
【訳注:反送送が大衆化した直後の論評。この時からすでに5カ月近くが経過しており、状況は刻一刻と変化し、弾圧も拡大している。普通選挙を求める世界史的な闘争としてとらえ返す時、區氏の主張の意味が浮き彫りになるだろう。2019/11/11】
リーダーなき運動についてのあれこれ
區龍宇
2019年6月27日
6月21日の警察本部包囲は、最終的に全員撤退したが、昨晩[6月26日]の警察包囲行動では、一部で衝突が起きた。だがそれ以上に重要なことは、全員が撤退せず、百人以上が事後の弾圧用に一時拘束されて身分証などを調べられるリスクを冒してまで、その場に留まり続けたことである。
雨傘運動以降、意気消沈した状況は、幸いにも青年や学生らが前面に躍り出て、100万の市民がそれを後ろから支える状況に転換しつつある。香港の裏切る政府高官らの陰謀を暴き出し、抗議の声を上げるだけでなく、香港人の民主共同体の創出へ歩みだすとともに、自治権を防衛する断固たる態度を示している。だが、この警察本部に対する二度目の包囲以降、情勢は後退することにならないだろうか。
◆ 民主主義とは多様性であり、別個に進んでともに撃つこと
6月21日の警察本部包囲では、青年たちは手を出さず包囲しただけにとどまったが、暴力装置の威厳を大いに損なうことに成功した。6月12日[立法会包囲]と6月21日の青年たちによるラディカルな行動がなければ、反送中運動は限界を突破できなかっただろう。だが中年以上の多くの市民は、興奮する一面、冷や汗をかいて、非常に心配もした。警察本部の包囲のリスクは高い。政府本部の包囲に比べ警察本部の包囲は支配階級を一層刺激する。なぜなら、そこは武器庫同然だからだ。クーデターや革命はすべてまずそこから始まる。突撃を叫んだものもいたようだが、今日の青年は成熟していたことが幸いした。それまでにもウェブサイトでは「力だけでなく知恵も使おう」という呼びかけが立て続けに行われたこともあって、突撃の呼びかけに応えるものは誰もおらず、最終的には全員無事に撤収することができた。
反送中運動は、まさに運動ゆえに、異なる意見やグループが生まれる。共同体も同じである。民主共同体は多元的でなければならない。そうでなければ独裁と違いはない。
現在、人々は自発性を高く評価している。当然のことだろう。歴史上の多くの画期的事件は往々にして自発的に引き起こされたものだ。雨傘運動がはじまった[2014年]9月28日もかなりの程度、自発的な行動であり、それがその後の発展を規定した。しかし今回は、6月9日[103万人デモ]と6月16日[200万人デモ]の民間人権陣線による動員の呼びかけがなければ、前衛[の青年]は後衛[の市民]を欠いたものになっていただろう。今回の戦役は、自発的な要素もあれば組織的な要素もあった。それが成功したのは、この二つの要素が客観的に互いに協力しあったことに、つまり典型的な「別個に進んで共に撃て」が実現したことにある。つまり自発性だけを持ち上げて、組織性を完全に否定することは、事実にそぐわないのである。
◆ 自発性と組織性の矛盾と統一
民主主義の長所は多元的な考えを受け入れることにある。雨傘運動の際には、熱普城[熱血公民・普羅政治学苑・香港復興会(城邦派)の本土派三団体の選挙組織]が「メインステージ(指導部)を取り除け」という主張を掲げて、行動と恫喝を通じて他のグループの声を封じようとしたが、それに比べると、今回は明らかに進歩的である。意見が違うのであれば、議論の場で、それぞれが自分の主張をすればいいし、互いに議論すればいいのである。民主主義の価値は投票するだけにとどまらない。投票の前の議論こそ、啓発的で教育的効果を持つのであり、これこそ「市民精神」の清泉である。いたるところで異論を叩き潰す当時の熱普城のやり方などもっての他である。それはまさに清泉を塞いでしまうことである。願うべくは、今日の熱普城らが少しは進歩し、多元的な民主主義の長所を学んでいてほしいものである。
実のところ、今回の運動は喜ぶべき矛盾に満ちている。一方で「邪魔をせず、批判もせず」を勧める意見もあれば、かたや警察本部への突入を現場やインターネット上で諫める意見もあることだ。最近はやっているスローガンに「登山で頂上を目指すため、各自で努力せよ」がある。それは一種の「号令を待つことなく、自主的に動こう」という前衛精神の発揚を鼓舞するものである。しかし翻って、それは組織性が必要ではないことを説明するものなのだろうか。登山、集会、デモ、初歩的な抵抗運動などの場合はそれでもいいだろう。だが政府本庁舎や警察本部の包囲はどうだろうか。「突撃せよ!だがそれぞれお好きなように」―――そしてもし号令した者が突撃にせず、それに応じたものだけが突撃して逮捕されたら、どうだろうか。あるいは四、五列目の後方から投げられたレンガが重すぎて目標に届かず、最前列の仲間を直撃してしまったらどうだろうか[このような実例は多々ある:訳注]。犠牲になったほうがバカをみるだけでいいのだろうか。抵抗運動は激しければ激しいほど、組織性がより必要とされる。なぜなら組織性だけが権利と義務の対等な関係を明確にするからである。
IT(情報通信)革命の進展により、旧来の硬直的な組織方法は確かに時代遅れになっている。しかし組織性それ自体が時代遅れになったということではない。IT革命はたんに組織方法をさらにアクティブでフラットにしただけであり、組織そのものを不要にするものではない。今回のように最新の通信アプリを大量に使用して行動を調整したり、ウェブ投票で決めたりする方法は、それ自体が一定程度の組織性であることの証である。そして組織性にはまず民主主義の生活習慣が必要となる。そう、形式上の手続きだけではなく、生活習慣上の民主主義である。
◆ 「少数が多数に従う」ことが民主主義?
6月21日の夜、現場やウェブ上では、その場にとどまるのか解散するのかについての議論があり、投票で民意を図ろうという意見も出た。その際、反対する意見として「留まりたいものは留まればいいし、去りたいものは去ればいい」「なぜ投票させようとするのか」という主張も出た。それに対して「民主主義には強制力がある」という意見があり、強制はよくないということで決を採ることは見送られた。
現場で決を採ることが適切だったかどうかが問題なのではない。今回のような具体的な課題については、具体的な力関係の分析で現場の条件を判断して決めることが重要である。問題なのは、そこで出された意見が、はっきり言えば融通の利かない原理的なものであり、民主主義に対する明らかな理解不足を反映していたということである。
採決は必ずしも「少数が多数に従う」ことではない。時には、採決は参考として行われることもあり、それには拘束力はなく、民意を明らかにして、方針を決めやすくするためだけに行われることもある。今回の件で言えば、誰が留まり誰が撤退しようと考えているのかをはっきりさせるために行うことも可能であり、それに拘束力などあろうはずがない。次に、仮に拘束力のある採決であったとしても、民主主義は拘束力という一面だけではなく、採決の前に、平等に議論して、互いに論争しつつも、小異を残して大同につくという一面もある。この一面は重要である。この議論の段階において、甲は決を採ることを提案できるし、乙はその提案に反対することもできる。各自が主張を行い、誰も強制することはできない。誰かが採決を採ろうと言っただけで、なぜ「投票させる」ことになってしまうのか。甲が乙に「えー、投票させようとしてる」といったのであれば、乙もまた「えー、投票させないようにしてる」と言い返すこともできただろう。
香港人の政治習慣を長年にわたり観察し、近年は草の根民主主義教育に携わってきたてきたものとして言えば、黄色いリボン派[民主派]の市民は、普通選挙/民主主義に傾倒しているが、いまだ十分に民主主義の生活習慣を育成できていないと感じている。とくに意見の相違を処理について、そう言える。いまだ十分な民主的自治能力に欠けるとすれば、普通選挙が実現したとしても、果たしてそれをうまく活用することができるだろうか。
◆ 思想を深化させ、ソフトパワーを育もう
私は、もちろんすべての人を納得させることができるなどという、下らない考えを抱いているわけではない。天下の政治は、分裂して久しい。にもかかわらず、「思想の統一」などと考える者がいれば、それは秦の始皇帝と同じ[独裁者]だ。もし「メインステージ[指導者]はいらない」という主張が「独裁はいらない、思想の統一はいらない」という意味で使われているのなら、民主派はもろ手を挙げて賛成する。だがこの「メインステージ」という用語で表現したいものは何なのか。「独裁はいらない」なのか、「代理人はいらない」なのか、「いかなる指導者もいらない」なのか、「いかなる組織もいらない」なのか、「採決の提案をさせないこと」なのか、「いかなる人もトラメガで主張することがダメ」なのか、ほとんど誰もはっきりしたことがわからない。それぞれがそれぞれの解釈で用いているのである。それぞれの解釈で主張することができている理由は、比喩的に使われているからである。しかし厳格な政治的課題において、「メインステージ」や「Be water」といった比喩だけで表現し、客観的で精確な概念を用いないのであれば、そのような社会運動は人々をどの方向に導こうとするのだろうか。
国家システムに対抗する運動では、世界的にも民間人権陣線方式の「メインステージ」が常識であったが、いわゆるブラック・ブロックのような存在もいた。2007年のドイツG8では、現地のほとんどの社会運動団体、労働組合、左翼組織などがG8に参加する政治家への大規模なデモに参加した。そのデモにはブラック・ブロックも参加していたが、デモの後ろをついて歩いていた。そしてG8会場近くになってはじめてブラック・ブロックは躍り出て警察と衝突した。当時これはよくあることとして認識されていた。私もそのデモに参加し、運動の多様性を実際に認識した。
香港ではこのところ多くの黒装束の若者を見かけるが、前述のブラック・ブロックとは大いに異なっている。話を戻すと、どこにでもブラック・ブロックのような人々はいるが、それと同じくどこにでもそれを上回る数の様々な民主派がいる。それらの人々は必ずしも「平和的・理性的・非暴力」であるとは限らないし、革命を主張する人も中にはいるが、それらの人々はブラック・ブロックのように組織性を否定したり、即時決戦方式には賛同していない。
つまりのところ、この世界には、白か黒かの二色だけでなく、七色だけにとどまらない多彩な傾向がある。「和して同せず」の虹色の思想こそ、独裁に勝利するソフトパワーである。
2019年6月26日
著者注:この文章は別の媒体に書いたものに、最新の状況を加えて改訂したものである。
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