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區龍宇インタビュー:香港の抵抗は続く(独Sozial.Geschichte Online)

香港の抵抗は続く Sozial.Geschichte Onlineインタビュー

【以下の文章は、区議会議員選挙で民主派が圧勝した直後の11/26までに、ドイツのウェブマガジンSozial.Geschichte Onlineが行ったメールインタビューです。原文はこちらから】

本紙は香港で進行中の抵抗運動に引き続き格別の関心を寄せている。これが、2019年に世界中の多くの地で起こった市民の叛乱の一環だからだ。欧州、中南米、アジア、中東、マグレブにバラバラに存在するこうしたホットスポットが近い将来のより大きな蜂起のうねりの表れなのかはまだ分からない。下記は、本紙がAu Loong Yu氏にeメールで行ったインタビューの第一部であり、言及されているのは、2019年11月26日までに起こったできごとである。Au Loong Yu氏は香港の著述家・活動家で、域内・海外の社会運動と幅広いネットワークを持っている。

質問:香港の運動が勃発した直後の8月に行われたJacobinのインタビューでは、「北京の体制が安定したままなら、香港の人々の蜂起はたぶんよい結果には終わらない」と発言されていたが、抗議は2019年11月の今でも勢いがあり、域外にもその動きが伝わっている。6ヶ月間デモ、占拠、警察との暴力的衝突を続けてきたこの運動にはどのような特徴があるとお考えか?

Au:中文大学の学生が11月11日から14日まで4日間警察と対決した後、11月17日に大きな衝突が勃発した。数百人の機動隊員が理工大学を包囲し、私がこれを書いている今も包囲は続いている。

反逃亡犯条例の大きな運動は、3つの段階を経て、香港の自治をまもる闘いに発展した。第一段階は百万人単位の市民が参加するデモ[103万、200万+1]があった6月。立法会が包囲され、暴力もあった。その後キャリー・ラム(行政長官)の香港政府は条例案審議の中止を発表したが、人々の不満は収まらなかった。労働運動の動きにも言及する必要がある。6月17日には民主派労組のHKCTUがストライキをよびかけたが、うまくいかなかった。

7月1日に立法会の建物に突入したのは急進的な若者たちだった。これが運動をさらに高潮させた。短時間ながら立法会を占拠できたのは警察が撤収したからでもあるが、おそらくこれは最初から急進派の突入を誘い、衝突を引き起こそうという思惑でのことだったのだろう。いずれにしろ、この行動が運動をさらに高いレベルに押し上げた。しかし、その後に起こったのはとんでもないことだった。警察が(中国大陸との境界のすぐ近くにある)元朗地区のマフィアと共謀して、住民やデモ参加者を震撼させるべく、駅で無差別攻撃を行ったのだ。これが人々を怒らせた。最も穏健なリベラルたちまでが腹を立てた。

こうして、われわれはさらなる急進化を目にすることになった。さまざまな地区で16か17のデモがあった。コミュニティレベルで運動の広がりが見られた。これは香港ではかつてなかったことだ。これをもたらしたのはマフィアの襲撃である。7月27日の抗議活動はさらに大きな意味があった。このときまでデモは合法だったが、7月27日は始めから警察が許可を出さなかった。香港の人々は非常に穏健である。もしくは長年にわたって穏健だった。普段であれば、不許可になっても受け入れていただろう。今回はしかし、何十万という人々が敢然と街頭に繰り出した。これほど多くの人々が市民的不服従を行ったのは、今回の運動が始まって以来初めてのことだ。これが8月の展開への基礎となった。

運動の第二段階

8月に第二段階の幕が開いた。この第二段階がクライマックスとなった。8月5日、またもストライキがあり、今度はうまくいった。香港経済の一セクターがストライキの動きを決定づけた。空港・航空産業の従業員たちだ。30万ないし40万人がストライキに加わった。その後8月中は2、3日おきに勝利の行進が行われた。 7月を上回る人数がデモ行進に参加した。こうして動員が続いた。8月12日にはさらに大規模な空港占拠があった。

しかし、9月2日、3日のストライキの呼びかけはそれほどうまくいかなかった。労働者や組合が北京からの報復を怖れたためだ。北京は8月5日のあと既に、キャセイ・パシフィック航空の経営陣に従業員の労組[訳注:"委員長"が抜けていると考えられる]と30人以上の従業員を解雇させ、爪を露わにしている。学生も労組もストライキ参加者を解雇から守る方法が見つけられなかったので、この第2波のストライキがあまりうまくいかなかったのは驚くに当たらない。

しかし、9月始めの授業ボイコットは大変うまくいった。今や大学生とともに高校生までが授業ボイコットを組織した。この小さな都市でデモは通常の活動になった。運動には問題もあった。リーダーのいない運動で、リベラルにせよ本土派にせよ、どの政党もここまで何ら意味のある役割を果たすことができずにきたため、非常にまとまりがなく、混乱も起きがちだ。例えば10月1日には、一つの大きなデモ行進が行われたのではなく、香港各地でさまざまなデモが行われた。

占拠とスト

10月から運動は第三段階に入った。この段階を膠着状態と表現しようと思う。またストを打ったり、禁止に抗って100万人デモをしたりというのは難しくなり、運動自体は隘路に陥っている。一方、政府もまた運動を押さえ込めずにいる。11月11日、ストライキと授業ボイコットの呼びかけがあった。11日、14日の学生と警察との戦いは印象的だった。学生たちは4日にわたり大学を占拠した。中文大学での占拠が最大だった。その理由は他の大学からの多くの学生が支援に来たために、12日夜の警察の攻撃に抵抗できたからだ。しかし、組織や占拠者のなかで調整機能を果たすグループがなかったために、中文大学の学生と外から支援に来ていた者たちとの間で戦略をめぐる意見の違いが大きくなった。中文大学の学生たちは他大学の学生の一部が乱暴な真似(施設の破壊)をしたことに腹を立てた。結局大学当局がキャンパス全体を閉鎖して占拠は終わった。

ストのほうは、これが3度めの呼びかけだったわけだが、やはりあまり成功しなかった。その日出勤できなかった人が多かったのは事実だが、率先してストライキに参加したからではなく、学生たちが30あまりの幹線道路や鉄道に近接するキャンパスを占拠したために実質的に香港の心臓部の半分ほどがマヒしてしまったからだった。

しかしこうした行動は、一般の社会人には参加できないか、あるいは、まだ彼らが参加する気になってはいない行動だ。今では、急進的な行動を大衆的に行う基盤が狭まる危険がますます出てきている。この間、禁止されてもデモに行くという人々の数も減っている。その一方で、5大要求への支持の広がりを示す兆候もある。これは政府の強硬策が招いた結果だ。警察の暴力も重要な役割を果たしている。衝突が起こるたびに警察はコミュニティの中まで抗議者を追いかけ、催涙弾を撃っている。こうした警察の行動が、当初は中立的だったり政府の政策を支持していた人たちをひどく怒らせている。運動がもたらしたよい影響の一つが、9月以来コミュニティレベルの抗議がますます当たり前に行われるようになったことだ。

さらに、労働運動で闘う重要性を認識する若い活動家がますます増え、彼らは今や労組への加入や新しい労組を組織することをよびかけている。ある若い公務員が公務労働者の組合をつくろうと呼びかけ、これに大変よい反応が寄せられている。数百人の公務員が加入したとのニュースが報じられた。これは、こうした動乱の時にすばやく反応してこなかった従来の組合につきつけられた答えでもある。とは言え、8月5日のストライキができたのは従来の組合からの支持があったからこそだ。このストがなかったら労働者の重要性を香港市民に証明し、新しい世代を労働者支援へと向かわせることはできなかっただろう。

力の非対称

確かに一部の抗議者による暴力の度合いが高まり、時に正当化できないほどになっているのは事実だし、個々のケースによっては非難に値する。しかし、黄色リボン側の大半は今でも概ね暴力よりは非暴力の抵抗をしているように見える。また、彼らの多くは抗議者全体をそれほど批判的に見てはいないのも明らかだ。これは香港世論調査研究所が最近行った調査でも裏付けられている。香港住民の83%は政府側の暴力に問題があるとしている一方、抗議者に非があるとするのは40%にすぎない(2つは別々の質問として問われ、一方への回答がイエスでも必ずしも他方の答えがノーとはならない)。この調査の結果は別の調査の結果とも一致している。人口の70〜80%が運動の5大要求を支持している。

急進的な若者たちにいまだに人々の支持を得ているものの、黄色リボン派の多くは依然ストをしたり警察と戦ったりはしたくないと思っている。先に述べたとおり、現在動員力は弱まっているというリスクがある。普通の抗議者たちが思い切った行動ができないからといって責めてはいけない。彼らは大人として、単純な真実を若い人たちよりもよく知っているのだ。香港は「自治」政府だけでなく、何よりもまず北京が統治しているということを。この香港と中国という国との間の絶対的な力の非対称性の前では、分別ある人なら誰でも、香港という一都市のなかだけの革命というアイデアを考えなおす。香港に勝利の目があるのは、大陸の中国国家が一緒に大衆蜂起する準備ができたときだけだ。しかし、その展望はまだない。

さらに、香港は2014年の雨傘運動以降、1949年以来とも言うべき深い分断を抱えてきた。共産党と国民党の対立は深いとはいえ、これは両党の間だけにほぼ限られていて、一般の香港住民にとっては大して意味のあることではなかった。だが2014年末香港の人々は雨傘支持の黄色リボン派と反対する青リボン派の真っ二つになっていた。雨傘運動収束後に中文大学が実施した世論調査では、面接したうちの33.9%占拠を支持していた。立法会選挙では民主派が全体として過半数(55〜60%)を得票したが、民主的な市民的不服従は社会の過半数を大きく下回る支持しか得ていなかったのだ。反送中運動が始まってからやっとこれが変わり始めた。この運動は現実に2019年の香港の自治を守る大きな戦いになっていき、絶対多数の支持を獲得した。

2016年の立法会選挙では、118万人が汎民主陣営および色合いの異なるさまざまな"地域主義者"や"自決提唱派"を含む反政府側に投票し、得票率は55%だった。これが黄色リボン派の基盤である。送中条例案は黄色リボン派の基盤を広げたのは間違いない。6月16日、香港島で200万人がデモ行進をした。この人数が黄色リボンの大まかな規模をつかむヒントになるだろう。また、香港で使われる"薄い黄色"と”濃い黄色”という言葉も運動を構成するさまざまな人々を理解する参考になる。前者は広い意味での民主派支持者で、他方後者は強固な民主派支持者である。"薄い黄色"が穏健派なら、彼らは投票や平和的なデモには行く一方”濃い黄色”は無許可デモや非暴力の市民的不服従でも行こうと考えている、と想定してよいだろう。最大の違法デモは7月27日に元朗で起こったもので、28万人が街頭に出た。この日もまた警察の攻撃にあい、無許可デモが路上での戦いへと展開した。この日以来、これが通常パターンになった。このできごとは、運動の中に"濃い黄色”がどのくらいいるのか見当をつけるのにも役立つ。

もう一つの分類は抗議者が用いる手段による。"武闘派"対"非暴力派"だ。前者は力に訴えることを主張し、実際に投石から火炎瓶まで力ずくの手段を取る人々からなる。彼らは、今や暴力的手段への抵抗により寛容になった"濃い黄色”からの支持を頼みにしている。"武闘派"はどのくらいの勢力だろうか?誰も知らないが、"濃い黄色"派より少ないのは間違いない。その"武闘派"はさらに、警察の暴力に抵抗して実際に力に訴える者たちと、武器の材料を提供したり道路封鎖をしたりといった援護をする側の者たちとに分けられる(ファーストエイドを行う人々はここでは含めないが、彼らも逮捕されたりケガをしたりしやすい)。"武闘派"に関わりがある人々は5000〜1万人、あるいはそれ以上と推定されている。

正しく推定するのが難しい理由の一つは、運動の性格自体から来る制約があるからだ。この運動は既に述べたとおり、いかなる形の"代表”も決して認めないほどの、リーダーがいない、組織だっていない運動だ。"武闘派"ですら、たくさんのそれぞれ10人、20人ほどの小さなグループからなっており、行動の調整は専らSNSに頼っている。自発性信仰のマイナス面は、細分化が行動を弱める場合もあることだ。例えば、10月1日の国慶節対抗行動を決めるためのオンラインでの議論は最後の最後で合意ができず、いろいろな場所でデモ行進が行われるという結果になった。

その一方、青リボン側も勢力が強まらず、むしろこれまでずっと弱体化を続けている。北京が本当の狙いをさらけ出したからだ。"薄い青"の人々の間ですら、現在の抗議が実実際には"若者の理想主義"や"暴力の濫用"だけでも、送中条例案だけのことですらなく、香港の人々が抵抗して行動しない限り、香港の自治が完全に損なわれてしまうことに多数が気付き始めた。

質問:2019年10月中国共産党声明は、香港での「法の強化」を宣言した。強力に制圧する対象は主に若者の運動のうち、暴力闘争を辞さない者たちだ。このことは動員や運動内のさまざまなグループの発展において、どのような意味を持つのか?

Au: 10月4日、政府は緊急事態条例を発動して覆面禁止法を成立させた。これは直ちに過激なデモ、警察との衝突を招き、デモ参加者は禁止に抗って覆面をつけた。市民的不服従が拡大し、覆面禁止は全く実効性がなくなったばかりか、政府への嫌悪、軽蔑がかつてないほどに高まる結果に至った。
2003年のSARS大流行以来、香港ではマスクをつけることが一般化し、ごく軽い風邪でも普通になったいるからなおさらだ。ヨーロッパの人はへんに思うかもしれないが。

この大衆の怒りは間違いなく11月24日の区議会議員選挙が迫る時期、親中派にとってはまずいことだった。北京はこれを懸念し、親中派は選挙の延期を画策し始めた。もし、まさにこれが狙いだったのなら(ここ香港では、中央政府駐香港連絡弁公室(中漣弁)の直接管理下にある北京寄りの諸派は、彼らのより暴力的な反撃を正当化するために外国向けには常に挑戦的に振る舞う)、かなりうまくいったということになる。つまり、人々は今や怒りのあまり抵抗運動において力に訴えることを容認してもよいと以前よりも思うようになっている。政府がむやみに暴力的な鎮圧や悪意ある政治トリックに頼ることは、実は反政府派全体の中での異なる諸派を結束させる役割を果たしているということだ。

高裁が覆面法は基本法違反との高裁判決が出た時、運動はさらに高い次元に進んだ。越権行為だと北京は高裁を激しく非難した。もし北京が強硬路線を続けるなら、その時にはおそらく基本法解釈・再解釈権限を再び用いて高裁判決を覆すだろう。もしそうなったら、そして北京は同様のことをすでに何度かしてきているわけだが、それは北京が公式に香港の法治と自治の死を宣告することを意味する。その結果は(香港の法制度に依存して事業を行っている)外国資本や香港にとって破滅的であり、したがって、北京にとってもそうなる。北京があまり面子を失うことなくこの危機を解決する方法は確かにある。しかし、それには柔軟性、知恵、そして少なくとも寛容になり異なる意見に耳を傾ける能力が必要だ。しかしながら、中国共産党の最高指導者たちはこうしたスキルに秀でているとして知られた人々ではいない。であるから、私たちはみな崖っぷちに立っているというわけなのだ。

地政学的状況

中国と米国の争いは、例えば米露のといった他の争いとは異なる。前者の関係は経済的にも政治的にも近年まで極めて近しいものだったが、後者は違った。経済面はよく知られている(2つの面を直ちに切り離して論じることは、どちらか一カ国が経済のメルトダウンも辞さないというつもりにならない限りあり得ない)が、香港をめぐっては政治面でも両者は過去40年緊密な協力関係を続けてきた。いわゆる「一国二制度」は英国に対して歴史的妥協をするために北京が行った最初で最大のイニシアチブであるが、戦術的にはアメリカに対しても、香港の主権を取り戻すだけでなくグローバル資本主義に完全に統合されるために行ったものである。そして、西側に対して最初に十分に譲歩しなかったなら、鄧小平は2つの目標を達成することは決してできなかっただろう。であるから、1984年の英中共同宣言とそれに続く1990年の基本法制定は実質的には、香港のステークホルダーの一者として、英国を代表とする西側の権益を認めたものなのである。

現在の香港の運動では、英国出身の香港警察警視正ルバート・ドーヴァーが強硬派として非常によく知られていた。"外国勢力"を探している人は、ドーヴァー氏がどのように香港人抗議者たちの頭蓋骨を砕いてきたかを見るべきだ。実際、香港には外国のパスポートを持つ警察官が数百人もいる。これは、公務員または政府のコンサルタントとして外国人を雇用することを保証する基本法101条で保護されている。また基本法は、英語を公用語として継続使用すること、慣習法制度の存続、香港の裁判所への外国人判事任命、香港人が英国パスポートを持つことの許可等々も保証している。したがって、2047年までの基本法が有効な間は香港の不安定化は英国や米国、EUの利益にはならない。むしろこうした国々は、利益を考えれば香港の政治制度を安定化する政策にしたがうべきだという結論になる。このことはまた、英米が2014年の雨傘運動勃発に先立ち香港の汎民主派に対して、北京の政治改革案を受け入れるようにと伝えただけだったのはなぜかを説明する。これは北京の一方的な香港政策変更で、約束を守ることの拒否であったわけだから、香港を巡って西側を反北京にしかねないものだった。

北京が香港の自治を損なおうとしていることに加えて、米国は確かに中国について、貿易摩擦や、もっと重要なグローバルな覇権といった他の不満も抱えている。そのいずれでも米国は香港の支持を必要としない。一般的に、米中のグローバル覇権争いは単なる分け前を巡る闘いで、われわれの闘いではない。しかし香港は別問題だ。香港のレッセ・フェール資本主義は当地の労働者にとって非常に問題であることは疑いないが、基本法は基本的人権の保護を提供するものでもある。これは社会運動の発展を可能にする。 対照的に、中国の官僚的資本主義はいかなる社会運動も反政府的立場も許容しないのでより悪い。この接合点において、今香港の自治を守ることは西側と香港の人々との狭い意味での共通の利益になっていると言うことができるだろう。世界の市民社会はこの自治を守るために香港の人々と連帯するべきだ。私たちが欧米の超大国を信頼しないとしても(信頼しないべきだが)、この自治防衛を、内外資本の企業の利益と引き換えに労働者の権利を拡大すること(例えば、香港に団体交渉を導入するのを企業が歓迎しないことは間違いない)に結びつけるべきだ。私たち香港人を支援することを拒んでも米帝国主義はかすり傷一つ負わない一方、香港の人々と社会運動にとっては必ずやダメージになる。

こうした背景での米国の「香港人権民主主義法」案(訳注:これが書かれたのは法の成立前)である。香港の人権と米国の外交政策を結びつけるこの法案を無批判に支持するのは愚かなことだ。

右翼的本土主義

国際連帯に関してもう一つ問題となるのが黄リボンのなかの排外的なナショナリストグループの存在だ。10年ほど前「地域主義者」という新しい思潮が登場した。当時すでにこの思潮には多様な考えが混在していたが、一部は進歩的な保守派だった。しかしまたたく間に本土派の言説は右派が支配するようになった。香港はだいたいずっと保守的ではあったが、当時まで右派の香港主義者というのはいなかった。実のところ、彼らは「地域主義者」というよりは「香港人主義者」だ。

雨傘運動が始まってまもなく、排外的地域主義者が「左翼野郎に注意!」と書いたステッカーやバナーを占拠地にくまなく貼って回るようになった。左翼がほとんどいないことを考えればこれはナンセンスだ。こうした攻撃は主に学聯や占拠に加わった社会団体・活動家を標的にしていた。彼らのスポークスマンは黄毓民(レイモンド・ウォン)や学者の陳云根(チン・ワン)だった。この2人に黄毓民(レイモンド・ウォン)の弟子・黄洋達と合わせた排外3人組は「ニ黄一陳」とあだ名されたが、それぞれ自分の団体を持っていた。彼らは占拠地で下記のようなことをした。

1.他の民主派が声を上げられないようにする。
2.彼らの目標を達成できるよう大衆を扇動する。
3.暴力を振るう、あるいは振るうぞと脅す。
4.中国の人々を駆逐すべき「イナゴ」と呼び、彼らについて差別的なことを言う。
5.大陸からの移民を社会保障費泥棒と攻撃する。

興味深いのは、彼らのしたことがあまりにもデタラメだったので、2016年の選挙で落選し、影響力を失ったことだ。若者がつくった小さな本土派団体は2つばかりあるが、小さすぎて運動の中で自分たちのアジェンダを実行する力がない。彼らに何らかの思想的影響力があるとすれば、それは一つに、香港がいわゆるレッセ・フェール社会の文脈の中で常に保守的できたからであり、2つ目は、北京の抑圧に激怒するあまり中国の人々がみな北京政府のやることに責任があると思い、そのため彼ら全般を敵視するという誤りに陥ってしまった人々がすでにいたからにすぎない。しかし、こうした本土主義者はごく少数だ。大まかに言って、地域主義者と自称する人々は10%を少し超える程度の票を得られると考えられるが、地域主義者が必ずしも本土派ではないことを忘れてはならない。

現在の運動が勢いを増し、政治運動に関わるのは全く初めてで、既存政党とは何のつながりもない何百万もの普通の市民、何十万もの若者が加わるようになったとき、若者が本土派の使う言葉やアイコンの一部を用いるようになったものの、本土派の言説は大幅に薄まってしまった。最近の調査結果では、学生の40%が自らを地域主義者としているが、これは急進的な若者とは別だと考えるべきだ。本土派は実のところ、若者が使うようになった本土派由来のスローガンのいくつかを除けば、はっきりと定義できる思潮として見えるものではない。本土派が利用できる可能性のある、コミュニティでの小規模な行動はあるが、それでも7月7日には、大陸からの訪問者たちに向かって運動の支持を訴えようと23万人もが高速鉄道の駅へデモ行進したのだ。本土派は何年も、大陸の中国人は皆"専制支持のクソども"だと叫んできた。多くの抗議者たちがそうした主張に耳を貸さなかったことは明らかである。

現在の運動のなかには、複数の傾向が共存していると結論付けられると思う。暴力の濫用があるといつも、これを止めようと必ず誰かがすぐ出てくる。確かに、政治経験が全くない急進的な若者たちは、たとえばトランプが助けてくれると信じたり、ときには無分別に排外主義者のスローガンを使ってしまったりといった間違いをする。しかし、本土派に傾いてしまうところはあるものの、進歩派に傾く者たちもいて、彼らも行動をしている。左派は傍に立って批判だけしているのではなく、闘いに加わり、本土派的な傾向を見つけ次第進歩的な人々と一緒になってそれと戦うべきだ。

あとがき

先の区議会選挙における反政府派の地滑り的大勝は、香港政府と北京の両方についての住民投票だったと考えてよいだろう。人々ははっきり大声で「北京の強硬路線に『ノー』」と言った。大概、立法会選挙で反政府派は50%から60%の支持を得るが、区議会選挙では以前は40%まで下がっていた。今回親中派の得票は41%だったのに対し反政府派は57%の票を集めたという事実は、確かに大勝利だ。議席数としてはさらに大勝で、263議席増えて全部で388議席を取った。親中派は240議席を失い、59議席にとどまっている。 汎民主陣営の人気は前述の世論調査ですでに表れていたとも言えるが、それでも、汎民主陣営が区議会選挙でここまでの地滑り的大勝を収めると思っていた者はいなかった。運動側の急進的な行動が減ってきていた状況で実施された選挙だったのでなおさらだ。警察はその前の週から理工大を包囲し、数十人の抗議者がなお投降を拒んでいたとは言え、彼らにも、外で支持する人々にもほとんどできることがなかった。選挙での勝利が反政府派全体の士気を大いに盛り上げたことは間違いないし、中文大、理工大での敗北で低下した戦意を取り返した。新たに選出された区議会議員が60人以上も大学の門前に駆けつけ、学内の抗議者たちに連帯を表明したことも、励みになった。

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