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さらばシベリア鉄道――大河ドラマ「いだてん」には描かれない歴史の一コマ

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先週の大河ドラマ「いだてん 東京オリムピック噺」の第9話は「さらばシベリア鉄道」。

初回視聴率がワースト3という逆銅メダルに輝いて以降も視聴率が下がり続ける「いだてん」。観ている人がそれほど多くないというのはいいことだが、自宅にテレビがなく、また東京オリムピック反対運動の関係者も実はほとんど見ていないという小さなショックもあり、しばらく見逃していた。

ところが今回のタイトルは「さらばシベリア鉄道」だという。これはどうしても観ておかなければならない。太田裕美さんの同名の歌曲が浮かんだからではない。

月刊『アフタヌーン』に昨年11月号から連載されている安彦良和の『乾と巽 ザバイカル戦記』が浮かんだからだ。

『乾と巽』ロはシア革命に干渉するために1918年夏にシベリア出兵した日本軍の乾軍曹とウラジオストクの「浦潮日報」の巽記者を主人公にした物語で、シベリア鉄道沿い展開された革命軍との戦争を中心に話が進んでいる。

最新号の回では、日本軍の全面支援を受けた旧帝政ロシアの軍人セミョーノフが革命派が押さえていたチタに向けて反攻を開始、シベリア内戦で名をはせた左翼エスエルからボリシェビキに転身した若き闘士、セルゲイ・ラゾに率いられた革命軍はいったんチタから撤退する。

チタに侵攻したセミョーノフが革命軍に協力的な住民らをその場で次々に公開処刑していくシーンが描かれている。シベリアや内陸は赤軍と白軍の熾烈な攻防によって多くの住民が巻き込まれることになるが、そもそも日本軍をはじめイギリス、フランスなどの干渉さえなければ、その後の苛烈な赤色テロも必要なかっただろう。そういう意味で日本のシベリア出兵はあらゆる意味で犯罪的であった。『乾と巽』でもそのことが端々に描かれていると思う。

さて、「いだてん」だが、主人公の金栗四三らは1912年の夏にスウェーデン・ストックホルムで開かれる第五回オリンピック(5月5日~7月27日)に出場するために、ウラジオストクからシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断する。ちょうど『乾と巽』で描かれた戦場を逆走する形だ。「いだてん」では広大でのどかなシベリアの景色が描かれていたが、その数年後には日本のシベリア出兵などをきっかけとして血で血を洗う壮絶な内戦が展開されるとは金栗四三らは想像だにできなかったであろう。

「いだてん」では四三らが途中駅のハルビンに一時下車するシーンがあり(『乾と巽』の第一話にもハルビン駅は登場→こちらから観られます)、帝政ロシアの兵士らが闊歩する不穏な市内が映し出される。その3年前の1909年10月26日にはハルビン駅で伊藤博文が暗殺されるシーンも放映される(安重根の名前は出ず)。

ハルビンが不穏な状況だったのは、「いだてん」でいっていたような日本とロシアの中国東北部への軍事的張り出しだけでなく、前年1911年に辛亥革命で清王朝が倒れたこと、そしてハルビンを事実上勢力下に置いていた帝政ロシアが、1912年4月にシベリアのレナ鉱山の労働者らのストライキに対して軍の発砲でこたえたレナ虐殺事件の影響もあったのだろう。

シベリア鉄道沿いのあるバイカル湖(番組でも)の北方にあるレナ金鉱山の労働組合が8時間労働、30%賃上げ、罰金撤廃などを要求するも経営側は全て拒否、組合員6000人が3月からストライキに突入。ロシア政府はスト指導者を逮捕し、4月4日に鉱山の労働者らが釈放を求めて行ったデモに対して軍隊が発砲し100人が死亡、数百人が負傷する事件になった。この事件はロシア全土で報じられ、帝国議会でも事件調査委員会が設置された(委員長はあのケレンスキー)。

「レナの射殺事件は、大衆の革命的な気分を大衆の革命的高揚に転嫁するきっかけになった」とレーニンが1912年6月初めに「革命的高揚」という文章に書いたように、この事件は、1905年革命の敗北後の反動期におけるロシア・プロレタリアートの運動の解体的状況を大きく転換させるきっかけとなった。

「(1905年の)革命にさきだつ10年間、すなわち1895~1904年には、ストライキ参加者の年平均数は4万3000人(端数切捨て)であった。1905年には275万人、1906年には100万人、1907年には75万人となっている。……ストライキ闘争の衰退は、1908年には決定的なものとなり、ストライキ参加者の数は17万5000人に減った。……1909年には6万人に、1910年には5万人に下がった。しかし、1910年のおわりからいちじるしい転換がはじまった。……1911年には、労働者大衆が徐々に後世に転ずる傾向がみられ、ストライキ参加者の数は10万人にのぼった。・・・・・・レナの射殺事件は、大衆の革命的な気分を大衆の革命的高揚に転嫁するきっかけになった・・・」―――レーニン「革命的高揚」、1912年6月17日「社会民主」紙に掲載

金栗四三ら「いだてん」が横断したシベリアの大地から首都「セント・ピーターバーグ」にいたる広大な範囲において支配的階級を動揺させる状況にあったことから、遠くハルビンの地でもそれが反映されていたのではないだろうか。

レーニンはこの論文のなかで、立憲君主派の政治新聞のコメントを紹介している。

「五月がやってきた。天候のいかんにかかわらず、この月は、ふつう首都の住民にとってあまり愉快な月ではない。なぜなら、この月はプロレタリアの『祝日』ではじまるからである。今年はレナのデモンストレーションの印象が労働者の心にまだ生々しいので、メーデーは特に危険であった。首都の空気は、ストライキやデモンストレーションについてのあらゆるうわさで満ち満ちていて、きなくさい臭いがした。忠実なわが警察も、目に見えて興奮していた。警察は捜査をやり、何名かの者を逮捕し、街頭デモンストレーションをふせぐために大部隊を待機させていた。警察が、労働者新聞の編集部を襲い、編集者たちを逮捕する以上に妙案を思いつかなかった……」

このように支配階級を不安にさせる状況に覆われた首都「ピーターバーグ」を、ドラマでは本の一瞬で通り過ぎてしまったのは、さもありなん。

しかしこのように支配階級を不安にさせたのは、なにもハルビンやシベリア、首都ピーターバーグ沿いに走るシベリア鉄道だけの状況ではなかった。金栗四三がトレーニングに明け暮れていた帝都東京でも、1910年の大逆事件以降は消沈的状況であったが、1912年には東京を走る市電の一大ストライキで明けたのだ。

石川啄木は1912年(明治45年)の始まりをこう記している。

「明治45年がストライキの中にきたということは、私の興味を引かないわけにはいかなかった。なんだかそれが、保守主義者の好かないことのだんだん日本に起こってくる前兆のようで、私の頭は久しぶりにひとしきり忙しかった」。

1911年8月に東京市に買収されて解散した東京鉄道会社は、その際に運転手・車掌らを整理解雇したが、解雇手当があまりにすくなかったため、6000の市電労働者が増額を要求して大みそかからストライキに突入し、ストは1912年1月4日まで続き、手当増額をかちとった。つまり明治最後の年は、大ストライキの勝利で明けたのである。

このストにむけて演説会を開いてきた社会主義者、片山潜はこう語っている。

「我々はこの演説会で社会的ならびに政治的な事実と事件とを、社会主義の観点から説明した。我々にはいつも相当な聴衆が集まり、その大部分は労働者であった。この種の宣伝は、市電のストライキの起きた1911年の終わりまでつづけられた。われわれは10、11、12月の三か月間に、東京市内で多数の集会を開き、非常に広範囲にわたる労働問題を、東京市鉄道会社の従業員と結びつけて論じた。このストライキは我々の運動の最高潮であった。」

「それは6000名の運転手ならびに車掌を動員した。人口200万の同市は一年間を通じて、市民にとって、仕事の整理や社交で一番忙しい年末年始に、ただ一台の電車も走っていなかった。全市が釘づけにされたので、おそらく労働者を除くすべての人が、非常に不便を感じ、また非常に迷惑した。ストライキをやった人たちは的確に断乎とした行動をとり、同時に、雇主と交渉するために、自分たちの組合をつくった。彼らは、要求を獲得し、また老獪な電鉄会社の懐から、ボーナスとして27万円を獲得した。これは労働者階級の最も偉大な勝利であった。」―――片山潜、1918年「日本における労働運動――社会主義のために」

もちろん当局はストライキの指導的労働者ら60名を逮捕し、片山ら社会主義者らも逮捕され、片山はこのストライキを扇動したかど9カ月の禁固刑に服した。

その後の帝国主義の歴史はレーニンや片山らの予想をさらに推し進めて世界大戦の勃発を引き起こし、一時的な好景気もあいまって、レーニンや片山らが所属した第二インターナショナルをはじめ世界の革命運動は祖国愛国主義の波に飲み込まれていく。それに抗ったレーニンや片山らごく少数の社会主義者らは「自分の世代では革命をみることはないだろう」(レーニン)と非常に意気消沈した気分に囚われていたという。

第一次大戦の空前の殺戮と祖国愛国主義という暗闇を切り裂き夜明けを告げる雷鳴のような声が1917年3月8日に首都ピーターバーグに鳴り響いた。世界女性の日にあわせて「パンをよこせ!」「平和を!」と声を上げた女性繊維労働者たちのストライキは瞬く間にピーターバーグ全市に拡大し、ロマノフ王朝を打倒する2月革命(3月8日はロシア暦の2月24日)につながっていく。

「いだてん」には描かれない真実の歴史の一コマである。

世界女性の日、万歳 \(^o^)/

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