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香港2019 ミレニアル世代の登場~東アジア規模での巨大な民主化運動(區龍宇)

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以下は、マレーシア社会党のfacebookに掲載された香港の區龍宇氏のインタビュー。訳注は[ ]で補った。
原文はこちら。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2453384691397430&id=439607402775179

◆インタビュー:香港の抵抗運動の行方

この数か月、香港では巨大な大衆的な抵抗が続いており、世界中から注目されている。機関紙『社会主義』は、香港のアクティヴィストへの取材を通じて、主流メディアとは違ったスタンスで香港の政治的危機と大衆的抗議を報じる。前回は、抵抗闘争に参加する香港のアクティヴィスト、刀を取材した。今回は香港左翼の活動家、區龍宇にインタビューを行った。區は著書に『強国危機:中国官僚資本主義的興衰』があり、英語、フランス語、日本語に訳されている。[日本語版は『台頭する中国 その強靭性と脆弱性』柘植書房新社]

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Q この運動は香港の政治的対立の力関係に影響をあたえましたか?


今回の運動の主な構成は、一つはミレニアル世代[2000年のミレニアム前後に生まれた世代]およびその最もラディカルな一翼であり、もう一つは、民間人権陣線(以下、民陣)を代表とする既成の民主派政党(周辺の右翼本土派と自決派を含む)と社会団体です。疑いもなく前者が運動の牽引者です。かれらの非妥協性こそが、運動を高潮に引き上げ、林鄭月娥・行政長官(林鄭)が容疑者送還条例改正案の慎重審議から法案撤回に追い込んだのです。ですが、後者の役割も無視することはできません。というのも3月から政府の法案提起に反対する運動を始めていたからです。そのころにはまだ「勇武派」は登場していません。その後、民陣は6月9日に103万人、6月16日には200万人のデモを行い、客観的にも重要なサポートの役割を果たしたといえます。またこの両者は「袂を分かたない」ことで、反対運動を真の意味での全人民的なものにしたのです。この点は雨傘運動ではみられなかったことです。二つの巨大な合流こそ、林鄭の条例案を揺さぶり、政府の妥協的対応にもかかわらず、運動が引き続き発展する十分なサポートの役割を果たしており、それは依然として続いています。

ですが、今後の動向について考えた場合、ミレニアル世代こそが決定的な役割を果たすことは疑いありません。香港の最初の150年はイギリスの植民地でした。その後の20年は、中国共産党政府の植民地といえるでしょう。中国政府と香港の関係は、一種の内部植民地主義であり、それはイギリスから引き継いだ中心と周辺という関係であり、政治的コントロールを通じて宗主国/北京の経済目標に奉仕するものであり、イギリスも中国もどちらも香港という経済都市(これが植民地主義者らが香港に押し付けた義務です)が政治都市に変化することは絶対に許しませんでした。ゆえに絶対に住民による真の自治を認めません。既成の民主派は中国政府が約束を果たすことを待つだけでしたが、そこにミレニアル世代が登場したのです。もう[返還協定を締結した80年代中ごろから]40年も待ったのだ、と。ミレニアル世代はこう言いました。「あんたはそもそも詐欺師だ。われわれはもう待たない!」 

中国政府は、条例案反対の青年たちが香港独立を目指していると非難するだけで、返還を無事に終えたらあとは知らんふり、香港の自治権という約束を破り、直接コントロールを加速させたことで、青年世代の決定的な抵抗を招いたということを理解していません。そもそも「外の脅威に対して共同で戦う」といった状況は帰属意識を育み、そのアイデンティティは民族感情の促進剤となり、それは普遍的なものであり、香港も例外ではありません。ゆえに今後は、黄色いリボン派(民主化を求める市民層)に向き合う政治的人物すべてが、「香港人」というアイデンティティから無縁であることはできないでしょう。このアイデンティティは、誰かに指図されることにこれ以上耐えられず、香港人自身が物事を決めることを求めます。「香港の歌」(香港に栄光あれ:編注)がまさにそのような感情を代表していると考えられます。

しかし、この「香港人アイデンティティは香港民族主義である」という主張には若干違和感があります。もちろんそう主張する人も厳格な定義でそう言っているわけではなく、話の流れで主張しているにすぎません。ですが私は厳格な定義によって議論することで、分析的価値が出ると思っています。現在の黄色いリボン派の民衆には一種の香港帰属感、あるいは香港民族感情があるといえますが、それは「民族主義」とはイコールとは言えません。「民族アイデンティティ」をすべての価値観の上に置いてしまうことこそ、民族主義です。しかし現在の黄色いリボン派[民主派]の民衆、あるいはミレニアル世代といってもいいでしょうが、かれらは断固として香港が独立しなければならないというわけではないのに、どうしてそれが民族主義者だといえるのでしょうか。彼らにとって香港独立は願望ではありますが、それが「夢」であることもいくらかは分かっているのです。ですから現在でも運動の趣旨はいぜんとして五つの要求の実現に限定されているのです。もしデモのなかで香港独立の旗を掲げたりスローガンを叫んだとしても、周囲に制止されてしまいます。大人たちは香港独立という主張は機動性がない(北京がアメリカに敗北しない限り実現しない)ことを理解しています。ラディカルな青年たちもこの100万単位の民主派の市民らと結合するために、妥協することにやぶさかではなく、「高度な自治」あるいは、せいぜい自決権――広い意味での命運の自決権――を要求しているのであって、独立を要求してはいませんし、すべてを置いても独立を追求する[民族主義]などということはありません。

これはどう言おうとも、香港人の思想と主体性の飛躍にほかなりません。このような自主的な精神の発揚は今後の大衆的な民主化運動を定義づけることになるでしょう。ですから、今回の運動は「容疑者送還条例反対運動」と言われていますが、実際には条例案反対という目標を大きく超えています。今後の影響を考えると、今回の運動は、それまでの民主化運動とは異なり、「ミレニアル世代による自己決定権を求める運動」と言えます。

Q この運動は香港の普通の市民と社会にどのような影響を与えましたか?


「ミレニアル世代による自己決定権を求める運動」の貢献の一つは、親中派を含む普通の市民を大規模に政治化させたことです。植民地主義者はこれまでもずっと、植民地の住民に政治的関心を持たせないようにしてきました。このような「政治を語らせない政治」は、その言下に「庶民は食うことだけ考えておけばいい、政治は支配者にまかせておけ」という考えがあります。これは確かに香港華人の中下層の奴隷的心理に合致するところがありました。社会的秩序を維持して、食うことへの心配を除去するというものです。またこれは現在の親中派住民の思想的基盤とも言えます。これまでは大部分の市民もそう考えていたのです。これは2000年の長きにわたる絶対君主制に加えて、170年の植民地の歴史がもたらした結果の一つです。香港の民主化運動の歴史はまだ短く、おもには1989年の中国の民主化運動によって生まれたと言っていいでしょう。しかし91年の選挙で香港民主同盟(のちの民主党)が最多議席を獲得するのですが、民主同盟は植民地政府の内閣に参加させるよう要求します。これは市民から批判を受けました。というのも有権者の多くは、政府の一員になるために民主同盟に投票したのではなく、政府を監視するために民主同盟に投票したからです。ここからもわかるように、そのときの市民の多くは臣民的心理を保持していたのです。ですから、97年の香港返還でも平穏に中国政府の支配を受け入れたのです。しかし2003年に政府が香港基本法23条(国家安全保障)を立法化しようとしたことで、自治権を守りたいと考える香港人の思いが強まり、50万人のデモになりました。中国政府[の意向を受けた行政長官]は法案を撤回しましたが、その後も様々な手段で自治権を縮小しようとしました。例えばいわゆる「国民教育」の推進や標準語による授業の実施などです。

しかし若い世代は比較的敏感ということもあって抵抗が続き、それは2014年の雨傘運動まで発展しました。今から考えれば雨傘運動は2019年の「ミレニアル世代の自決権運動」の予行演習だったといえるでしょう。6月16日の200万人デモは、今回の運動が全人民的な性格を持っていることを示しました。これは台湾の民主化に続く、中国華人地域における第二のきわめて強力な民主化運動と言えます。民主化を支持する大衆は、最初は少数の急進的青年らが実力で警察に対抗する行動の消極的同情者でしたが、いまでは積極的な同情と支持を与えるまでに発展しています。これは大衆が過去数十年の教訓と経験を受け入れた一つの大きな変化です。この大きな変化によって、われわれの市民社会はアップグレードしたといえます。それまでの香港の市民社会はまったく脆弱でした。香港には政党や労働組合、ボランティア団体などたくさんあります。しかしその大部分が専従スタッフのみによって支えられているだけで、一般のメンバーの積極性は非常に限定されたもので、往々にして名簿上の参加にすぎません。雨傘運動につづいて今回の容疑者送還条例反対の運動によって、大衆的な自発的な行動と熱烈なボランティア精神による活動が誕生したのです。これこそ偉大な大衆性をもった民主化運動です。

Q この運動の参加者の階級構成はどのようなものですか?これまでの民主化運動との違いは?

今回の運動はアッパークラスのブルジョアおよび財閥を除く全人民的な運動だといえます。プチブル、中産階級、労働者階級および青年学生です。しかし牽引しているのは、まずは青年と学生でしょう。青年と学生というのは、勇武派あるいはその積極的支持者のことで、若いですが学生とは限らず、働いている人間も含みます。青年と学生は無政府的な運動モデル――リーダーがおらず、組織もなく、自発性を強調し、高度に機動的なモデルを好みますが、これは香港特有ではなく普遍的なものです。しかしこういったモデルは労働者階級には馴染みません。勇武派は労働者階級の手助けがなければこの運動に勝利することは難しいことを間もなく知ります。ですから今回の運動が雨傘運動のときよりも労働者のストライキや商業ストにこだわるのはそのせいです。

1967年に香港の共産党が政治ストを打って以降、その次に政治ストの呼びかけがあったのは1989年の六四天安門事件後に「香港市民支援愛国民主化運動連合会」が6月7日に呼びかけた労働者スト、学生スト、商業ストの三セクターのストライキでした。しかしその呼びかけは中国共産党の工作者による破壊活動があるという噂によって中止に追い込まれたデモとともに消え去ってしまいました。これもまた労働運動がずっと中産階級の民主派政党の尻尾になるだけで、自ら自立した政治的立場を持つことができなかったことに予め規定されました。これはまた、雨傘運動でも提起された労働組合のストライキが失敗することになった理由でもあります。

今回の運動でも、6月12日に労働組合が呼びかけたストライキと集会にほとんど反応がなく、成功しませんでした。その二カ月後に運動は徐々にピークに達したことで、香港では1967年以来はじめて政治ストが打たれることになったのです。それは、青年と学生、労働組合、未組織の労働者の三者の事実上の同盟でした。およそ数十万人が主体的あるいは受動的にストライキを支持し(交通網が半ば麻痺したからです)、仕事を放棄しました。航空業界ではキャセイ航空の労働者の約半数がストライキに参加したことでフライト便の大半がストップしました。まさにこの時の政治ストによって、運動は一つのピークを迎えました。しかしキャセイ資本はすぐに反撃し、9月2日、3日のストライキは成功しませんでした。とはいえ、8月5日のストライキの成功はこの世代の青年と労働者らを鍛えることになりました。はじめて労働者の集団的な力を経験することになったからです。

ですが、労働運動の政治化にはいまだ大きな困難があります。多くの海外の友人がこう聞いてくるのです。五つの要求のなかには公正な分配についての要求がない、香港では貧困の問題は解決されたのか、と。もちろん解決されていませんし、むしろ悪化しています。しかし香港の労働運動は議員もいるし政党もありますが、これまでずっと政治的課題において主体性を持った活動はできていませんでした。ですから政治的な民主化運動においても労働者の立場に立った綱領を持ち得てきませんでした。もちろんこれは偶然ではありませんが、労働団体の過ちだけが理由ではありません。香港の労働者階級そのものが自由市場主義の影響を強く受けており、「貧富の格差は自己責任」というイデオロギーに洗脳されているのです。ですから階級意識というものは確かに高くはありません。最近の調査でも、現在の政治的課題には関心が高いですが、社会福祉の不備などに関する課題にはあまり関心をもっていないことがわかります。また一部の左派青年たちが連登[この運動で使われているウェブ上の掲示板サービス]で六つ目の要求についての議論を提起し、大資本が人々の生活を脅かしていることに注意を向けようとしましたが、反応や議論は全く起こりませんでした。労働運動の政治化はいまだ長い道を歩まなければならないようです。とはいえ、千里の道も一歩からとも言います。今回の運動ではいくつかの契機もありました。

Q 今回の運動を67年反英暴動と比較することはできますか?

武装の激しさの程度でいえば、67年にははるかに及びません。当時、香港共産党は香港各地に爆弾を仕掛けました。現在の闘争ではせいぜいのことろデモ隊が警察に火炎瓶を投げつけるくらいです。67年の時は誤爆で不慮の犠牲者が多く出ましたが、今回はほとんどありません。殺傷能力についても比べようもありません。しかし最も重要なことは政治的な違いでしょう。67年の闘争は北京の政治闘争の延長であり、香港土着の内部的階級矛盾の激化によっておこったものではありませんでした。67年の契機は、プラスチック造花工場のストライキでしが。しかし闘争全体は「反英闘争」と呼ばれました。なぜ小さな工場のストライキが植民地政府を対象とした武装闘争に発展し得たのでしょうか。いま香港の親中派が67年を語る時には、当時の植民地政府がひどかったので運動がヒートアップしたと説明します。

ですが、これは事実ではありません。1989年の六四天安門事件後、金堯如など当時の香港共産党陣営のトップが、当時の実情を詳細に伝えています[金は天安門事件後、アメリカに亡命し04年に死去している:訳注]。つまり文革のピークの際に、新華社のトップクラスは、四人組の歓心を買おうとして、香港で小さなストライキを利用して政治暴動をおこしたのです。それは国内の文革を香港に持ち込んだものでした。当時の香港の庶民はたしかに英植民地政府には何の好感も抱いていませんでしたが、階級矛盾が激化する兆候もありませんでした。ですから当時はそもそも広範な労働者階級の政治的抵抗の出現を許すような状況にはなかったのです。香港の共産党組織は、人為的に大衆的な政治闘争をつくり出した結果、みずからの大衆的基盤をも破壊することになりましたし、ふつうの市民が共産党を避けることにもなりました。

今回の運動は、香港の階級矛盾、つまり中国共産党の香港の代理人グループと大部分の香港市民の支配と被支配の矛盾が激化した結果です。

Q 今回の運動では右翼的な表象をよく目にします。たとえばデモ参加者が植民地時代の香港旗や英国旗やアメリカの国旗を振っています。なかにはアメリカの干渉を訴えるスローガンを持っている人もいる。あなたはこれらについてどうお考えですか。デモ参加者の中に極右イデオロギーがあるのでしょうか?もしそうなら、それはどのくらいの影響力をもっているのでしょうか?さらには、今回の抗議運動の黒幕はアメリカ帝国主義だという人もいます。それについて、あなたはどうお考えですか?

この問題は実際には非常に複雑です。いくつかの段階に分けて説明しましょう。

現在の運動においてアメリカ国旗を掲げている人間は、増えはしましたが、100万人を動員する運動においてはごく少数にすぎません。問題は次の段階に移ります。なぜ周囲の人間はそれに干渉しないのでしょうか。それはあまり問題だとは思っていないからです。敵の敵は味方という考えだからでしょう。これ[運動にかかわる]多くの人が持つ現実的な考えでしょう。しかしこれは[アメリカ国旗への]積極的支持とは異なります。

次に、一般の香港人は国旗や国章に対しては、現在の中国のそれに対する感情を除いては、それほど敏感ではありません。香港人のこれまでの歴史は、他の地域の旧植民地のそれとは様相を異にします。戦後一貫して土着の反植民地運動がなかったのです。香港共産党は1967年に反植民地闘争を行いましたが、敗北後すぐに香港の「長期利用」政策に戻り、イギリスと協力して香港の「繁栄と安定」を保持します。1970年代には私たちの世代の左翼青年が登場し、香港共産党がイギリスの支配に協力していることに対して反発しました。当時の私たちのスローガンは「反資本主義、反植民地、反官僚」でした。しかし当時の新左翼の力は小さく、ほとんど影響力はありませんでした。当時の香港人は政治に冷淡でした。かれらは植民地の臣民という地位を仕方なく受け入れるだけで、それ以上の考えは持ちませんでした。一般の香港人が反植民地主義の経験に欠いていたことから、国民的アイデンティティを代表する国旗に対しても海外ほどは敏感ではありませんでした。また鈍感な理由は無知からも来ています。五星紅旗を除き、国民的な旗が代表する政治的含意を理解していないのです。

三つ目に、確かに一般の香港人は西側に親近感を持っていることは認めなければなりません。これは不思議なことではありません。これこそ西側のソフトパワーでしょう。1950年代以降、市民は欧州、アメリカ、日本の映画を好んで観ました。とりわけ文革以降はそうでした。どれだけの人が中国の映画を好んで観たでしょうか。香港共産党やその影響下にある愛国的映画会社は文革以前、確かに庶民が好む映画を作っていました。しかし文革によって、自らが持つ最後のソフトパワーをも破壊してしまったのです。70年代以降はいわゆる愛国映画は完全になくなりました。この現象の背景には、中国共産党のいう社会主義が徹底して失敗し、悪質な資本主義に変質してしまった必然的結果があります。中国の高レベルの官僚も同じように西側への肩入れが進んでいます。それは自分の子どもを欧米で学ばせたり、自らも西側でビジネスに走っていることでも明らかです。今日、中国国内の憤青[怒れる青年の意味で若い愛国的不満分子を指す]らは自らの国の最高指導者らの醜い歴史を知らないまま、彼らのいわゆる愛国主義を無批判的に擁護しているのです。新中国の70年を横目で冷ややかに眺めてきた香港人が、西側に親近感を持たないほうがおかしいでしょう。この点を認めないことは事実を受け入れないことになります。

最後に、いわゆる外国勢力という問題です。北京政府は「外国勢力に警戒せよ」を毎日繰り返し続けています。しかし北京政府自身があらゆる外国勢力に反対しているのかといえば、そうではありません。それは高度に選択性を持った方針なのです。北京政府も外国勢力の利点はよく分かっています。ですから朝鮮のような専制国家などを自らの勢力下に置いているのです。また香港警察にいる英国籍の警官が香港人のデモ参加者に対してひどい暴力をふるっていることにもお構いなしです。

なぜ香港に数百名もの英国籍の警官がいるのでしょうか?それは鄧小平と基本法問題にまでさかのぼる必要があります。一国二制度それ自体が鄧小平と外国勢力の妥協の産物です。中国が貧困から抜け出し、さらには資本主義の道を歩もうとしたとき、どうしても米英との妥協が必要でした。鄧小平は敵との協力の下で基本法という子どもを産み落としたのです。基本法が最初に保障したものは、まさに香港における英米の利益です。政府の公用語に英語を使い、コモンローを使い、外国人の裁判官を任用し、香港市民に英国政府発行のパスポートの所有を認め、基本法101条で外国人でも公務員やアドバイザーになれるという規定を設け、実際には返還後も入れ替えは行わないという約束をしたことで、英国籍の警官が「中国人に暴力をふるう」という状況が起こっているのです。北京政府が約束した一国二制度は、そもそも外国勢力がこの地で跋扈することを許し、英国とアメリカが、泛民[既成の民主派]政党やメディア、専門職の中産階級[弁護士など]らへの影響力を含む影響力を保持し続けることを認めるものだったのです。

これは北京政府が欧米に対して公式に約束した歴史的特権です。中国政府の宣伝だけでなく、実際の利益を見る必要があります。それは彼らが外国勢力に依存することではじめてグローバル資本主義に融合して大いに利益を得ることが可能になったのです。いま習近平は、中国が強大になったので、約束を反故にし、鄧小平路線を放棄してもいいだろうと考え、中国への送還条例を企んで香港の全面的な接収を前倒しで行おうとしたのです。しかし欧米に対する約束を反故にしても、報復はしないでほしいと考えるのは、愚かなことではないでしょうか?

左翼の立場から言えば、私たちはハナから中共の資本主義化路線は支持していません。労働者の歴史的利益とは資本主義を突破して、平等な社会を建設することです。そして平等の実現のためには、まず何よりも国家と資本の規律を強化するのではなく逓減していくものでなければなりません。とはいえ左翼は空論家ではなく、まず何よりも現実的な闘争者でなければなりません。米中の覇権争いに対して、われわれはもちろんそのどちらにも組するものではありません。

しかし香港という具体的な状況について言えば、中共のやり方は英植民地政府にも遠く及びません。私は植民地ノスタルジーとは無縁です。むしろ少年時代から一貫した反植民地主義に立ってきました。しかし少なくとも英国は彼らの国歌をわれわれに強制することはありませんでしたし、それを法律で強制する(国歌法)などということもありませんでした[香港政府は2019年1月に中国国歌を尊重することを定めた法律案を議会に上程したが、現在までに反送中運動の盛り上がりを受けて審議が止まっている]。中共によるこのような方針は他の多くの毒入り政策の一つにすぎません。これはまた議論を一つの根本的問題に立ち返らせます。われわれは自由な資本主義も擁護しないという立場です。

しかし中共の資本主義は確かに程度の上ではより酷いものです。私はそれを官僚資本主義と名付けています。それは社会における最も大きな権力である国家の強制力と資本の無限の蓄積という力をともに掌握するもので、「全体主義」という用語にさらに恐ろしい生命力を与えるものです。このような全体主義は自由主義にくらべても忌むべきものです。とりわけわれわれ香港の住民にとって、地政学的な国際政治を戦術的に利用することを含め、まず九割の力を中共への反対にそそぐことは当然です。もちろんそれは、アメリカ政府が民主主義を守る本当の旗手であるといった幻想に賛成することとイコールではありません。いま香港の親米勢力はアメリカ国会で「香港人権・民主法」の制定に力を注いでいます。香港の人権問題がアメリカの外交政策に拘束されてしまうというこの法案が持つ問題点については、少し前に「明報」に掲載した文章で指摘しています。[2019年9月12日掲載]

Q 今回の香港における政治的危機の地政学的な影響はどうでしょうか?

いちばん重要なのは中国国内の民衆への影響でしょう。すでに報道などでご存じだと思いますが、中国共産党は中国国内で恣意的に報道を規制したりデマを煽り、国内では多くの民衆が香港人への反感を強めています。しかし状況は両面的に考えなければなりません。あまりに煽りすぎると収拾不能に陥ってしまうということです。林鄭が法案の撤回を宣言した際、中国政府はあきらかに面目を失い、あまり表ざたにならないように対処したのです。しかし中にはこんな疑問を持つ人もいます。「なぜテロリストに譲歩するんだ」「必死に暴徒を鎮圧して秩序回復に努力してる香港警察にどう顔向けするんだ」等々。ですから、かつての[2012年の尖閣諸島国有化後の]反日運動の時のように水面下でデモ隊を組織化するようなことはせず、メディアを通じた心理戦に留めたのです。今日、政治上の虚勢これほどにまで達しているので、もし狭隘な民族主義を煽った場合、その対処に追われることになるからです。

それ以上に多くの人が、中国政府自体を支持していませんが、保身から沈黙を保っているのです。また一部の中国国内の民主活動家は巨大な圧力にもかかわらず、香港の運動への支持を表明しています。

今後、香港人にとって決定的な戦略的選択肢は、中国人民を盟友として中国と香港の民主化を勝ち取るのか、あるいは[これまでの泛民主派の立場である]香港と中国は互いに干渉しあわないという「戒律」を守り続けるのか、あるいはそれ以上に最悪の右派本土派の立場から中国人を「イナゴ」と呼ぶ[大量に香港に押し寄せる中国人はイナゴの群れと同じというヘイトスピーチ]反民主主義の立場を採るのかです。前者の道は大きく未来を拓くでしょうし、後者を選択すればそれは自ら破滅の道を歩むことになるでしょう。今回の運動を振り返ると、その特徴はいずれの政党も指導的な役割を果たせていないということです。運動の方向性は政治的経験と背景をほとんど持たない大衆の自発性によって導かれています。このような運動のなかには、この二つの傾向が隠然と存在しています。これまでの運動でも、中国からの観光客に対して今回の運動の目標を訴えるデモが行われました。一方で、ある地区では中国から香港にやってくる個人ブローカーに対して侮蔑的な言葉を投げかける活動もありました。このようななかで左翼の任務は、進歩的な傾向の運動を鼓舞し、悪質な傾向のそれを抑えようとすることです。運動の傍らからあら捜しや批判をするだけにとどまることは最も見込みのないことです。

Q 三か月にわたる大衆的プロテストと蜂起によって、キャリーラムは批判が多かった容疑者送還条例の改正案を正式に撤回しました。しかしそれは香港の政局を緩和することにはなっていません。なぜなら、行政長官と立法会の普通選挙の実施など、他の重要な要求がいまだ実現していないからです。あなたはこの運動全体がいまどのような状態にあり、今後どのように発展するとお考えですか?

反送中運動の誕生から現在まで、二つの構成部分があります。黄色いリボンの大衆[民主派支持]と急進的な青年たちです。そして後者が行動の前衛を担っており、前者は後者の後ろ盾の役割を果たしています。この両者は相互に引き潮ではなく上げ潮に向かっています。六月以降、たしかに同じ方向に向かっているのです。そして八月末以降から、この運動はもう一つのハードルを越えたようです。つまり急進的青年たちの実力を使った警察への抵抗に対して普通の市民も支持しはじめたということです。もしこれらの市民までもが武器を用いて抵抗を始めたら、それは「支配者が従来の形式で支配することができなくなり、人民もこの政府に支配されることに我慢できなくなる」という革命情勢が来たことを意味するかもしれません。しかし現段階ではいまだこのハードルを越えようとする決心は民衆にはみられません。なぜならこのハードルを越えることは、多大な代償を払う準備がなければできないからです。そして大衆にその準備があるかどうかはいまだ未知です。次に、8月5日の政治ストライキはまずまずの成功を収めましたが、つづく9月2日と3日のそれは成功しませんでした。

ここからわかるのは、労働運動が今後も引き続いて上げ潮へと向かうことは極めて容易ではないということです。このように、運動はボトルネックに陥っています。それはいまだ後退してはいませんが、それ以上の水準に向かうこともできません。そして今以上の水準を上回らければ、残り四つの要求を実現することも難しいでしょう。なぜなら北京はそう簡単に譲歩しないからです。このような情勢のなかで、もし勇武派が実力的抵抗のレベルを引き上げ続けたとしても、それは孤立する危険性があります。

Q あなたはこの運動の今後にどのような期待を持っていますか?

現在の運動からわかることは、運動の水準を引き上げることが難しいのは、固有の問題があるからです。仮に引き上げることができて、革命にまで発展したとしても、一都市のなかでのことであり、すぐに中共に粉砕されてしまうでしょう。中国国内において政治的な変動がない限りは、香港一都市での革命は成功することはできません。それが明白であるがゆえに、大人や労働者たちが一切を顧みずに香港政府打倒にまい進することは、おそらくあり得ないでしょう。ですから私たちは「最後の決戦」などという考えを放棄して、民主的闘争は長期戦になることをはっきりと認識し、今から長期的抵抗に転換し、力を保持しながら調整と組織化を強化しなければなりません。とりわけ運動の戦略的配置を明確にすること、つまり中国の民主化運動と連合するのか、それとも[中国]深センとのあいだに流れる川を境界とする民主化運動をするのか、ということです。
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