やはり読まずに紹介したら、いつも通りにボロがでましたね(→こちら)。本書『マルクス 古き神々と新しき謎──失われた革命の理論を求めて』は、第四章までありました。目次も見落としてました。
第四章は「誰が箱舟を作るのか」という、気候変動についての章。タイトルの「箱舟」とはこういう意味だそうです。
「現在のみじめな政治に任せたら、もちろん、貧困の都市はほとんど間違いなく希望の箱舟となるだろう。われわれがますますノアのように考え始めなければならない理由である。歴史上の巨木のほとんどがすでに切り倒されているから、新しい箱舟は必死になった人類が、反乱を起こした共同体で、剽窃した科学技術で、密輸されたメディアで、反逆の科学で、そして忘れられたユートピアで、手近に見出すような材料で作られる必要があるだろう。」(270p)
著者曰くこの第四章は「論理的な絶望」と「ユートピア的可能性」の二つのパートに分かれているそうです。
最初の部分の「論理的な絶望」について著者はこう書いています。
「最初の部分、『知識人の悲観論』の中でわたしは、わたしたちが地球温暖化との闘いの、最初にして画期的な段階で負けてしまったと信じる理由を提示する。<京都議定書>は…気候変動に関して『計測できる何ものも』なしてはこなかったのである。全地球的な二酸化炭素の排出は、この議定書のおかげで低下すると思われていたのと同じ量だけ増大しているのだ。」(269p)
罰則のない努力目標だけの京都議定書、しかも最大の温室効果ガス排出国のアメリカはそこから抜ける、クリーンコールの欺瞞といった環境NGOがいう批判だけでなく、京都議定書以降の不作為のツケが国際的な階級格差の線に沿って被害が拡大していること、そして京都議定書が市場メカニズムを通じたエセ解決策へと道を開いてしまったことを正しく指摘し、最後に「南のラジカル派は正当にもまた別の負債を指摘する」と述べています。エコロジカル・デット(環境債務)のことですね。つまりクライメート・ジャスティスの主張の紹介にもなっています。
二つ目の部分の「ユートピア的可能性」について著者はこう述べています。
「この章の第二部である『想像力の楽観論』はわたしの(第一部の悲観論に対する)自己反駁である。わたしは地球温暖化のただ一つのもっとも重要な原因──人類の都市化──がまた21世紀後半における人類の生存という問題に対する潜在的に第一の解決法だというパラドックスに訴える。」(270p)
ちょっと難しいですが、気候変動に対するオルタナティブ的な対案は、エネルギー権力の分散化や小規模化、地域化、脱成長など、先進的な実践を含むさまざまな案が提示されいていますが、著者はここでエコロジー社会主義の解決策の一つとして、19世紀末から20世紀初頭にかけて、おもにアナーキストやマルキストのあいだで行われてきた「新しいアーバニズム」の議論に基づいてオルタナティブの骨格を提示しています。
「(格差や環境破壊に象徴される新自由主義的な都市とは違い)それとは対照的に、もっとも『伝統的に』都市に属する様々な特質、小さな都市や町の規模でさえ、結びついてより良い循環を作る。都市と田舎にはっきりとした境界がある場所では、都市の成長は空き地と活力に満ちた自然システムを残すことができ、その一方で交通機関と住宅の建設に、環境的な<規模の経済>を生みだす。周辺から都市への接近が可能になり、交通はより効率的に規制できる。廃棄物はもっと簡単にリサイクルされ、川下へと排出されることはなくなる。」
「(理想的な)」典型的な都市像では欲望と帰属意識の社会化によって共同の都市空間の内部で、公共の贅沢品が私有化された消費に置き換わる。公共の、利益を目的としない住宅の広い領域は、都市の全域でフラクタルな比率での(ほぼ均等な)国民的・収入的不均質さを再生産する。平等な公共サービスと都市景観が子ども、老人、特別な必要を持った人たちを念頭に置いて設計される。民主的なコントロールが、高いレベルでの政治的動員と市民参加を伴った累進課税と計画のための、また独占的なイコンよりも市民の記憶を優先させるための、そして仕事、レクリエーション、家庭生活の空間的統合のための、力強い可能性を提起する。」(227~228p)
ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』で描かれたエコロジカルな22世紀のイギリスの風景を彷彿とさせる。一歩(百歩?)間違えると、旧ソ連東欧の人為的で強制的な都市計画になりかねないが、その点はさすがニューレフト・レヴューの編集者なので、しっかりと指摘している。
「スターリン主義が建築と美術で、モニュメンタリズムに向かって舵を切り、それは規模と構造において非人間的で、第三帝国のアルベルト・シュペーアのワーグナー的誇張法とほとんど変わるところがない。」(290p)
戦後高度成長の都市化にも批判の矛先を向けている。
「戦後の社会民主主義は、新しいアーバニズム(クロポトキンからはじまるラディカルな都市的生活様式の議論:引用者)を放棄し、安い郊外の地所に高層建築を立てるという計画で、規模の経済を強調するケインズ流のマスハウジング政策に賛成し、それによって伝統的な労働者階級の都市との一体意識を根こそぎにした。」(290p)
非常に重要な第四章の存在に気が付かなったということで、たくさん引用しましたが、
長くなってしまったので、あとひつだけ引用して終わります。
「地球温暖化を抑制する動きが、生活水準を上げ、世界の貧困を消滅させるための闘いと一つにまとめられない限り、温室効果ガスを削減することにも人の生息環境を人新世に適合させることにもほとんど希望はないだろう。そして実生活では、IPCCの過度に単純化されたシナリオを超えて、このことは都市空間、資本の移動、資源貯蔵庫、そして大規模生産手段の民主的コントロールのための闘いに参加することを意味する。」(291p)
この第四章、じつはまだちゃんと読んでいませんが、引用した箇所以外の多くはIPCCの報告とそれに対する著者の批判含め、ほとんど何を言っているのか理解できませんでした。
この章は2009年1月に著者がUCLAの「社会理論および比較歴史センター」で行った講演だそうです。このころは気候変動に対して「System Chang Not Climate Chang!」の声が盛り上がり、前年のリーマン危機もくわわったことで、世界中でもう一つの世界を求める運動が再興したときだったこともあり、気候変動問題も集中して勉強した記憶がありますが、それ以降の10年もほったらかしにしてきました。
つまり、クライメート・ジャスティス運動との連合をもとめるエコロジー社会主義の主張の紹介にもなっているのです。本書のサブタイトル「失われた革命の理論」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて行われてきた「新しいアーバニズム」を現代的に蘇らせる意欲的な試みです。
失われた革命理論を掘り起こすとともに、2008年リーマンショックの翌2009年12月のコペンハーゲンでの気候変動枠組締約国会議(COP)にむけたクライメート・ジャスティスやエコロジー社会主義の文献を読み直して、現在進行形の危機とオルタナティブの議論に追いつくとともに、「大規模生産手段の民主的コントロールのための闘いに参加すること」に再チャレンジする必要がありそうです。

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