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ほの暗い奇妙な総選挙の夜に――チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー 物語ロシア革命』

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「なるほど、ウィアード(奇妙な)フィクションというジャンルがあるのか。たしかに言われてみればタモリの『世にも奇妙な物語』みたいな感じもするわ」と『オクトーバー 物語ロシア革命』の訳者あとがきを読んでやや納得した。

「本書の著者、チャイナ・ミエヴィルは、英国の小説家である。ジャンルを問えば、SF・ファンタジー・ホラーということになるが、本人はまとめて『ウィアード・フィクション』あるいは『ニュー・ウィアード』と呼んでいる。その評価はきわめて高く、作風はじつに独特で、このジャンルからしばしば想像されるような単純明快なものではない。独創的な、饒舌でありながら切れ味鋭い文体で描かれるのは、異質な現実が複綜する奇妙(ウィアード)な世界だ。同一の空間に二重に存在する都市を舞台とした代表作『都市と都市』などは、その好例と言える。決して多作ではないが、発表する小説のほとんどがローカス賞やアーサー・C・クラーク賞など、何かしらその筋では権威のある賞を受賞している。」(訳者あとがき、428頁)

今年の5月にVERSO社から出版されたばかりのチャイナ・ミエヴィル(China Miéville)の『October:The Story of the Russian Revolution』の存在を知ったのは偶然だった。制作をお手伝いしたロシア革命100年シンポジウムのFBページのプロフィール画像に何かぴったりの、しかしありがちなプロレタリア絵画や革命指導者の肖像ではない画像がないか探していた時に、偶然ヒットしたのがVERSO社のサイトにあった『October』の表紙画像だった。ロシア命が西洋と東洋にあたえた影響というのがシンポジウムのコンセプトのひとつでもあったことから、著者名のチャイナ(CHINA)という名前がはいった表紙画像はピッタリだった。

そして著者の名前をググってみると、日本でもこれまでの作品が何冊も翻訳されている。しかもハヤカワSF文庫で?という軽い驚きから、もうすこし著者のことを調べてみると、イギリスの社会主義労働者党(SWP)のメンバーとして2000年代に選挙に出たり、近年ではSWP指導者のセクシャルハラスメント問題などから同党を離れて、ケン・ローチらと活動しているなどの情報を(google翻訳を通じてだが)得ることができた。

またミエヴィルが僕とほぼ同年代であり、かつてはファンタジー・ボードゲームやクトゥル神話などのホラー小説などにも親しみ、それが作品のコンセプトの一部になっているようであること、そして『ゲド戦記』の著者でフェミニストのアーシュラ・K・ルグインからも高い評価を得ていることなどを邦訳作品の訳者解説などで知ったことなども、ミエヴィルの作品に興味を抱く大きな理由となった。

であればさっそく邦訳の作品を探さないわけにはいかない、ということで図書館や書店をまわってみたところ、前出の『都市と都市』をはじめ何冊ものSF物がみつかった。しかしどれをみてみても、ほとんど直接に社会運動に触れた作品はなく、訳者あとがきでもその辺についてはあまり詳しく触れられたものはなかった。ということでとりあえず短編集『ジェイクを探して』(ハヤカワ文庫、2010年、日暮雅通ほか訳)を図書館で借りて挑戦してみた。

「挑戦してみた」というのは、元来小説(とくに翻訳もの)はあまり得意ではなく、ファンタジー物なら『指輪物語』と『ゲド戦記』くらいは若い頃になんとかクリアできたが、SF物となるととてもついていけず、書店でもいつもハヤカワ文庫のコーナーには近寄りもしなかったからだ。

短編集『ジェイクを探して』も(おそらく)他の邦訳の例にもれず、文中から社会運動が感じ取れるものは1~2点の例外を除いてほとんどなく、その作風もロンドンなどの都市を舞台にした現代や近未来のSFというかホラーというか、なんとも形容しがたい作品が中心だった。なので『オクトーバー』の訳者あとがきで「ウィアード(奇妙な)」と紹介されていたことに合点がいったのだ。

『ジェイクを探して』に収録された作品のなかで例外的にストレートにミエヴィルの活動の一端を垣間見ることができるのが「ロンドンにおける“ある出来事”の報告」の冒頭のくだりだ。

「2000年11月27日、わたしの家に大ぶりの封筒が届いた。プロの物書きになってからというもの、受け取る郵便物の量が飛躍的に増えていたので、別に珍しいことではない。その封筒は折り返しが剥され、中が見える状態になっていた。これも珍しいことではない。自分の政治活動のせいで(わたしはある左翼グループの活動家で、社会主義連合から選挙に出たこともある)、いつものように郵便物が検閲されたのだろうと、腹立たしく思いながらも理解したのだった。」
「こんなことを書くのは、実は開封した郵便物がわたし宛てではなかったからだ。わたし、チャイナ・ミエヴィルは、××リー・ロードに住んでいる。だが封筒は、××フォード・ロードの同じ番地に住む、チャールズ・メルヴィル宛てだった。」

このあとに続く「ロンドンにおける“ある出来事”の報告」の記述はもうミエヴィル自身や社会的なものとは無縁となり、それこそ「ウィアード(奇妙な)」という形容詞がぴったりの展開になるのだが、やはりすでに英語で発売されていた『OCTOBER』が気になる。「ハヤカワ、翻訳してくれないかなぁ」と絶望にも似た願望をつぶやいたこともあったが、そのこともすっかり忘れていた9月に入ったころ、筑摩書房から10月に出版されるらしい、という情報がシンポジウム関係者から寄せられた。

そしてついに発売日。書店に入ったばかりの『オクトーバー 物語ロシア革命』を手にしたときの嬉しさといったらなかった。表紙も原書にかなり忠実に再現している。さっそく徹夜で読もうと思ったのだが、体調が不調でいまだ半分しか読めていないが、目次とあわせて簡単な感想を述べたいと思う。

気になる本は、まず前書きやあとがきから読むようにしているのだが、『オクトーバー』の訳者あとがきは、冒頭に紹介した文章に続けてこう書いている。

「ミエヴィルにはもうひとつ、学者・社会活動家としての顔もある。自ら左派であることを公言し、実践的な活動を行ってきた。ケンブリッジを卒業後、ロンドン・スクール・オフ・エコノミクスで国際関係論の博士号を取得しているが、その博士論文“Between Equal Rights”は、国際法をマルクス主義的観点から分析したもので、単行本としても刊行された。」(訳者あとがき、428頁)

目次は次のようになっている。

+ + + + +

『オクトーバー 物語ロシア革命』
チャイナ・ミエヴィル著、松本剛史訳
筑摩書房、2017年10月5日

イントロダクション
1917年前史
二月 歓喜の涙
三月 「~限りにおいて」
四月 蕩児の帰還
五月 協調と雌伏
六月 崩壊の文脈
七月 熱い日々
八月 潜行と謀議
九月 妥協と不満
レッド・オクトーバー
エピローグ 十月以後
謝辞
訳者あとがき
人名録
索引

+ + + + +

まるで「ロシア革命 今月は何の月?」といった感じの目次だが、イントロダクションの「2月、そしてとりわけ10月のことは、自由の政治をどう見るかというプリズムでありつづける」という文言の後に続く次の一句が目に留まる。

「歴史的な書物を書くときには、架空の『客観性』を拒むことがお約束となっている。絶対的に公正無私でいられるような作家などいないし、またそうあろうともすべきでもない。だが私は、独断的、あるいは無批判であるよりも、そのなかの一部でありたいと思う。これから語る物語には、私にとって悪漢と英雄が登場する。ただそれでも、中立だというふりはせずとも、フェアであろうとは努めた。いろいろな政治的思考をもつ読者たちにも、この物語には価値を見いだしてもらえると思う。」(11頁)

これはトロツキーの『ロシア革命史』(1930年)の序文にみられる「歴史家の不偏不党性」に対する告発を彷彿とさせる。

「いわゆる歴史家の『不偏不党性』を持つことが必要であろうか? だが、この不偏不党性とはなんであるかを、まだだれひとり明確に説明したものはいない。」
「革命時代のフランスの反動的な、したがって時流に投じた歴史家のひとりであるL・マデランは、この大革命を客間(サロン)式なやり方で誹謗しながら、『歴史家は、脅威下の都市の城壁のうえにたって、包囲するものとされたものとの両方を、同時に見なければならぬ』と主張した。こうしてはじめて歴史家は、『宥和的正義』を達成することができるようにおもわれる。だが、マデラン自身の言葉は、もし彼が両陣営をわかつ城壁の上によじ登るとしたら、それはただ、反動のための偵察者の資格においてであるということを立証している。彼が過去の交戦陣営とだけ関係していることはよいことである。革命の最中に、城壁の上にたつとしたら、非常な危険を招くことになるであろう。のみならず、危急のさいには『宥和的正義』の坊主たちは、いずれの側が勝利をおさめるかを観望するために、四つの壁の内部に尻を据えているのが通例である。」
「真剣で批判的な読者は、裏切り的な不偏不党は欲しはしないであろう。それは反動的憎悪の毒を底に盛った、懐柔の杯を彼に提供するであろう。彼が望むところは、科学的な良心性なのである。この科学的な良心性は、同情と反感の根拠を事実の真摯な研究、これらの事実の真の関係の決定、これらの運動の因果的法則の暴露のうちにもとめるであろう。これこそ、唯一の可能な歴史的客観主義なのである。」(トロツキー『ロシア革命史』、序文、山西英一訳、角川文庫)

当事者として歴史を描いたトロツキーの筆致に比べると、ミエヴィルのこの記述はもちろん「過去の交戦陣営とだけ関係している」。しかしミエヴィルは決して今年に入って日本でも立て続けに出版されているロシア革命関係の書籍の一部にみられるような『宥和的正義』を述べてはいない。「そのなかの一部でありたい」と願うミエヴィルのいう「中立だというふりはせずとも、フェアであろうとは努めた」とは、トロツキーのいうところの「科学的な良心性」とほぼ同義だとおもっていいだろう。りっぱな立場表明である。

さて具体的な中身だが、それはぜひとも手にとって読んでみてほしいのだが、ざっくりというと、当初、著者のこれまでの作品や邦訳書名から連想していたような「物語」とはやや予想がちがった。既訳の作品のいくつかに見られるミエヴィル独特の一人称の記述から、だれか一人を主人公にした物語風の内容を想像していたが、むしろトロツキーの『ロシア革命史』をぎゅっと凝縮したような印象。「イントロダクション」につづく「1917年前史」も、『ロシア革命史』の冒頭の数章をぎゅっと圧縮したような感じがしないでもない。

ただ、『ロシア革命史』のすばらしい特徴でもあるマルクス主義理論に裏打ちされた記述はほとんど見られないし、トロツキーが『ロシア革命史』の第二・三巻の序言で「芸術家ならびに歴史家の任務である」と述べた「生活関係に深く根差した皮肉」もそれほど目立たない。また非常に多くの登場人物と政治的傾向の組織が登場し、それぞれの政治的ポジションの予備知識がないと記述されている事態が読み込めない箇所もあるかもしれない。翻訳の点では、イスパルコム(=ペトログラード・ソヴィエト執行委員会)やジョージア(=グルジア)などの気になる点もないわけではない。とはいえ、(少なくともぼくが読んだ)ミエヴィルの既訳SF作品のような「ウィアード感」は感じられないので(前線の描写に若干そのような箇所もあるか)、僕にとっては読みやすい文体となっている。

また彼のSF作品に特徴的な都市を舞台にしたという点で言えば、ロシア革命はまさに都市を中心とした革命であり、前述の『ロシア革命史』の序文にあった「脅威下の都市の城壁の上にたつ」のではなく、まさに都市における闘争の真っただ中にあった人々を描いているという点でいえば、従来の都市を舞台としたミエヴィルのスタイルと変わるところがないと言えなくもない。いまふと頭に浮かんだことだが、前述の訳者あとがきにある「同一の空間に二重に存在する都市を舞台とした代表作」の『都市と都市』とは、ペトログラードの臨時政府とソヴィエトという二重権力を暗喩したのではないか、と読んでもいないのに妄想が膨らむ。

それに加えて、まだ「六月 崩壊の文脈」までしか読んではいないのだが、日本で最近出版されているような「2月革命は民主主義革命ですばらしかったが10月の破局に向けてどんどんひどくなっていった」といったような展開ではなく、民衆の火焔に焼け出された立憲民主派、農民党、社会主義者はもちろん、ボルシェビキの中ですら動揺と混乱があったことも率直に描いていることがお勧めの理由の一つでもある。

ロシア革命100年の機会に本棚に置いておきたい一冊と言える。

これほど推奨するのは、じつは最終章の「エピローグ 10月以後」も先に読んでしまっていたからでもある。10月革命以降の厳しい内戦期間や後のスターリン体制にも言及されているし、いくつかの点では違った選択肢があったのではないかという提示もしているが、事後の高みから当時の選択を非難するのではない、極めて「フェア」な記述となっている。

しかし「エピローグ」を読んで何よりも感心したのは、冒頭の「イントロダクション」で1917年の一周年を祝った詩人オシップ・マンデリシュタームの詩に使われている「自由のほの暗い明かり」を紹介したあとに続けて、

「その地平線上の輝きは、もはや夕暮れでも突然の夜明けでもなく、長く引き伸ばされた、本質的な両義性である。……これはたしかにロシアの革命だったが、他の国のものであったし、今もそれは変わらない。これは我々のものでもありうる。(ヴァージニア・ウルフがロシアについて述べたところの、ロシアでは「文章は最良の終わらせ方が疑わしいために、しばしば終わらないまま残される」という表現に逆らって)その文章がまだ終わっていないのなら、終わらせるのは我々の役目だ。」(13頁)

と述べているのだが、「エピローグ」の最後で、「1917年の革命は、列車の革命だ」と表現し、ボリシェビキやアナーキストら革命家を、うっそうとした広大なロシアの森林を走る機関車の進む線路の切り替えポイントを操作する転轍手(スイッチマン)になぞらえて、「歴史の機関車の進む道には怪しく違法な側線がある」と述べて次のようにこの物語を閉じていることである。

「革命家たちは本線からその路線へと列車を向かわせ、登録されない禁制の荷を積み、規定量を無視して、地平線へ向けて邁進する。はるか遠くの縁へと向かいながら、それでもぐんぐん近づいていく。あるいは、解放された列車からはそう見える。自由のほの暗い明かりのなかでは。」(425頁)

「イントロダクション」と「エピローグ」を合わせて読めば、ミエヴィルのいう「文章を終わらせる」というのが、「ロシア革命によって切り開かれた歴史的展望」という文章を終わらせる歴史修正主義的な試みではなく、自由のほの暗い明かりのなかで人類の歴史(つまり階級闘争の歴史)の線路を、いまだ見えない新たな側線へ切り替える転轍手の仕事を指しているのだと、ほの暗い100年後の奇妙な総選挙の月夜の明かりのもとで、そう感じずにはいられない。

訳者と編集者、そして何よりも著者の見事な仕事に感謝。


追記

「六月 崩壊の文脈」までを読んで書いたこの文章を、ウェブサイトにアップする前に時間があったので、次章「七月 熱い日々」以降の期間と重なるトロツキーの『ロシア革命史』第二巻(山西英一訳、角川文庫)をぱらぱらと読んでいたら、冒頭の「第二・三巻への序言」にこんな記述があった。

「第二巻と第三巻は、ボルシェビキの政権掌握にささげられている。ここでもまた、根本は物語である。」
「科学的客観主義の証左は、歴史家の色眼鏡や声色にもとめるべきではなくて、物語自体の内的ロジックにもとめるべきである。」
「本書の著者(トロツキー:引用者)は本書が十月革命の不可避性とその勝利の原因を実際に闡明している程度において、客観主義に忠実であったのである。」

ミエヴィルが本書のサブタイトルに用いた「物語(Story)」の奇妙な意味がつながった気がした。

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