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日経新聞「生産性考」と夢物語、またはユートピアだより

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─── こりゃ現代の『資本論』だな。

昨日(11/27)から日経新聞で始まった連載記事「生産性考 危機を好機に」を読んだ感想。

記事はアベ・クロダノミクスの「生産性革命」「人づくり革命」に合わせたものだ。スタートは日経新聞の一面のほぼ全部を使って「成長か衰退か」と大見出しで、「人手不足を飛躍のバネに」とはっぱをかけている。

・資本金の25倍の25億円を投じてアームロボットを導入した資源リサイクルの工場では、18人いた労働者が、ロボット監視の2人に減った。
・ウェブで集客を拡大した中堅不動産仲介業者はAIによる客対応でスタッフ1人が対応できる客は月1000人と従来の25倍になった。
・みずほフィナシャルグループなど3メガバンクはAI導入によって、単純合算で3万2千人分の業務量や人員を減らす予定。

そして記事はこう結ばれている。

「人口減が続く中、新技術で1人当たりの付加価値を高め、賃金を増やしていく。そんな好循環を生み出すことが日本経済の成長には欠かせない。人手不足を克服できず衰退の道をたどるのか、それとも生産性革命を成し遂げ、再び成長の道を進むのか。後の人々から『革命』と呼ばれるかもしれない時代を私たちは生きている。」

さて冒頭の「資本論」だが、資本論第一巻の13章は、当時のAI、つまり機械の発明がもたらす役割について冒頭でこう述べている。

「ジョン・ステュアート・ミルは、その『経済学原理』の中で言っている、『すべての従来なされた機械の発明が、何らかの人間の日々の苦労を、軽減したかどうかは疑問である』と。しかし、かようなことは、決して、資本主義的に使用される機械装置の目的ではないのである。労働生産力のすべての他の発展と同じく、機械装置は、商品を低廉にするためのものであり、また、労働者が自分自身のために必要とする労働日部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える他の労働日部分を延長するためのものなのである。機械装置は、剰余価値の生産のための手段である。」

簡単に言えば、機械の導入によって、商品の生産にかかる費用が安くなり、それによって労働力という商品の再生産にかかる費用(生活品)も安くなり、そうすると労働力の価格である賃金をひくく抑えることができる、ということだ。

資本主義社会における賃金とは、労働者が生み出した価値の一部を、生産手段を私有している資本家が資本の蓄積のために搾取した、その残りが賃金=生計費であり、生計費が下がれば、相対的に搾取=資本蓄積する部分が増える。賃金とは、賃労働の対価であり、労働の対価ではない。そして賃労働とは、私的に所有された生産手段から価値を生み出すために賃金という鎖につながれた現代の奴隷制度ともいえる。

「賃金制度の廃止」というマルクスとエンゲルスのスローガンにはそのような含意がある。

賃奴隷でも、食えればいいじゃないか、それにそれなりの政治的自由もあるし、それもいいじゃない、という考えもあるかもしれない。しかし、賃金は資本と表裏一体であり、資本の蓄積には物質的な際限がほとんどない、ということも現代の気候変動につながる問題としてある。

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この連載の関連記事が5面に掲載されている。「さらばモーレツ」と題して、創業以来の「モーレツ主義」から「残業ゼロ」へ180度方向転換した日本電産の永守重信会長兼社長の紹介記事。

「日本の実質労働生産率(就業1時間あたり)の平均上昇率は5%半ばだった。現在の5倍だ。」

「日本電産は2015年3月期に連結売上高1兆円を突破。永守氏は16年秋に『生産性を2倍に高め、20年に残業ゼロ』を宣言した。日本は90年代半ば以降、労働生産性(の上昇率)は高くても1%台にとどまる。日本電産と同様、発想の転換が必要な時期を迎えているのかもしれない」

やれやれ、だ。記事にもあるように永守氏は「元日以外、364日働く」という働きぶりだったが、90年代にM&Aで海外企業を買収し、欧米の働き方が「プロの働き方で無駄がない」と考え、「定時退社して語学を学んでもらった方がはるかに競争力が高まる」と言っているように、永守氏のいう「残業ゼロ」は働く人たちに解放された自由な時間をもたらすのではなく、資本の利潤のための「自由時間」としてしか考えられていない。こんな資本の我利我利亡者には、ラファルグが掲げた「怠ける権利」を対置したい。

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もうひとつ、解説記事が掲載されている。賃上げこそが景気の好循環をもたらすと主張してきた吉川洋氏による「生産性」を分かりやすく解説している記事だ。

「生産性とはどういうものなのでしょうか。」という日経新聞に対して、吉川氏はこう答えている。

「生産性の上昇には技術的なものと新たな需要を生み出すものと2種類がある。まんじゅう屋なら、1時間あたりに作れるまんじゅうの数を増やすのが技術的な意味の生産性上昇だ。これに対し、世の中の変化に合わせて売れるまんじゅうを新たに作り出すという生産性上昇もある。いま重要なのは後者だ」

わかりやすい。

そして最後に「GDPが年1.5%成長を続けた上で人口が年0.5%ずつ減れば、1人あたり所得は2%ずつ伸びることになる。それが35年続けば、1人あたりの所得は倍になる」と答えた吉川氏に対して、日経新聞のインタビュアーはこんな質問をする。

―――夢のような話にきこえますが。

吉川氏の答えはこうだ。

「決して夢物語ではない。超高齢化社会は生産性向上を生み出すイノベーション(技術革新)にとって宝の山だ。高齢者は身の回りの不便を解消するという大きなニーズを持っている。超高齢化社会は20世紀のモータリゼーションに匹敵する社会変化をもたらすだろう」

・・・・・・クラクラしてきた。

すでに地球上のすべてのひとのよりよく生きるという欲求をみたすだけの生産力と知恵をもっているにもかかわらず、それを無制限の資本の欲求のためにしか使い道を見いだせない資本主義システムが生み出す膨大な無駄と環境破壊と人権侵害の<商品>があふれ、退職後も働き続けなければならない賃奴隷労働と温室効果ガス排出と核の危機を包摂し続けるこの社会システムをあと35年も続け、20世紀のモータリゼーションに匹敵する社会変化を期待する、これほどの悪夢の物語がほかにあろうか。

どうせ見るなら別な夢物語(ユートピア)を見たいとおもう。

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「賃金制度の廃止なんて夢物語」「働かざる者食うべからず」という意見もあろう。しかし資本主義における労働ではない、まだ見たことのないべつの社会システムにおける労働を、論じた本がある。

イギリスの芸術家ウィリアム・モリスの「ユートピアだより」という小説。それは1952年におこった革命から約200年後の22世紀の世界。すでに資本主義は遥か彼方の歴史となった共産主義イギリスのロンドンが舞台となっている。著者モリスであろうウィリアム・ゲスト(お客人)が19世紀末の帝国主義イギリスからタイムスリップするという「夢物語」だ。

モリスはマルクスの思想から着想してこの物語を書いている。1834年生まれのモリスは、1883年に「資本論」を読んで、マルクス主義へと傾倒。1890年に書かれた「ユートピアだより」で、モリスの芸術家、エコロジカル思想、そしてマルクス経済学がミックスされた未来が描かれている。

第15章は「コミュニズム社会には労働意欲をうながすものが欠けているか」というタイトルで、資本主義を廃絶し、社会主義から共産主義へと至ったコミュニズム社会における労働を、老人ハモンドとの対話を通じて読者に提示している。

やや長くなるが、先に触れた機械の役割についても述べられており、またattacでも取り組んでいる経済のグローバル化(世界市場)についても触れられており、興味深いので抜粋引用する。

+ + (以下、抜粋引用) + +

「ここでは労働の報酬がないのにどうやって人びとを働かせるのですか。骨の折れる仕事をどうやってさせるのでしょう」

「労働の報酬がない?」ハモンドは真面目な顔になって言った。「労働の報酬は生きることそのものではありませんか。それでは足りませんかね」

「特別よい仕事にも報酬はないのですか」

「報酬ならたっぷりとあります」と老人は言った。「創造という報酬が。昔の人なら、神が得たもう賃金とでも言ったでしょう。ものをつくることの喜び、それはつまり、すぐれた仕事をするということなのですが、それでもって支払いを請求するとなったら、そのつぎには、子どもをもうけたから請求書を送る、という話をきかされることになるでしょう」

「ええ、しかし」とわたしは言った。「19世紀の人なら、子どもを生むのは自然の欲求だが、働かないことも自然の欲求だといったでしょう」

「ええ、知っていますよ」とかれは言った。「昔の陳腐な言いぐさですね―――しかしそれは真っ赤な嘘です。まったく、われわれには無意味なことです。フーリエは嘲笑の的でしたが、かれのほうがよく問題を理解していました」

「あなたがたにとってなぜ無意味なのですか」

かれは言った「それが暗に言っているのは、すべての仕事が苦痛だということだからです。われわれには無縁の考え方です。お気づきのように、ここには富の欠乏はなくも、いつか仕事が欠乏してしまうのではないかという、一種の心配が生まれているのです。われわれが失うのを恐れているのは、喜びであって、苦痛ではありません」

「ええ」とわたしは言った。「それには気づいていました。そのこともお聞きしようと思っていました。それにしても、この世界では、仕事の喜びというものについてどういうことをはっきりと主張なさるおつもりですか」

「すべての仕事がいまでは楽しめるものになっているということです。それは、ひとつには、名誉が得られるだろう、ゆたかになれるだろうという希望をいだいて仕事をするためです。それがあれば、じっさいの仕事が楽しくない場合だって、心地よい興奮が引き起こされます。さもなければ、機械的な仕事と呼ばれる場合のように、それが楽しい習い性となっているためです。そして最後に(われわれの仕事のほとんどがこの種のものなのですが)仕事そのもののなかにそれと意識できる感覚的な喜びがあるためです。つまり、芸術家として仕事をしているということですね」

「なるほど」とわたしは言った。「では、そんな幸福な状態に至ったいきさつを教えていただけませんか」

(略)

「簡単に言えば」とかれは言った。「わざわざ人を押しつぶすようなまねをやめて、各人が自由に全力をつくせるようにしたことによってです。それに加えて、どのような労働の産物をわれわれがほんとうに欲しているか、それを知るようになったおかげです。まあ、それを知るまでには時間がかかりましたし、苦労もしたのだと言わねばなりませんが」

(略)

話が長くなるというので、かれは椅子に座りなおして言った。「われわれが聞いたり読んだりしたことから察するに、どう見ても、文明の最後の時代[19世紀]に人は物品の生産という問題で悪循環におちいってしまったようですね。かれらは見事なまでに楽々と生産できるようになりました。その便利さを最大限生かすために、しだいしだいに、この上もなく込み入った売買システムをつくりだしました。というか、そうしたものが発達するがままにしておきました。<世界市場>と呼ばれるものです。その<世界市場>は、いったん動きだすと、物品の必要あるなしにかかわらず、ますます大量に生産しつづけるように強制しました。その結果、ほんとうに必要な品々をつくる苦労から解放されることは(当然ながら)できませんでしたが、にせの必需品、あるいは人為的な必需品を際限なく生み出すことになりました。そうしたものは、いま言った<世界市場>の鉄則のもとで、人びとにとっては、生活を支える本当の必需品とおなじくらいに重要なものになってしまったのです。おかげで人びとは、ひたすらその悲惨な制度を維持するためだけに、とてつもなく多くの仕事を背負いこむはめになったのです」

「なるほど――で、それから?」とわたしは言った。

「で、それから、このように無用な代物を生産するというひどい重荷を負わされ、よろよろと歩いていかねばならなくなったので、人びとは労働とその成果をあるひとつの観点からしか見ることができなくなってしまった―――すなわち、いかなる品物であっても、なるべく手間をかけずにできるだけ多くの品物をつくりだそうとつねにつとめることです。『生産費の削減』などと呼ばれたものですが、そのためにすべてが犠牲にされました。働く者が仕事をするときに得られる幸福はもとより、まず欠かせない心のやすらぎ、最低限の健康、衣食住、余暇、娯楽、教育までもが、要するにくらしそのものが、物品の『生産費の削減』というおそるべき必要性と秤にかけたら、一粒の砂ほどにも値しないとされたのです。そうした品物のほとんどが、そもそもつくる価値などまったくないものだったというのに。(略)要するに、<世界市場>が強いる『生産費の削減』という貪欲な怪物の口のなかに、社会全体が投げ込まれたのでした」

「なんとまあ!」とわたしは言った。「しかしそれでどうなりました?かれらは利口であったし、生産も容易だったのだから、結局はそうした悲惨な混沌状態を克服したのではありませんか?その<世界市場>の動きをおさえて、余分な労働という恐ろしい務めから解放される手段を練りだす仕事に取りかかれなかったのですか?」

老人は苦笑した。「かれらはやってみようとしたこともあったのかな?あやしいものです。古い格言によると、甲虫は糞のなかにも住みなれるといいますね。そしてこれらの人びとは、糞が心地よいと思ったかどうか知らぬが、たしかにそのなかでくらしたのです」

19世紀のくらしについての老人の評価を聞いてわたしはあぜんとしてしまい、力なく言った。「しかし労力を節約する機械はどうなんでしょう」

「おやまあ!」とかれは言った。「なんですか、それは。労力を節約する機械ですって?ええ、たしかにそうした機械はあるひとつの仕事についての『労力を節約する』ために(平たく言えば、人のくらしを節約するために)つくられましたが、それはまたべつの、たぶん無用な仕事に費やすため――いや、浪費するためと言おう――そのためのものだったのです。友よ、労働力を安あがりにするためのこうした手だてはみんな、労働の重荷を増やすことにしかなりませんでした。<世界市場>は食えば食うほどその貪欲さをつのらせていったのです。いわゆる『文明』(すなわち組織化された窮乏)の圏内にいる国々はこの市場が乱造するまがい物を腹につめこみ、圏外の国々を『開発』するために武力と欺瞞を容赦なく用いたのでした。(略)またそこに見られるすべての余暇や楽しみをことごとく破壊し、『市場を生みだす』ようにしむけたのです。その土地の住民にはほしくもない商品を押しつけ、『交換』という名の強奪の一形式によってそこの天然資源をわがものにし、そうすることで『新しい需要を創出』したのでした。その需要を満たすために(すなわち、地域住民が新しい主人によって生きることを許してもらうために)、その不運で無力な人びとは、『文明』のくだらぬ品々を買う金をかせぐために、希望のない苦役にわが身を売るはめとなったのです。ああ」と老人は博物館を指して言った。

(略)

「失礼ですが」とわたしは言った。「ご存知のように時間が迫っています。なるべく横道にそれないでお話をうかがいたいので、ただちにお聞きしますが、<世界市場>のためにつくられたこれらの商品について――品質はどうでしたか。商品づくりはお手のものだったのだから、さぞやよい品物をこしらえたのではありませんか?」

「品質ですって!」と老人はつっけんどんに言った。(略)「自分が売りさばく商品の品質などといったとるにたらぬことを連中が気にしたはずがありません。よくいってもせいぜい標準以下だったし、ひどいものになると、要求されたもののみえすいた間に合わせで、代わりがあればだれもそんなまがい物に我慢しなかったでしょう。商品は使うためでなく売るためにこそつくられるというのが当時流行の冗談でした。(略)」

わたしは言った。「なんですって。かれらはよい品をなにひとつつくらなかったのですか?」
「いや」とかれは言った。「ただひとつ、文句なくりっぱにつくれる品がありました。製造機械のたぐいです。そうしたものはたいてい非のうちどころのない出来で、見事にその目的にかなっていました。したがって、19世紀の偉大な功績は機械をつくったことにあると言ってよいでしょうね。驚くべき発明の才と技術と忍耐力を発揮してつくりだされた機械類――それがろくでもない間に合わせの品を際限なく製造するのに使われたというわけです。じっさい機械の所有者たちは自分のつくるものを製品とはみなさず、金持ちになるための一手段としてしか見ていなかった。もちろん、品物が役に立つか立たぬかを見分ける唯一の公認の基準は、買い手がつくかどうかでした――その場しだいで、賢い者だろうが、愚か者だろうが、買い手がいるかどうかだったのです」

(略)

「ですがいまはすべてを逆にしてしまわれたようですね」

「まあだいたいは」とかれは言った。「われわれがものをつくるのはそれが必要とされているからです。あたかも自分自身のためにつくるかのように、仲間たちが使うためにつくるのです。まったくなんにも知らない、手のおよばない、漠然とした市場のためにではありません。売り買いはいっさいないので、不足する機会をあてこんで品物をつくろうなどというのは、狂気の沙汰でしかないでしょう。人に無理強いして買わせるようなまねができる人間はもういないのですから。ですから、つくられるものはすべてよいものであり、その目的に完全にかなったものなのです。ほんとうに使うということ以外の目的ではものをつくることはできません。だから粗悪な品物などつくれません。そのうえ、前に申したように、いまのわれわれはなにが必要かがわかっているのです。だから必要なものしかつくりません。そして、大量の無用なものをつくるように駆り立てられていないので、ものをつくる喜びについて考えるだけの十分な時間と材料があるのです。手でおこなうのが退屈な仕事はすべて、大いに改善された機械を使いますし、手でおこなうのが楽しい仕事では、機械はまったく使いません。すべての人の性向にふさわしい仕事をみつけるのは造作もないことなので、他人の要求の犠牲になるような人もいません。ときどき、なんらかの仕事があまりに不快だったり骨が折れるものであるとわかった場合には、われわれはその仕事をあきらめ、その仕事によって生産されるものはまったくなしですませます。(略)」

(略)

「芸術品としてあつかえるものもたっぷりあるので、それだけでも、多くの腕の立つ人たちが仕事を得られるのです。さらに、芸術が無尽蔵であるとすれば、科学もまた同様です。そして、昔とちがって、いまは科学は知的な人が時間を費やすのに値する唯一の無邪気な職業とはみなされてはいないのですが、科学が困難を克服することに興奮を覚え、ほかのなによりも科学に関心があるという人はいまもたくさんいますし、今後もそれは変わらないでしょう。(略)イギリスの植民地であったところとか、とくにアメリカ――とりわけかつて合衆国といわれた地域――は、いまのわれわれには[仕事の]一大宝庫であるし、今後もずっとそうでしょう。そうした国々と、とくに北米諸州は、文明の末期の悪影響をもろに受けたものだから、おそろしく住みにくい場所となってしまい、いまはくらしを楽しくするすべての点で非常に立ち遅れているのです。じっさい、およそ百年間というもの、北米の人びとは悪臭をつくごみだめを徐々に住居に変える作業にあたってきたのです。(略)」

+ + (以上、抜粋引用) + +

どうだろうか。最後のアメリカのくだりは、エコロジー社会(主義)と労働との関係としての、放射能に汚染された福島の真の復興の未来も想起させる。

モリスの「ユートピアだより」は労働だけでなく、暴力装置としての国家や教育が無くなった社会も描いている読み応え十分の小説だ。ただし、記述にはやや肉体美を賞賛する視点もあり、ハンセン病患者への差別ともとれる記述もある。時代の制約といえばそれまでだが、この点は厳しく指摘しておきたい。

日経新聞の「生産性考」の記事の最後を再掲して、ユートピアへ続く長い長い私たちの夢物語の導入としたい。

「後の人々から『革命』と呼ばれるかもしれない時代を私たちは生きている。」
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