「これのどこがコメディーなんだ?」「これを見てよくクスクス笑えるなぁ……」
映画が始まってそれほど時間がたたないうちに、こんな思いがこみ上げてきた。
映画「スターリンの葬送狂想曲」のことだ。
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東京新聞の金曜日の夕刊に掲載されるシネマガイドの「今週の注目」というメイン欄で紹介されていた。テーマ設定に惹かれたということもあるが、紹介記事の冒頭の「ソ連で20年にわたって恐怖政治を敷いた独裁者スターリン。彼の急死を受けて繰り広げられる後継者争いを、ブラックユーモアたっぷりに描いた英国製の風刺コメディーだ。」という一句にも惹かれたということもあり(「ブラック」というよりも「レッド」なのだが…)、やや期待して観に行って最初に感じたのが冒頭に紹介したものだ。
冒頭のコンサートのシーンでの滑稽さには、まだ「コメディー」という思い込みがあったので、周囲の観客といっしょにクスクスと体を揺らしていたが、すぐに内務人民委員部(NKVD)の秘密警察がモスクワ住民らを強制連行したり拷問するシーンに変わっていく。
映画の時代設定は1953年3月のスターリン死去の頃。当時のNKVDの長官は、映画の主人公の一人でもあるベリヤ。ベリヤはスターリンの大粛清が始まって三代目の長官。
スターリンの大粛清は、スターリンの命令に忠実なヤゴダが1934年に長官に就いたのちに発生したキーロフ暗殺事件を契機に本格化する。ヤゴダは、36年のジノヴィエフやカーメネフなど16名のオールド・ボリシェビキが海外に追放されたトロツキーらと共謀してキーロフを暗殺したという冤罪で16名全員を銃殺刑にした「第一次モスクワ裁判」の実行部隊を指揮した。しかしその直後にヤゴダは長官を解任され、エジョフがNKVDの二代目長官に就任。
エジョフは37年には、ラデック、ピャタコフ、ムラロフら17名のオールド・ボリシェビキが海外のトロツキーと共謀して、スターリン暗殺やソ連転覆を画策したという冤罪で、17名全員に対して銃殺刑の判決を下した「第二次モスクワ裁判」の実働部隊を指揮。
1937年3月、初代長官ヤゴダは、スターリンの意向を受けた二代目長官エジョフによって「1907年の入党当初からドイツのスパイだった」として告発され、翌38年3月には、ブハーリンやルイコフら21名が海外のトロツキーやドイツ政府と共謀してソ連を転覆させようとしたという冤罪で21名全員が銃殺刑になった「第三次モスクワ裁判」の被告の一人として銃殺された。あわせてヤゴダの家族やヤゴダ時代のNKVD隊員ら3000人も銃殺された。
そのエジョフも第三次モスクワ裁判の直後から批判にさらされ、38年8月には長官代理のベリヤが実質的にNKVDの権力を握り、11月にスターリンやモロトフによるエジョフ批判が行われ、エジョフは長官を辞任し、ベリヤが正式にNKVDの三代目長官に就任。39年4月にエジョフはドイツのスパイとして逮捕され、40年2月に処刑された。治安機関のトップとなったベリヤはその後の独ソ戦時代の副首相として、戦時生産の動員体制やポーランド人捕虜の虐殺、ドイツ系住民の強制移住などに辣腕を振るい、大戦後の46年にはソ連共産党の最高位の政治局員に選ばれた。
「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という諺があるが、この映画で描かれているNKVDを使ったスターリンの大粛清は、一代目のヤゴダのときも二代目のエジョフのときも、そして映画で描かれた三代目のベリヤのときも、悲劇でも喜劇でもなく、それは惨劇というほかないものであった。
そして映画「スターリン葬送狂想曲」は確かに喜劇でも風刺コメディーでもなく、権力者やNKVD隊員だけでなく、多くの人民が無慈悲に射殺され拷問されレイプされる惨劇として描かれている。
この映画のどこが「風刺ユーモア」なのか? 評者は映画の広告方針である「風刺コメディー」を最後まで信じてクスクス笑い続けたのか? 映画館の観客も当初は「風刺コメディー」という広告に騙されてクスクスと笑っていたが、映画の半ばからはほとんど笑い声は聞かれず、最後は沈黙のなかでラストシーンを迎えていたのにである。この映画を観て最後までクスクスと笑い続ける人間がいたら、それは「スターリン・ジョーク」という抑圧下の人民の苦悩を高度に理解している人間か、そうでなければ現代日本映画界に君臨するコマーシャリズムという資本主義の独裁者に洗脳されてしまっている奴隷のどちらかだ。
もちろんいわゆる「スターリン・ジョーク」的な描写は各所にちりばめられており(スターリン・ジョークほど機知に富んではいないが)、それを以て「風刺ジョーク」と言えなくもないのかもしれない。しかし扱われている主題や凄惨な弾圧シーンによって、「風刺ジョーク」などというコマーシャリズムは完全に吹き飛んでしまっている。
広告に騙されてしまった人間の一人として、この映画は、スターリン体制下の人民の悲劇に憤り、残忍な独裁体制と最後まで戦い殺されていった無数の反対派をリスペクトし、搾取も抑圧もない自由で平等な社会を夢見る人々にとっては、見る価値のある映画だと断言する。
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もうひとつ。
上映終了後、ロビーではパンフレットと一緒に原作となった漫画『La mort de Staline』(スターリンの死)の日本語版『スターリンの葬送狂想曲』が売っていた。パンフレットは上映前に購入して待ち時間の間に読んでいたが、あまり惹かれるところがなく、漫画の方もどうせそうだろうな、もう騙されないぞ、と思って映画館を出たのだが(本はフィルムに巻かれていて立ち読みできなかった)、もしかして……という思いがよぎり、チケットの倍近く、パンフレットの4倍以上もしたが、帰り道の書店で見つけて購入した。

原作漫画の方は、日本の配給会社の広告のような「風刺コメディー」という雰囲気は一切なく、どちらかというとシリアスなアメコミ劇画タッチの内容で、読みごたえがあった。しかも、である。画家のティエリ・ロバンは、この映画の原作の脚本に出会う前に、2008年に35ページのスターリンの伝記的漫画を描いており、その一部が収録されていたのだ。
ティエリ・ロバンはこう語っている。
「私は35ページの絵を描いた。それは主に赤軍の創設とスターリンが初めて現場での実践を体験した時代についてだった。1918年、彼がツアーリツィンに派遣された時のことだ。そこで彼は独裁者となるすべを学んだ。…」
ツアーリツィン。つまりソ連時代のスターリングラードで現在のヴォルゴグラードのことだ。1918年のツアーリツィンのエピソードについては、トロツキーの自伝『わが生涯』の第36章「軍事反対派」が、まるまるロバンの言及するエピソードに充てられており、漫画『スターリンの葬送狂想曲』に付録として収録されているロバンの絵を見れば、トロツキーの自伝も参考にしたのではないかということがうかがい知れる。

言うまでもないが、トロツキーは、三回の「モスクワ冤罪裁判」の首謀者としてスターリンとNKVDから、ナチスと日本帝国主義の手先だと宣告され、1940年8月20日にスターリンの放った刺客によって脳天をピッケルで打ち砕かれ、翌21日に死亡する(映画でも名前だけだが一回だけ登場する)。トロツキーが襲われた書斎の机には、自らの血潮が飛び散った書きかけの「スターリン伝」が遺稿として残された。そこにはこう記されていたという。
「キリストの12人の使徒のうち、ユダだけが裏切り者となった。しかし、もしユダが権力を獲得していたら、彼は他の11人の使徒を、そしてもっと小物の弟子たちも同様に、裏切り者にしたてただろう。」「皇帝ネロもまた存命中は崇拝された。だが彼が死ぬと、彼の彫像は打ち壊され、彼の名はいたるところで消し去られた。歴史の復讐は、最も強大な書記長の復讐よりももっとすさまじい。」―――『大粛清・スターリン神話』アイザック・ドイッチャー著より
今回、まんまと配給会社の広告と東京新聞の映画評に騙されてしまったが、最終的にティエリ・ロバンの作品にたどり着いたことで、今回も終わりよければすべてよし、としよう。
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