
花火かアヒルか――佳士(JASIC)争議を論じる
原文は『明報』2018年8月30日に掲載
區龍宇
深圳佳士(JASIC)公司の労働者らの組合結成活動は、大弾圧をもって終わりを告げた。新華社ウェブサイトに発表された官製報道は、労働者と支援の学生らの違法行為を指摘したうえで、事件が「域外勢力」の計画によるものだとした。だが実際には労働者と学生の行為は、基本的人権を尊重する社会が許容し、奨励されたものにほかならない。ましてや新華社の報道でも資本による労働者の権利に対する侵害を報じているにもかかわらず、官製報道は続けて「問題を解決するのではなく、問題を指摘した人を解決(弾圧)」した。そして香港の団体も「連座」することになり、弾圧は労働者と学生を支援する香港や国際的な支援の声を刺激することとなった。
◎労学連帯
潘毅教授[香港大学社会学部教授、労働が専門]は早くにBBCに寄せた文章(原注)のなかで、今回の労働者と学生との結合は歴史的な意義があることを指摘した。これには道理がある。民主化運動における中国とポーランドの重要な違いは、ポーランドの運動は1970年代から労働者と学生が緊密に結合し、それは後に巨大な「連帯」労組の運動を生みだした(その後の転換はまた別のテーマである)。
だが中国の89年民主化運動では、知識分子と学生は当初から労働者を排除していた。民主化運動が敗北したのち、知識分子はリベラル派といわゆる新左派に分解していったが、両派の論争は「市場の成分が多いことがいいのか、国家の関与が多いことがいいのか」という間違った二元論に集中していた。労働者にとって、それはあまり関心のないことであった。2009年および2014年の広州清掃労働者のストライキがやっと学生たちの支持を集めはじめた。そして今回の佳士(JASIC)事件で全国の大学から50名あまりの学生たちが危険を顧みず支援に駆け付けたことは、間違いなくもうひとつの運動の発展のメルクマールである。
潘毅教授いわく、この事件の第二の歴史的意義は、「労働者階級が意識的に労働組合結成の道を開いた」ことにある。だがこれは若干異論がある。2004年から2005年にかけて、日系企業のユニデンの深圳工場では5度にわたるストライキが打たれ、労働組合の結成を求めたが、政府と資本の結託によって弾圧された。その一年後、舞台は北方の山東省煙台に移り、デンマーク資本のウォレウルフ公司の女性労働者たちは権利擁護の活動のため組合を結成し、4年にわたり資本と交渉を行った。つまり、労働者の自発的な労働組合結成の動きは今に始まったことではないのである。
今回の行動でも疑惑はないわけではない。個別の支援者によると「今回の労働者の目的はすでに経済要求から政治要求へと転換した」という。しかし声援団の代表である岳昕が習近平に宛てた書簡のなかで列挙されている6つの要求は、基本的に普通の争議の範疇を超えるものではないし、「労組結成」の要求も政治闘争とは言えない。しかもこの書簡では「彼らにはその他の政治的要求はありません」ということが強調されているのである。にもかかわらず、なぜ今回の事件が労働者が経済的要求から政治的要求へと進化していると評価する意見が出るのか、まったくわからない。
◎情勢を適切に判断すべし
広義的に言えば、中国ではすべて政治である。労働者と学生が経営者と対峙して組合結成を要求し、さらに発展して地元政府と対峙したことを、政治的抵抗だとみなすことは不可能ではない。しかし狭義的に言えば、とりわけ世界の労働運動の経験からみれば、「経済闘争」と「政治闘争」の二つの範疇があり、前者は労働組合による闘争であり、後者は労働者党による闘争である。前者は労働力を販売するにあたりより良い条件とディーセントワークを求めるが、後者においては政治権力の獲得を目指す。両者は高度に関連しているが、具体的な取り組みにおいては大きな区別がある。政府は、すべての民間活動をすべて政治的なものであるとみなすが、労働運動活動家はそれを混同してはならない。とくに中国国内では「経済スト」と「政治闘争」を明確に分けなければならない。なぜなら処罰の量刑が異なるからだ。
専制国家において、闘争が政治のレベルにまで発展させようとするには、当事者が政治的に鍛えられているか、最悪の事態を想定しているか、客観情勢は有利かどうかなど、非常に多くの前提条件が必要となってくる。
潘毅教授は「佳士(JASIC)の仲間たちの行動は、中国の労働者が単純な経済的主体から階級意識をもった政治主体へと転換したことを説明している」と述べている。しかしこの点については確認が必要である。全工場1000人余りのなかで、89人が組合結成に署名したとされており、それはなかなかの出発であった。しかし弾圧を受けて、依然として公然と抵抗できる労働者は20人余りとなったという。これを「階級意識をもった政治主体」というには無理があるだろう。
適切な情勢判断は重要である。とりわけ大弾圧の後には、労働運動の高潮はいまだ現れていないことを理解すべきである。むしろ、ちょうど北戴河会議[中共の長老と指導部が一度に会する]が開催されたばかりであり、情勢は少なくとも特に有利ではなかった。
「毛沢東主義者」が主要な支援者となったことで、事件が政治化したと批判する意見もある。しかし政治潮流による争議支援は、主導権争いを目的とするのでなければ、それ自体に善悪はない。政治的立場を問題にするのではなく、その潮流の実際の行動――何が有利で、なにが有害かについて具体的に分析しなければならない。
毛沢東主義者が多くの学生支援を集めたことそれ自体は良いことである。しかし彼らの口調やスタイルは確かに容易に誤解を引き起こす。かれらは以前、北方において国有企業労働者の闘争を支持した経験があるが、その経験を直接、南方の民間企業での闘争に適用しようとするのであれば、それは問題となるだろう。かつて大量に進められた国有企業の民営化において、犠牲となった労働者らは腐敗した地元官僚と対峙せざるを得なかった。それゆえ国有企業労働者の権利擁護の闘いは当初から政治闘争の性格を帯びており、中国共産党の革命的伝統の精神に訴えたことも自然な成り行きであったし、また時には必要でもあった。しかし民間企業では事情は異なる。矛盾はまずは労働者と雇用主との間の矛盾であり、しかもそこで働く労働者(農民工)が中国革命の伝統に共鳴することは難しい。ゆえに行動を政治闘争に引き上げようとすることは、冒険主義になる可能性もある。
◎政治闘争の時期はいまだ
地元政府と警察には、不作為や不要な作為の責任があることは当然であり、責任を問う必要がある。しかしどれほどの力をかけて、どのような口調やスタイルで、どのレベルに照準を定めるのかを検討することは一層重要である。ある支援者が発表した「井岡山は今いずこ?――佳士労働者の闘争と革命復興の展望」という文章は、大言壮語で「井岡山は佳士に、そしてすべての工業区ある」と述べている[井岡山は毛沢東が建設した革命根拠地]。このような主張は不用意に革命的扇動という誤解を生じさせ、弊害のほうが大きいだろう。
現在の急務は損失を最小限にすることである。損失を最小限にするには次のことをハッキリさせる必要がある。被弾圧者はどうすべきか、である。被弾圧者は事情聴取の審問者を大きく罵り、革命談義を浴びせかけるべきかどうか。文革時に流行った考えは、被弾圧者は投獄された際に官吏と断固対峙すべきである、それができないものは軟弱者か裏切り者である、という考えであった。だがそれは革命的模範映画のワンシーンのなかだけのことであり、実際の獄中における抵抗はそのようなものではなかった。逮捕されたらすぐに仲間の状況を吐いてしまうことは、道義的にも問題があることは当然である。だが激烈に抵抗することだけが正しいと考えるのであれば、それは幼稚のそしりを免れないだろう。どうか弾圧された学友たちが革命模範映画に誤導されることがないよう願うものである。
つぎに、香港衆志[DEMOSISTO]のメンバーが、中国国内で拘束され訊問を受けたが[8月27日に2名のメンバーが深圳で3時間警察に拘留・訊問された事件]、これはこれらの事件が香港人にとっても同じ意義を持つことを教えている。準備もなく逮捕されるよりも、早急にこれまでの経験から学ぶほうがいいだろう。
花火は美しいが、残念ながらそれは一瞬の輝きにすぎない。アヒルは水面では悠々自適だが、水面下ではあわただしく水を掻いており、後日にもその姿を目にすることができる。いつ花火を打ち上げ、いつアヒルに扮するのかが問われなければならない。勇ましいスローガンは何の役にも立たない。
原注:〈深圳佳士工人維權的兩大意義〉,BBC中文網2018年8月17日
著者はフリーランスのライター
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