
デモクラシーとサイエンス姉弟の世紀を超えた長征
五四から六四へ、そして雨傘運動へ
區龍宇
「明報」2019年5月15日掲載
全文は獨立媒體に掲載されている
https://www.inmediahk.net/node/1064141
【訳注:タイトルの「デモクラシーとサイエンス姉弟」の原文は「德賽姐弟」。あえて訳せば「徳」姉さんと「賽」弟だが、文中で筆者は陳独秀の「徳」先生(德莫克拉西=デモクラシー)と「賽」先生(賽因斯=サイエンス)から発想を得たものだが、ジェンダーバランスを考慮した表現にしたとしている。文中の[ ]は訳注。】
1640年代、中国では李自成に率いられた農民軍が北京を攻め落としたが、すぐに打倒され、満州族の清朝による易姓革命[社会革命ではなく政変]がそれに続いた。同じ時期、イギリスでは新貴族の国会派と国王派の衝突が、最初の平民民主派、すなわち「平等派」(the levelers)を登場させた。彼らは易姓革命のためではなく、普通選挙権のために立ちあがった。平等派は自らの綱領が200年を経た後に労働運動によって引き継がれ、さらに半世紀にわたる奮闘によってはじめて勝利を収めることになろうとは思いもよらなかったであろう。そしてこの民主主義のリレーがすぐに中国にまで広がろうとは、まったく想像だにしなかったであろう。
啓蒙としての五四運動
欧州では、後に「現代性」とよばれるものが、当初から多岐にわたって存在していた。それは経済革命と工業革命であるとともに、科学と人文における革命でもあった。それはブルジョアという新しい階級によって指導され、封建制に砲火を向けながらも、平民民主派の決起も刺激した。この多元的な競い合いの欧州現代性は、中国を含む他の世界の後進国も形作った。五四、六四、雨傘をこのような歴史的な枠組みにあてはめてみると、多くの事柄が見えてくる。
この三つの民主化運動は、当初は少数の意識的な活動家によってはじめられたが、その激震ゆえに、無名の大衆をして卑下した日常性から抜け出させ、憤懣やるかたなく自発的に歴史に介入させた。そしてその正義感を刺激したものは、陳独秀の言うところの「デモクラシー[德莫克拉西]とサイエンス[賽因斯]」(民主と科学)だったのである。
五四運動は、中国で最初の近代的な民主化運動であった。辛亥革命は名義上は共和革命であったが、革命家は新軍による反乱を画策したのであり、民衆を啓蒙して政治に参加させる活動が主ではなかった。革命後に召集された国会の選挙は、有産階級だけに限定され、選挙権は全人口の4~6%だけにしか与えられなかった(原注1)。ゆえに民衆を欠いた共和革命だったといえる。しかし大衆を排除したことにより、その基礎は脆弱になり、それゆえそのような上層階級の共和主義はさらに上層の軍閥に席を譲ってしまうこととなった。当時ある詩ではこう批判している。「無量頭顱無量血,可憐購得假共和(無数の犠牲を払って得たものは偽の共和制だった)」[作者は辛亥革命の武昌蜂起指導者の蔡済民:訳注]
余英時教授は「文芸復興(ルネッサンス)か、啓蒙運動か」という文章で、「五四運動は中国における文芸復興ではないし、中国における啓蒙運動でもない」と述べている。その理由は欧州の文芸復興と啓蒙思想は「何世紀もの時を経てやっと花開いた、内在的な発展と成長である」が、五四運動とは中国人がヨーロッパから「文化的支援」を受けたに過ぎないというものである。(原注2)しかし文化というものは、そもそも相互学習的なものであり、絶対的な「内生か外来か」の違いはあり得ない。いわゆる「地理上の大発見」や世界市場の開拓についても、後進国は先進国の動きに巻き込まれながらもその後を追ってきた歴史がある。重要なことは、中国人がどれだけ海外からしっかりと学んできたのか、青は藍から出たのか[当初のものよりも優れたものになる]、ということである。周国平は『中国人には何が欠けているのか』という著書で、厳復[清末の啓蒙思想家・翻訳家]がミルの「自由論」の翻訳について、原作にはあった自由の「内在価値」が、翻訳では見当たらないと嘆いている。(原注3)しかるに、五四運動の時代になると様相は大きく異なっていた。新文化運動[五四運動の一環]の活動家たちは厳復の時代に比べても一段ステップアップしていた。推奨された個性の覚醒、家庭革命、孔子批判、文学革命、白話文運動[話し言葉で表記する]、民主と科学などなどが、巨大な津波となって中世の価値観を一掃してしまったのである。
実践からデモクラシーが生まれた
五四運動はすべての課題を実現することは出来なかったが、包遵信[歴史家、89年天安門事件の「黒幕の一人」として5年の禁固刑、07年死去]は、陳独秀ら主要な活動家がすぐに政治と革命の世界に身を投じ、「啓蒙は政治運動に屈し、最後には政治運動によって歪曲され、沈没した。・・・啓蒙は・・・自我精神の超克を実現することができず」「理性的思弁の王国へと入ることはできなかった」と考えた。(原注4)
そのように語ると陳独秀らがまるで政治運動に偏った選択肢をしたかのように聞こえる。しかし実際には『新青年』の創刊時には政治問題を扱う予定はなかったのである。1917年、なぜ『新青年』が政治問題を扱い始めたのかと疑問を呈したとき、陳独秀は「政治が無窮の罪悪をつくりだす」ことを痛く恨むがゆえに、「本誌の趣旨としては、もとより時世批判にあるのではなく……国家存亡の大政に関しては、一言も忍んで黙することで満足する」(原注5)と答えている。
しかし彼の政治参加は、啓蒙運動や自由民主の運動を圧倒したのではなかったか?一年後、彼は「今日の中国における政治問題」という文章のなかで次のように説明している。彼のいうところの政治とは庶民のいう政治とは違い、それは「第一に、武断政治を排するのであり…武人が法律を守らないということが悪因のなかの根本的悪因である。…第二に、一党の勢力のみによる国家統一の思想を破棄するのである。」(原注6)これは民主主義を実現するための政治運動であり、大衆が自らの行動を通じて自らを啓蒙するものである。それによってもたらされる革命は、民主主義革命であり、それは啓蒙運動と対立するものではない。
ジョン・ロックを含む古典的な自由主義は民主主義革命を主張していた。だがより積極的に革命的啓蒙を実践していたのは、彼らよりもさらにラディカルな平等派である。平等派はクロムウェルの共和国が平民を排除したことに満足せず、指導者のレインボ(Rainborough)が交渉会議で行った演説は、ロックよりも早い段階において現代的な民主主義の観点を主張していたことがわかる。「わたしは、イギリスで最も貧しい人が、最も偉大な人と同じく生活しなければならないと思う。ですから、みなさん、もし誰かが政府の支配下で生活するのであれば、この政府はまず彼の同意を得る必要があると、私は考えるのです。」もしそうでなければイギリスの最も貧しい人々は政府からの束縛を受けなくてもよい。(原注7)この革命的将軍の言動はまさに啓蒙主義であり、民主主義と革命を結合させたものである。知識エリートが大衆に教え諭すだけが啓蒙なのではない。大衆もまた自ら学ぶのである。本から学ぶこともあれば実践を通して民主と科学を学ぶこともある。その後、産業革命が近代的労働者階級を生み出した。マルクスは最初に労働運動活動家を見出した際、「かれらの知識欲、精神力、そして精神的発展を倦むことなく追求するその渇望」に深く感動している。(原注8)
現代における民主的労働運動
別なレベルにおける五四運動の意義とは、それが中国で最初の労働運動の登場を刺激したことである。これは現代化の別な一面に行きつくことになる。文化の役割は非常に重要であるが、それは往々にして「物を潤して細やかにして聲無し(細やかに音もなく物を潤して降り注ぐ)」である[杜甫の「春夜喜雨」より]。経済的、技術的そして軍事的革命は激しい集中豪雨のようである。1840年[アヘン戦争]以来、中国は「資本主義の発展に悩まされながら、それが発展しないことにも悩まされてきた。」(原注9)しかし1914年の第一次世界大戦で欧州の工業生産がすべて戦争需要に用いられたことで、中国が自国工業と市場を発展することのできる機会をもたらした。わずか十年あまりの短期間で、産業プロレタリアートは倍増した。それは火種さえあれば一気に怒りを爆発させることができた。五四運動こそが火種となったのである。そして1925年の上海五三〇運動(日本資本の工場で労働者の顧正紅が銃殺されたことが起因)から革命に転化した。労働運動は全国に広がり、香港では植民地政府に対する巨大なストライキが1年4か月も続いた。香港を封鎖して輸出入を阻止したことで、香港は「死港」や「臭港」(清掃労働者のストに入ったため)と呼ばれた。当時の香港総督セシル・クレメンティはスト労働者を「無秩序、無政府の徒」であり文明を代表するイギリスを攻撃していると非難した。実際には広州に戻った25万のスト労働者は、ストライキ委員会による自治を行い、労働者に対して職住を提供し、一つの病院と17の学校の運営を行い、さらにはピケットライン要員を組織して香港との境界の封鎖を貫徹するなど、秩序的な活動を行っていた。(原注10)彼らは義和団ではなかった[ここでは外国人であれば見境なく(無秩序に)攻撃するという意味で義和団が使われている:訳注]。
大革命[1925-27年]は敗北し、北伐の伐採で台頭したのは蒋介石の独裁だった。個別の決定的な時点における決断の誤りには言及しないとすると、敗北の根本的な原因は、その当時の労働者階級の数があまりに少なすぎたことが成功を難しくしたのであり、敗北から立ち直るには尚更のこと時間がかかったといえる。世界情勢はかれらに時間を与えてはくれなかった。「現代性」には当初から暗部が伴う。つまり植民地主義と戦争、「教師が生徒に体罰をふるう」(先進国による途上国侵略)である。すぐに日本による中国への全面侵略がはじまり、沿海部の工業重点都市は陥落し、労働運動は厳しい局面に追い込まれる。
秦漢体制の現代化とその矛盾
1949年に中華人民共和国が建国された。それは労働者人民を代表すると言われたが、実際には労働運動に対する警戒心を最も強く持った体制であり、政府の労働部門や労働組合の開明派であった賴若愚や李立三などは粛清の対象となった。後期になればなるほど、中国共産党の「現代化」は、「現代性」の最良の部分――啓蒙主義の理性、自由、平等、民主主義、多元性、各種の社会運動など――をそぎ落としていき、中体西用だけが残り、船堅く大砲は鋭利になり、原水爆を保有し人工衛星を打ち上げるまでになった。だが労働者の権利を含む人権はそれとは逆に犠牲になった。その被害は今でも続いているが、北京大学出版社から毎年出版される『現代化報告』では、現代化の範囲は各方面に及んでいることがわかるが、唯一存在しない項目が政治の現代化である。毛沢東は成功した、そしてまた現代テクノロジーで武装した李自成と洪秀全と変わるところがなかった。
毛沢東は李や洪の再来というだけではない。彼はイギリスを追い越しアメリカに追いつくという大躍進政策をとったことで、明らかに現代化の知識に欠けたままそれを推進したにもかかわらず、客観的には工業化と都市化を推進することにもなった。それは大学教育と労働者階級の発展を促進した。1989年になると、中国人の文化水準はかつてとは比べ物にならないほど高まり、大学生と産業労働者も空前の数に増加した。これらの新世代にとって「秦漢体制下の現代化」の欠点はますます明らかになっていた。1989年5月~6月にかけて百万の人民が大学生の授業ボイコットの支援に立ち上がった理由がここにある。
89年民主化運動の歴史的意義とは、人民がはじめて強烈な市民的不服従を通じて西太后式の現代化に反対票を投じたことにある。工人聯合会も無数の大字報[壁新聞]を貼り出し、「専制と独裁を葬り去り、国家の民主化を進めよう」と呼びかけ、学生に対して、もし民衆の支持を勝ち取りたいと思うなら「単に民主主義を叫ぶだけでなく」、労働者民衆がいかに官僚から搾取されているかに関連付けて語るべきだとアドバイスした。(原注11)民主化運動は敗北した。しかし残された遺書は、それまで少人数の参加にとどまっていた香港の民主化運動を大衆的な運動に押し上げた。雨傘運動は「第一動者」の次の第二の波動にすぎない。そもそも民主化の長征には100年や200年かかることは当たり前である。研究者の陳方正はトルコを例に挙げて、欧州に隣接しており中国よりも早くに欧州に接触してはいるが、トルコの現代化と民主化は二世紀にもわたっているが未だ途上にある、と指摘している。(原注12)歴史は必ずしも民主主義の発展に向けて進んでいくとは限らない。つまり歴史目的論は誤りであり、現代化理論(modernisation theory)においても多くの弱点がある。なぜなら、歴史の発展は各種の社会勢力による対立の結果であり、その結果をあらかじめ予測することは難しい。だがこの各種勢力には、当然にも民主勢力が含まれており、それは現代化に伴って強化されていく。君はどの勢力の側に立つのか、それが重要である。
六・四天安門事件から30年が経とうとしている。悲観が大地を覆っている。かつて研究者の資中筠がこう嘆いたことがある。今日の中国では「上層は西太后、下層は義和団だ」と。(原注13)そのとおり。西太后がいるから義和団がいるのだ。だが中国にはその二つだけしか存在しないというわけではない。秦漢現代化計画それ自体が最大の矛盾なのである。それが成功すればするほど、自ら統制不可能な現代化の勢力を作り出す。この間おこなわれた左翼学生と労働者組織に対する全面的な弾圧は、まさに大学生と被雇用者階級とを、そして五四運動の再演を最も恐れているからに他ならない。その恐れこそ、アキレスの踵とは言えないだろうか。
2019/5/15「明報」掲載
原注1 《劍橋中華民國史》,費正清,上海人民出版社,第一部,1991,235頁。
原注2 《五四新論—既非文藝復興,亦非啓蒙運動》,聯經出版事業有限公司,1999,16頁。
原注3 《中國人缺少什麽》,香港中和出版有限公司,2017,342頁。
原注4 《未完成的“涅槃”—對“五四”的反思》。《五四與現代中國—五四新論》収録,山西人民出版社,1989,127-8頁。陳方は《大逆轉與新思潮—五四、啓蒙與現代化探索》で余英に回答を寄せているが,モンテスキューとヴォルテールは純粋フランス産ではなく、イギリスの影響を多分に受けていると述べている。43頁。
原注5 《答顧克剛》。《陳獨秀文章選編》収録,三聯書店,1984,225頁。
原注6 《陳獨秀文章選編》収録,三聯書店,1984,268-270頁。
原注7 The English Levellers, Edited by Andrew Sharp, Cambridge University Press, 1998, reproduced by 中國政法大學出版社,2003,p.103.
原注8 《馬克思傳》,梅林,人民出版社,1972,133頁。
原注9 《資本論》第一版序言,法文版第一卷翻譯,中國社會科學出版社,1983,3頁。
原注10 The Tragedy of the Chinese Revolution,Harold R. Isaacs,2010, Haymarket, Chicago, p.57-8. 中譯本:《中國革命的悲劇》,伊羅生,東亞叢書,1973,香港,128-9頁。中譯有網上版。
原注11 《中國民運原資料精選》,十月評論社,香港,1989,30及33頁。
原注12 《大逆轉與新思潮—五四、啓蒙與現代化探索》にトルコに関して数章が割かれている。中華書局,香港,2018.
原注13 《在習大大與民主黨派“共識”座談會上的發言》
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