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アガリヤー ~ 続・君たちの時代

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昨日(2018年2月18日)、大宜味村の一級土木施工管理技士、奥間正則さんの講演を聞きました。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック総会記念講演でした。

「名護市長選挙ではたいへん悔しい思いをした。しかし落ち込んではいません。技術者としてのしっかりとしたデータに基づいたはなしを現場でもして、名護市民を勇気づけるような話をしています。今日は私の話を聞いて今日は私の話を聞いて、ぜひ元気になってこれからも国を追い詰めていきましょう。」

奥間さんはこんなふうに会場いっぱいのヤマトンチュの参加者を勇気づける。講演内容も、まさに「土木屋」のプライドを賭けた、そして「国策」の犠牲となってきた歴史を背負った講演。1時間ではとても足りないくらいの充実した、そして飽きさせない講演でした。

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詳細は書きませんが、技術的にも問題だらけの辺野古基地建設のはなし、名護市屋我地島にあるハンセン病療養施設・愛楽園に入所していた両親の話、ほんとうに悔しかったという名護市長選のはなしなど、まだまだ聞きたいことはたくさんあったが、高江の森で見せた、神出鬼没のやんばるのブナガヤ(※)のように、奥間さんの話はこれからもまだまだ聞く機会はあると思う。ぜひみなさんも、辺野古で、あるいは各地で奥間さんの話を聞いてほしいとおもいました。

※ブヤガナについては大宜味村の「ぶながやの里」のホームページで次のように紹介されています。

「第二次世界大戦以前は、沖縄のほとんどの村々で暮らしていた『ぶながや』たちは、激しい戦禍と基地被害、戦後復興の近代化に耐えきれず、かつてのふるさとを離れ、20世紀最後の安住の地を求め、豊かな自然と人々の肝清らさにひかれ、大宜味村に命を永らえるようになったという、希少種族である。」(ぶながやの里

以上、書きかけの文章の前にどうしても書いておきたかったことでした。

さて、アガリヤーの話です。

今回、連休を利用した訪問だったこともあり辺野古新基地の工事(砕石などの搬入)はなくキャンプ・シュワブの工事ゲート前での座り込みや採石場からくるダンプ運転手に対する働きかけ行動に参加することができなかった。

その代わりというわけではないが、前回の名護訪問(※)の際に入手した『沖縄、時代を生きた学究 伝 東江平之』(辻本昌弘著、沖縄タイムス社、2017年3月、以下『東江伝』)を行きの飛行機内で読んで、けっこうな衝撃を受けたことから、名護での東江氏の足跡をたどる真似事をした。

(※)前回の訪問(2017年10月)およびタイトル「君たちの時代」についてはこちらをご覧ください。

東江平之(あがりえ なりゆき)さんは、前回の名護訪問で訪れたヒンプンがじまる公園にある宮城與徳記念碑の除幕式(2006年1月25日)で主催者あいさつを行い、その3年前の2003年12月3日に名護市立図書館で行われた「宮城與徳 生誕百年記念講演」の模様や宮城與徳関連の資料をまとめた『宮城與徳生誕百年記念誌 君たちの時代』を編集・発行した「宮城與徳生誕百年を記念する会」の会長だ。

東江氏が、記念誌に『君たちの時代』と名付けた理由を次のように書いていたことが印象的だった。

「宮城與徳は戦前の暗い時代、甥の屋部高志さんに『いずれ戦争が終わり、新しい“君たちの時代”が必ず来る』と口ぐせのように語っていました。『君たちの時代』は與徳の夢であり願いでありました。この言葉は與徳の希望であり、そしてこの記念事業のテーマでもあります。若い君たちに素晴らしい『君たちの時代』を託し、本書をお届けします。」(『君たちの時代』、はじめに、より)

とはいえ、それ以上は余り踏み込んで考えなかったのだが、名護出身の「東江三兄弟」の一人で、陸軍中野学校の軍人らによって結成された野戦ゲリラ部隊・護郷隊に鉄血勤皇隊の少年兵として参加し、戦後はアメリカの大学で学び、帰琉後に琉球大学教授、名桜大学学長となった名護出身の名士で、その数奇な生涯を描いた『東江伝』くらいは読んでおいたほうがいいかな、ということで行きの機内で読み始めたのだが、これがなかなかすごい内容だった。また何度か訪れた名護市内外の地名も出てきたことから親近感がわいたということもある。

『東江伝』を読んで初めて知ったのだが、東江平之氏の名前はおそらく宮城與徳との結びつきよりも「沖縄人の意識構造」というタームとの結びつきのほうが有名なようだ。

東江平之氏は、留学先のアメリカから米軍統治下の沖縄に戻った2年後に琉球大学で教鞭をとっていた1963年に書かれた論文『沖縄人の意識構造の研究』をもとにして同年7月から五回にわたって沖縄タイムスに連載された「沖縄人の意識構造 その研究法の一試案」によって沖縄人のアイデンティティをめぐる研究に心理学者として大きな一石を投じており、『東江伝』の後半部分もその紹介に費やされている。

しかし『東江伝』を読んで衝撃を受けたのは、平之氏がアメリカに留学するまでの波乱万丈の半生のほうである。東江平之氏はその名字からもわかるように、メキシコ・アメリカへの出稼ぎ帰りの父、東江盛長と、名護市世冨慶(よふけ)の母、カマドとのあいだに1930年に名護市東江で生まれた。6人の兄、姉、妹、弟(38年に病死)という10人きょうだいの8番目。平之氏は、東江の屋号アガリヤーから「アガリヤーの七男」と呼ばれていたという。きょうだいのうち、平之をふくむ3人のアガリヤーが、日米両軍に分かれ、激しい戦闘のさなかに運命的に再会するという実話は、2011年にはフジ系列で『最後の絆 沖縄・引き裂かれた兄弟 〜鉄血勤皇隊と日系アメリカ兵の真相〜』というドラマで描かれたのでご覧になられた方もいるだろう。

平之氏は1944年4月に名護にあった名門校の県立第三中学校に入学、慶良間諸島に米軍が上陸した翌45年3月26日に鉄血勤皇隊として召集され、名護の東方にある多野岳に本部を置いていた陸軍中野学校出身の村上治夫大尉率いる第三遊撃隊(護郷隊)に配属された。村上大尉は召集された学徒のなかでも、東江氏のような年少(当時14歳)で体格の小さな年少者ら15名を選び出して情報収集班として、土地感覚のある郷里に展開している部隊に配置した。

名護市街地出身だった平之氏ら5名は、本隊がおかれていた多野岳から、東江地区から名護湾を望む名護岳に移動した。情報収集班であることから、軍服ではなく学生服や私服を着用して活動。ほどなくして4月6日には多数の米軍艦隊が名護湾から名護市街地に上陸し、激しい艦砲射撃や上陸部隊からの攻撃のなか、三中生から編成されていた鉄血勤皇隊は解散となり、山中に避難していた家族らのもとに合流。多野岳の部隊に配属されていた兄の康治氏(当時16歳)も右胸を貫通する重傷を負い部隊を離脱し、平之氏らに合流するも負傷がもとでほとんど瀕死の状態だった。

そのとき、父の盛長は同じく避難をしていた知り合いから「アメリカーの中にアガリヤーの息子がいて家族を探しているらしい」という話を聞き、ひとり杖をついて山中から「アガリヤーの息子」を訪ねるために山を降りた。その「アガリヤーの息子」とは、1937年に出稼ぎのために渡米した二男の盛勇氏で、41年に米軍に召集され、米軍情報部隊の兵士として1945年4月末にグアムから沖縄に進駐、5月に名護方面に派遣され、任務の傍ら「イエー、ウマリカーニ、名護チュヤ、ウランナー(おい、この辺に名護の人はいないか)」とあちこちで家族の消息を尋ねまわっていた。この父子の劇的な再会をつづったエピソードや平之氏や家族らの戦中の経過を読むにつれ、よく全員無事で再会できたなという思いがこみ上げる。おそらく沖縄戦では無数の悲惨なエピソードのなかにこのようないくつかの奇跡的な物語があったのだろう。

『東江伝』にさらに興味を持ったのは、兄・盛勇と再会し、名護岳の避難場所から移動した先が、名護市北部にある羽地地区の伊佐川で、平之は護郷隊にいた経歴から、そこから一キロほど離れた川上という場所にあった捕虜収容所(カンパンと呼ばれた)に収容され、強制労働に従事したとあったことだ。当時の羽地小学校には米軍の本部が置かれ、田井等(たいら)を中心にこの一帯が、地元や南部からの避難民の避難・収容地区となっていたという。

この羽地地区は、このかん名護を訪れた時の常宿として通っていたところで、名護岳や東江地区から結構離れている。

ということで、最終日の空き時間を利用して、駆け足だが羽地地区や名護岳をまわり、アガリヤーの足跡を訪ねてみることにした。

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羽地中学校の隣にある旧羽地村の神社跡に慰霊碑と忠魂碑が並んでいる

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振慶名(ぶりけな)の高台から田井等(たいら)収容所の跡地を望む。
戦後一時6万人の避難民が居住し、田井等市と呼ばれた。
瀬長亀次郎も助役として勤務していたらしい。

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振慶名には700~800年前のグスク時代のフガヤ遺跡がある。
マジムンが写真に映ることもある。

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かつてこの地域の米軍司令部の置かれていた羽地小学校。

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呉我(ごが)の嵐山展望台から羽地内海を望む。手前の小さな無人島はジャルマ島。
その後ろに屋我地島がみえる。愛楽園は屋我地島の一番奥で見えない。
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名護小学校(大西)の脇の丘の上にある第一護郷隊の碑。
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裏側には陸軍中野学校から派遣された村上治夫隊長による護郷隊歌の三番が記されている。
「赤き心で断じてなせば 骨も砕けよ肉また散れよ 君に捧げて微笑む男児」

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名護小学校に隣接する学校給食センターの車両には沖縄防衛局調整交付金事業と記されていた。
護郷隊の時代から連綿と続く日本軍の支配を思わせる。

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名護のひんぷんガジュマルと、その横の「ガジュマル緑地」にある宮城與徳記念碑。
となりには徳田球一の碑もある。

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東江平之氏らが少年護郷隊として配備された名護岳山中にある展望台から名護湾を望む。
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『東江伝』の後半は、沖縄戦終了直後の収容生活や米軍での労務、そして戦後の沖縄の混乱やアメリカへの留学、そして帰琉後に発表した論文「沖縄人の意識構造」をめぐる議論など、どれもこれも興味深いが長くなるので興味ある方はぜひ本書を手に取って読んでもらいたい。

名護における沖縄戦については、名護市史 本編3『名護・やんばるの沖縄戦』に詳しい。4000円とやや値ははったが900ページ近いハードカバーの大部の資料としてはかなりお得。護郷隊や川上カンパン、田井等の民間収容所、愛楽園、辺野古大浦崎の収容所、日本軍慰安所など、多くの資料や証言が収録されている。平之氏の兄、盛勇氏も東フランクという名前で米軍兵士として帰琉した経緯などを詳しく証言している。

『名護・やんばるの沖縄戦』の編纂責任者は東江平之氏。全体に平和を希求する願いが込められた編集になっている。

発行は「名護市役所 市長 稲嶺進」。稲嶺市長(当時)は2016年8月15日に発行されたこの『名護・やんばるの沖縄戦』の冒頭でこうつづっている。

「昨年、沖縄戦が終結して70年という節目の年を迎え、戦争について、平和について、沖縄の未来について、さまざまなことを考えさせられる一年となりました。…(略)…私たちは、過去の教訓を生かし、平和な明るい未来を築いていくための努力を続けなければなりません。しかし、沖縄には今なお、戦争と切り離すことのできない米軍基地が存在し、ここ名護市では長年、新基地建設という重大な問題に苦しめられています。…(略)…本書が戦争や沖縄の未来を考える機会となり、平和への思いを継承していく一助となることを願います。」

このような市長を落選させてしまったヤマトのふがいなさを改めて反省。

最後に、2006年1月25日の宮城與徳記念碑の落成式に、市教育長として当時の岸本建男・名護市長の代理で出席した稲嶺進・名護市教育長(当時)が読み上げた市長あいさつを紹介しておこう。

「画家 宮城與徳の遺された作品や諸資料から、誰よりも平和を願ってやまなかった宮城與徳の静かで、そして強くやさしい眼差しを感じ、沖縄の苦難の歴史を背負い画家として生きた人間・宮城與徳を見つめなおしていこうとする市民活動から、次の新しい『君たちの時代』を私たち名護市民一人ひとりが自らつくりあげていくものであることを確信するものであります。」

昨日の奥間さんの講演の冒頭で語られた力強い決意を彷彿とさせる名護マサーの確信である。

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