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毛沢東記号論:區龍宇

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▲安源の李立三

中国深圳の佳士(JASIC)争議では、毛沢東主義を掲げる学生たちが労働者を支援しました。前篇(こちら)ではそれ自体は批判されるべきことではないと述べていた區龍宇さんですが、その後に同じ地元紙「明報」に掲載された論考では、労働運動の視点から毛沢東主義を取り上げています。原文は「明報」2018年9月10日号に掲載されていますが、有料記事なのでリンクは貼っていません。(稲)

毛沢東記号論
區龍宇


深セン佳士(JASIC)公司の労働者の労組結成は実ることなく解雇され、支援のために広東に集まった50余りの大学生たちも、全員捕まるという結果になった。本土派[香港独立派]は、この事件を「隣国の事柄」と考えて無視するかもしれない。だが、災厄の炎はすでに香港にまで及んでいる。新華社の報道で香港の団体が名指しで批判されているだけでなく、労働者や学生を支援してきた香港の教員が「紅旗を掲げて紅旗に反し、内地の労働者と青年学生を釈迦主義政権転覆という鋒先に押しやった」と厳しく批判されているからだ。[訳注:JASIC争議を応援してきた香港の著名な労働社会学者の潘毅に対して*と名乗る学者の批判が掲載された]

「紅旗を掲げて紅旗に反する」という主張は、文革時代に紅衛兵が劉少奇の「修正主義」の犯罪に対して用いたものだ。このように他人を批判する者は、自分こそが本当の紅旗を高らかと掲げている真の毛沢東シンパであり、自分以外は偽物だと考える。中国では、このような論争は早くから毛沢東右派と毛沢東左派の間で行われてきた。

◎毛主席も独立労組をつくった

両派はともに毛沢東を崇拝している。違いは、毛沢東右派は労働者を犠牲にした鄧小平の資本主義化を支持しており、毛沢東左派は伝統的な毛沢東思想でそれに反対している。毛沢東右派は政府の資本主義化路線の盾となり、その盾の表面には毛沢東が描かれている。毛沢東左派の立場はというと、完全に一致しているわけではないが、紅色中国網(ウェブサイト)は、毛沢東主義のなかでも労働者・民衆を支持する立場を鮮明にし、国有企業労働者の反民営化闘争を支持してきた。2012年以降、彼らが支持してきた薄熙来が失脚したことで、さらに急進化した。今回、彼らのウェブマスターがJASIC争議を支援したことで捕まった。

今回、毛沢東左派の学生が労働者を支援したことに対して、リベラル派からも賛同があつまった。それは政府自らが実践においても理論においても危険ラインに抵触したからに他ならない。現在の主席は「初心忘れるべからず」を強調してはいなかっただろうか?もし今回の事件を契機にして中国共産党の初心を研究しようとする者がいたら、それこそ政府にとっては迷惑な話になるだろう。中国共産党の初心とは、労働者の左翼運動ではなかったか?毛主席も関わった安源炭鉱ストライキではなかったか?中国共産党結成まもない1921年、毛沢東や李立三が安源にやってきて、党組織と資本から独立した労働組合を発展させた。翌年9月、会社による度重なる賃金未払いに対して、李立三と新たにやってきた劉少奇がいっしょになって一万人余りもの鉱山労働者のストライキ闘争を指導した。そして当局は最終的に屈服し、ストライキは勝利した。3年後、資本は反撃にでて労働組合は壊滅した。だが多くの労働者カードルがその後の北伐[第一次国共合作における対軍閥遠征]に参加し、国民党が共産党を粛清した後は、紅軍のカードルとなったことから、安源は中国共産党にとって特別の意味をもっている。安源ストの際、李立三は人々を奮い立たせるスローガンを提起した。「かつては牛や馬のようだった、いまこそ人間になろう」。このようなスローガンは、150年のあいだ世界各地のストライキでの場面でよく聞かれたものであろう。「人間としての尊厳を強調したことで……最終的に安源労働者の非暴力で秩序のあるストライキを発動させたのである。」(原注1)

毛沢東は当時湖南で発行されていた「労工週刊」にこう書いた。

「なぜ労働組合を支援するのか?労働は神聖であり、いっさいの物はすべて労働によってつくられるからであり、労働組合は労働者の団結体であり、だれもが支援しなければならない。…労働組合の目的は、労働者を団結させて、ストライキという手段で有益な賃金と時短を勝ち取るだけでなく、階級の自覚を養い、階級全体を団結させ、階級全体の根本利益を謀ることにある。」そのために「組織的には西洋の労働組合のように、代表者会議によって設立し、全権の組織委員会が職務を執行する」(原注2)。

どうだろうか。今日において共産党の「初心」を尊重しようとしているのは、当局ではなくJASIC争議の労働者や学生のほうであろう。今日の党国家は、「主人公」と称される労働者を国有企業から追い出して、超搾取工場を農民工で一杯にし、西側思想の学習を禁忌としている。これのどこに「初心」があるというのだろうか。

◎安源ストライキおよびその歴史的遺産

だが今日の毛沢東左派にも弁慶の泣き所がある。毛沢東左派が最も受け継いだのは文化大革命の時代の毛沢東主義である。彼らは紅衛兵世代の人びとから、いっけん激烈な革命的セリフを学び、JASIC支援のさいにも毛沢東語録から多くを引用していた。たとえば「一切の反動派はすべて張り子の虎にすぎない」といった類の豪語である。だが、戦術はどうだったのか?もし1000人の労働者のうち89人しか団結させることができず、行動ではさらに20人にまで減少した状況において、力量的にいって、最初の闘争(組合結成)が失敗した後でも、同じように攻勢に打って出ることが得策だったのか?若き毛沢東も同じような行動を取っただろうか?安源のケースから検証してみよう。

安源に関する近著では、エリザベス・ペリー(Elizabeth Perry)の『安源――中国革命の伝統を掘り起こす』を欠かすことはできない。この本は安源と毛沢東の符合が現代中国の激変のなかで変化していったのかを詳細に描いており興味深い。第二章では毛、李、劉の三人がどのようにゼロから安源労働者とストライキを組織したのかを描いており、今日の労働運動活動家にとっても教科書となり得る。著者は、三人が最初から戦術を細かく研究していたことを叙述し、どのように現地の各勢力および相互関係を分析し、どのように三合会の支持をとりつけ、どのように進歩的有力者の人脈を利用し、どのように基盤を固めてから組合の組織化を始めたかといった攻守の節度を詳細に叙述している。ある時、安源を訪れた毛沢東は過激なデモやスローガンを批判し、「動員は秩序ある漸進でなければならず、いっさいの不要な、未熟な冒険主義を防止しなければならない」(原注3)ことを強調した。ストライキが勝利した後、多くの労働者は生まれて初めて肉を口にしてたいそう感激した。しばらくして、急進的な一部の労働者は、労働組合が強力になったので、さらに高い要求を資本に突きつけるべきだと考え、なかには故意に就業規則を破るものもいた。糾察隊隊長の謝懐徳などは会社側の上司を殴りつけたりもした。しかし李と劉はそのような極左的なやり方に流されることなく、逆に謝を実家に送り返したのである(原注4)。ストライキに勝利したからといって、この二人の指導者は戦術を練ることや原則から踏み外すことはなかったのである。

労働者の組織化さえ不十分な時にはなおのことではないか。毛沢東も「戦略的には敵を軽視するが、戦術的には敵を重視する」と言ったのではなかったか?もし今日の毛沢東左派が青年毛沢東に謙虚に学べば、あるいはさらに発展するのではないだろうか。

リベラリストの章立凡は、毛沢東左派の別の泣き所を指摘する。かれは学生らを支持するが、毛沢東の旗印を掲げて労働者を支持することには納得できない。なぜなら毛沢東は「労働者が自身の労働組合をもつことには反対したからだ」(原注5)建国間もないころ、李立三が労働部部長[大臣]を務めていたとき、労働組合の独立性と労働者の権利を擁護しようとして、毛沢東の怒りを買って失脚した。中国の労働者が自らの労働組合を持てていないことについて、毛沢東に責任がないとは言い難いのである。

毛沢東左派に突き付けられたこの難題は、以下の道理を認めることで解決する。つまり毛沢東は一人ではなく、多くの毛沢東がいる、少なくとも、都市部における労働運動と革命を行った毛沢東、農民戦争を行った毛沢東、そして「最も紅く最も紅い紅太陽」となった毛沢東という、三人の毛沢東がいるということである。毛沢東記号には、少なくとも三人の毛沢東がおり、全てが同じ一個人とは言えないのである。毛主席の良き学生となる前に、まず学ぶべきはどの毛沢東なのかをハッキリとさせなければならない。

とりわけ労働運動アクティビストにとって、その時代の人物のなかで毛沢東はもっとも参考価値の少ない一人である。李立三、劉少奇、鄧仲夏など1920年代の中国共産党の労働運動の真の指導者らは、非常に多くの労働運動に関する著作を遺している(原注6)。それに比べると毛沢東が労働運動に従事した期間はごくわずかであり、都市革命に従事した時期も短かったことから、労働運動に関して遺した文章は一、二篇しかない。


◎三枚の油絵と三つの時代

学ぼうとするのが文革時代の毛沢東であれば、それは全くのお門違いというものだ。文革それ自体がひとつの巨大なデマゴーグである。建国後、李立三はほとんど傍流におかれ、彼の功績を抹殺するための歴史偽造が進んだ。本来、安源の真の指導者は李立三であり、長年そこで活動した劉少奇でさえ彼の足元にも及ばない。毛に至っては、党内の地位は李のほうが上であり、せいぜいのところ両人は対等だったといえる程度である。建国後の党の公式の歴史は毛と劉を持ち上げ、李を貶めた。

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▲民画「劉少奇と安源の鉱夫」

大躍進後に毛の威光が衰えると、つぎは劉が歴史の偽造をはじめた。1961年に書かれた民画「劉少奇と安源の鉱夫」では劉ひとりが突出して描かれており、李立三どころか、毛の姿すら描かれていないのである。もちろん毛は不機嫌になった。その後、毛が文革を発動して劉を打倒し、御用画家の劉春華は「毛主席、安源に行く」を描いて李と劉を抹消することで、安源ストライキ唯一の指導者となったのである。この絵の複製画の印刷枚数は当時の中国の全人口をはるかに上回った。この油絵の巨大なポスターが各地で展示されたとき、劉は虐待のなかで死に、李は自殺を余儀なくされたのである。

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▲劉春華「毛主席、安源に行く」

安源は偉大な開始であったが、悲惨な結末を迎えた。1995年、安源を描いた新たな油絵が発表された。王興偉による「東方之路」である。そこで毛はシャツとスーツ姿で安源(と観衆)に背を向けている。それは新世代の人々の毛に対する翻雲覆雨(はんうんふくう:手のひらを返すように移り変わる人情)の失望を表現している。

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▲王興偉「東方之路」

エリザベス・ペリーは著書の「読者へ」のなかで、興味深い事柄を紹介している。彼女がキューバで人々に対して、キューバ革命の意義は?と問うたところ、人々は一致して「無償の教育と医療」をあげたという。同じ質問をアメリカ人にしたところ「革命の伝統と自由の権利」だと答えた。だが中国人に聞いたら多くの人は、バツが悪そうな表情をしたり、答えに窮したり、あるいは答えても多くはマイナスのことしか語らなかったという。

ペリーのこの作品は多くの人の心をとらえて離さない。毛沢東左派の諸君らはぜひとも読むべきである。

香港の親北京陣営以外の労働運動や社会運動も同じような事情で、毛沢東主義とは関係をもちたがらない。しかし私はおなじくこの本を読むことを勧める。読み終えた時には、労働運動とは何かということの意味合いをさらに多く学ぶことになるだろう。

2018年9月6日


原注1:《安源—發掘中國革命之傳統》中的《致讀者》,裴宜理,香港大學出版社,2014年。

原注2:《毛澤東文集》第一卷,第6頁。

原注3:裴宜理,53頁。

原注4:裴宜理,94頁。

原注5: https://www.voachinese.com/a/news-political-youth-analysis-20180822/4539505.html

原注6: 《劉少奇論工運》:http://zg.people.com.cn/BIG5/33839/30513/30515/33959/index.html

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