中、香港大学と中文大学の学生会が中国の趙紫陽総理に宛てて書簡を送り、翌84年3月に趙紫陽総理から返事が寄せられた。
「中文大学と香港大学の学生会は、それぞれ中国国務院の趙紫陽総理に宛てた書簡で、民族回帰(返還)に賛成するとともに、香港では民主主義を実行すべきだと共に求めた。趙紫陽から両大学学生会に宛てて返信があり、学生の意見に賛同するともに、香港大学学生会への返信の中で、さらに具体に踏み込んだ内容を提起していた。『人民の民主的権利を保障することは、わが国の政治生活の根本原則です。将来の香港特別行政区において民主化された政治制度を実行すること、すなわちあなた方のいう『民主治港』(民主主義で香港を統治する)は、当然のことなのです』。香港大学が趙紫陽の宛てた書簡では『民主主義:香港人が民主主義で香港を統治するという原則を堅持し、中国は香港の内部事務に干渉せず、将来の香港地方政府およびその最高行政首長は市民による普通選挙によって選出する』と説明していた。両大学の学生は、当時あらたに登場していた『民主回帰派』の一員であり、民族主義の立場に立ち、香港は植民地から離脱して祖国に回帰(復帰)すべきだと考えていた。そして、回帰の過程において、香港では民主主義と社会改革を進める契機と空間が提供され、民主主義と民族主義が相互に積極的に影響し合い、互いの長所を発揮することができると本気で信じていたのである。」(注1)
すこし先回りをして指摘すると、当時の「民族回帰」「民主回帰」の「回帰」(返還)というスローガンに込められた中国への憧憬は、30年を経た今日、「民族自決」「民主自決」という断絶に、ほぼ180度転換した。そこには「政治生活の根本原則」とされた民主主義を恣意的に解釈する中国の体制からの強烈な統合圧力に対する反発をばねにした「自決=自己決定権」が根底にある。その最初にして最大のばねになったのは言うまでもなく1989年の民主化運動「北京の春」への弾圧であった。
二つ目の反共路線は複雑だ。この30年の泛民の支持基盤は自由主義リベラルの市民だが、そこには中国共産党に対する恐怖心がかなりの程度共存する。また土着の社会勢力のなかにあった反共的部分も当初の泛民に合流した経緯もあり、歴史的に見ても仕方のないこととはいえ、香港の自由主義リベラルの底流に流れている思想でもある。自由主義ブルジョアジーはビジネスとの関係上、あからさまな反中国の態度も取れず、議会でもいわゆる中国派との共闘を余儀なくされているが、底流には同じような反共意識が流れている。
三つ目の「中国と香港の分断路線」とは、二つ目の反共路線ともつながっているのだが、分かりやすくいえば「一国二制度」への追随である。これは何も中国政府の専売特許ではなく、泛民が80年代当初から掲げた「民主回帰」も実は中国と香港の分断を前提とした路線であった。「河水不犯井水」(大河の水は井戸水を侵さず=互いに他人の領分を侵さない)という中国の諺どおりの路線を泛民は主張し続けてきた。つまり中国内の政治には口を出さない代わりに香港には干渉してくれえるな、というお願いである。これに転換を迫ったのも89年「北京の春」であった。
◎泛民の反共路線が本土派の土壌
この二つ目と三つ目について、香港理工大学香港專上學院講師の李峻嶸氏は、次のように述べている。
「『本土派』と呼ばれる右翼本土思想は、中国と香港の区別を強調し、『香港人』アイデンティティを持ち、そこからくる優越感とそれに伴う不安感を動員の手段とする。なかにはアイデンティティを巡る争いを厭わず、明確な差別や排外的な言説を帯びたものまである。しかし『本土派』から常に罵倒の対象となってきた泛民が、実はこの30年来にわたって、中国と香港の区別を主張してきたし、香港人アイデンティティを動員の手段としてきたのである。結局のところ、共産主義や中国に対する恐怖感こそが泛民の最大の基盤であった。民主や法治という普遍的価値は、多くの市民にとっては実践すべき目標ではなく、中国と香港の区別を維持するための手段にすぎなかった。泛民が右翼本土と異なるのは、その指導者や大衆の多くが中華民族アイデンティティを有していることである。中国を見下す感情はあったにしても、その種の感情を全面的なアイデンティティを巡る争いに発展させること、とりわけ差別に転化することは、中産階級の知識人が主導する泛民には考えられない事だった。しかし、泛民路線では真の普通選挙が実現できず、これまでのように中国と香港との区別を維持することができなくなったとき、泛民の基盤であった共産党と中国に対する恐怖感は、右翼本土の最大の基盤と化したのである。」 (注2)
泛民の反共・分断路線の「鬼っ子」である本土派の一部である右翼本土派は、泛民の中華民族主義路線に大きな変更を迫った中国全土を視野に入れた民主化路線を拒否し、香港民族主義を奉じている。泛民は自らが生み出した「鬼っ子」にどう対応していいか分からないままでいるというのが現状だろう。
そして、四つ目の中英政府に忖度した妥協路線だが、これが私の友人の左翼活動家らが最も強く批判する泛民の「原罪」である。この批判は、もう片方の「鬼っ子」である民主自決派の主張へもつながる。
◎80年代の中英政府の改革路線とその限界
中英共同声明の後、中国政府は香港基本法の策定を、イギリス政府は香港の選挙制度改革を、同床異夢のなかで進めていく。
「(香港植民地政府は)大々的に民主化を進めた。1982年に区議会(下級議会)で選挙を導入し、83年には市政局(中級議会)の有権者をすべての市民に拡大した。84年には香港代議制の発展に関する政府プランを公表し、85年に立法局議会(上級議会)に間接選挙を導入した。市民社会において多くの政治団体が誕生し、最初に『民主回帰』を支持した香港の知識人らとともに香港民主派が形成された。かれらは中国の変化に強い関心を寄せる一方、香港の市民社会で民主的啓蒙を進めることで、ポスト97年の『港人治港』(香港人による香港統治)を準備した。」(注3)
しかし中英両政府は各々の政策について、香港人に対する諮問を行い、一部の選ばれた人間を策定過程に取り込むが、それはあくまで意見の聴取であり、香港人自身が主権者として基本法の策定委に関与することも、選挙制度改革に関与することもできなかった。そして「民主回帰」の泛民は、基本法については中国政府の諮問委員会や起草委員会に個別の活動家が参加したり、選挙制度改革については英植民地政府に対して直接選挙の枠を広げることを求めていく。しかしそれはあくまで「指名」や「諮問」や「段階的な進展」という水準にとどまったものであり、主権者としての香港人民のたたかいを鼓舞する主張や方針を回避したり、諮問的性格の立法局議会の在り方そのものを根本から問うこともなかった。
例えば88年立法局議会で民選議席を導入するかどうかについて香港政府の諮問がおこなわれた。この時、後の泛民につながる潮流は86年11月に九龍にある高山劇場に集まり、基本法や将来の政治制度について議論し、88年の立法会選挙において普通選挙の実施を求める政治連合「民主政制促進聯委會」(民促會)を結成するが、その要求は立法会57議席のうちの四分の一の直接選挙を求めたに過ぎず、将来の97年返還後の立法会においても半数の議席の直接選挙を求める要求にとどまった。
香港政庁の政治改革への対抗的動員を如何に作り上げるかの方針もなく、当初は香港政府や調査機関による世論調査に依拠して、市民は直接選挙を欲していると主張するにとどまっていたが、内部からの突き上げもあり、直接選挙を求める署名運動を展開するが、香港政府は「反対の声が多数を占めた」「署名請願の意見は考慮しない」等の理由をあげて88年9月の立法会選挙での直接選挙の実施を見送った。結局、立法局議会で直接選挙が実施されるのは91年からのことであり(しかも56議席中18議席のみ)、議会の性格も最高権力としての立法機関ではなく、香港総督の諮問議会という性格を払拭することもなかった。主権をもつ香港人全体の政治的代表としての機関の欠如は、中英政府の返還交渉や、返還後の政治体制を規定する香港基本法の制定から香港住民が一貫して排除される理由となった。現在の泛民につながる多くの政治潮流もまた、このような植民地議会の枠組みを抜け出ることはできなかった。
泛民が「民主派」として存続する最大の契機となった89年「北京の春」に対する北京政府の弾圧後、泛民の主流は97年返還後の全面的な直接選挙の実現を迫るために民衆と団結するのではなく、商工業界や親中派政治勢力にも受け入れられる案として、立法会の議席の四割を直接選挙、四割を業界別選挙、残りの二割を選挙団の議席に割り当てるという「四四二」案を提起する。従来の「少なくとも過半数の議席の直接選挙」という要求を取り下げて。もちろんこのような妥協路線は中国政府によってにべもなく却下され、基本法起草委員会のメンバーであった泛民の李柱銘と司徒華は起草委員を辞任する。泛民の政治路線はその後も変わることなく、ほぼ現在まで続いているが、その中核であった民主党は、返還後に選挙制度が小選挙区から中選挙区に変更されたことで、民主派の盟主としての勢いを削がれていく。「本土派」や「勇武派」がさかんに「リーダーのいない運動」を宣伝し、それが社会的にも浸透していく背景の一つに、これまで「リーダー」的役割を担ってきた泛民の軟弱路線の問題がある。
◎民主自決派の源流
こうした泛民の軟弱路線を、80年代初めから一貫して批判してきたのが、プロレタリア民主派の左翼活動家である。83年4月に香港で出版された『香港人の進路――民主化を実現し、主権を取り戻そう』というパンフレットから抜粋して紹介する。
「香港がいつどのような方法で祖国に復帰するかという問題は、香港人自身に決めさせるべきである(應該讓香港人自決)。中国は可能な限り香港の民心をかちとり、香港人が自ら望んで祖国に復帰するようにしなければならない。現在、中国が香港の主権を回収することが議論されているが、香港人が英国植民地政府から主権を回収することを第一の目標にしなければならない。」
「中英両国の支配者は香港民衆の自決権を認めようとしない。両政府は相互に対立しながらも相互に結託し、香港民衆に背を向けて香港の未来を決める交渉を行っている。しかし香港人民の自決権は民主的原則から言っても根拠がある。」
「マルクスやレーニンの考えによれば、プロレタリアートの社会主義とは、ブルジョア民主主義の一切の進歩的獲得物を継承し、それをさらに徹底して発展させなければならず、それこそが真実の社会主義である。民主的自決権はまさにそのような進歩の原則にのっとったものである。」
「我々が言うところの香港人民の自決という主張とは、普通選挙で選ばれた全権の香港人民代表大会を招集して、香港人の意思を公式かつ集中的に表現し、香港の政治的地位およびその他の一切の重要な事柄を決めるということである。」
「われわれは現状維持に賛成しない。香港人はそもそも植民地支配の現状を支持してはならない。香港人は今から継続して様々な方法で主権を取り戻すとともに、各方面での改革をかちとらなければならない。」(注4)
「中英両国の支配者は香港民衆の自決権を認めようとしない。両政府は相互に対立しながらも相互に結託し、香港民衆に背を向けて香港の未来を決める交渉を行っている。しかし香港人民の自決権は民主的原則から言っても根拠がある。」
「マルクスやレーニンの考えによれば、プロレタリアートの社会主義とは、ブルジョア民主主義の一切の進歩的獲得物を継承し、それをさらに徹底して発展させなければならず、それこそが真実の社会主義である。民主的自決権はまさにそのような進歩の原則にのっとったものである。」
「我々が言うところの香港人民の自決という主張とは、普通選挙で選ばれた全権の香港人民代表大会を招集して、香港人の意思を公式かつ集中的に表現し、香港の政治的地位およびその他の一切の重要な事柄を決めるということである。」
「われわれは現状維持に賛成しない。香港人はそもそも植民地支配の現状を支持してはならない。香港人は今から継続して様々な方法で主権を取り戻すとともに、各方面での改革をかちとらなければならない。」(注4)
この声は当時はほとんど顧みられることはなったが、断乎たる民主派の形成を訴えてきたプレタリア民主派の意義が全くなかったわけではない。その後も折につけ、香港人の主権を無視して作られた基本法をもういちど制定しなおすことや中国国内の民主化をも射程に入れた香港の民主自決を訴え続けている。
その直接の成果というわけではないが、雨傘運動後には本土独立派だけでなく、民主自決派の議員も複数誕生し(その後、議員宣誓の不備などを口実に議員資格が剥奪されたが)、泛民路線に変わる路線として、一つの道筋を示し続けている。
議員資格をはく奪された民主自決派を含む3議員は、中国の全人代が、資格はく奪は香港基本法に則ったものだという決議を採択したその日に抗議声明を出した。
「民主自決が香港民主化運動の新綱領となることは、(全人代による)5度目の法解釈(=議員資格はく奪)によって明らかになった。『基本法』はこれまで一度も香港人から権限を授けられたことはなく、解釈権と改正権も追え金が独占している。……市民が民主的過程を通して改めて『基本法』を作り直さなければ、香港に真の法治はあり得ない。真の民主主義と法治を実現すること、それが自決である。われわれは、すべての民主派が『基本法』の『基本的欠陥』に果敢にチャレンジし、この回の危機をしっかりと認識し、市民の先頭に立って『基本法』及び全人代による解釈という絶望の壁を突破することを呼びかける」(注5)
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『ホビットの冒険』には『指輪物語』という壮大な後日譚がある。それは持ち主を破滅に追い込む「呪いの指輪」をめぐる壮大なファンタジーだが、香港の運動が勇武派や本土派らの力の源になっている反共・軟弱という幽鬼の「滅びの指輪」や「香港基本法」という「力の指輪」を葬り去ることができるのか。まだまだ続く「香港物語」の帰趨はそこにかかっている。
(注1)「路走到這裏分手:民主回歸派的落幕」(道ここに至りて袂を分かつ:民主回帰派の終焉),蔡子強,「明報」2014年9月4日
(注2)「泛民和泛社運如何催生右翼本土」(泛民と泛社会運動は如何にして右翼本土を醸成したのか),『香港三年』,2016年6月,牛津大學出版社(中國)有限公司に収録香港三年』収録(『香港三年』についてはこちらのブログで紹介→ http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-378.html)
(注3)「攤牌:一國兩制與民主香港」(タンパイ:一国二制度と民主香港),張潔平,『香港三年』収録
(注4)『香港人的出路――争取民主、収回主権』,新苗叢書(1),1983年4月(こちらのブログで簡単に紹介しています→ http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-476.html)
(注5)「爭取真正的民主和法治, 就是自決―朱凱迪、羅冠聰、劉小麗就第五次釋法的回應」、2016年11月16日(自決とは、真の民主主義と法治を実現すること──中国政府による5度目の香港基本法解釈に対する朱凱迪、羅冠聰、劉小麗の回答)(全文含め解説的なことはこちらのブログを参照→ http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-342.html)
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