陛下の国会とわれわれの議会、そして古儀式派

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安倍首相が国会の開会冒頭で衆院を解散するという。森友や加計、あるいは真剣に解決しなければならない国内外の課題を投げ出して、党利党略の保身のためだけの解散。それにあわせてチャンスをうかがう小池・ネオリベ新党など、これが日本資本主義の立憲主義の現状だ。主権在民に基づいた人民議会の必要性はそれほど突飛なことではない。

東京新聞は、天皇の国事行為を定めた憲法第七条の「第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。……衆議院を解散すること。」が首相の解散権の根拠になるのか、という疑問を呈している。

天皇好きの東京新聞なので、そもそも第八条までのいわゆる天皇条項そのものが不要だということにはならないようだが、かりに天皇制が廃止され、これらの天皇条項がなければ、これら国事行為は、首相あるいは担当大臣や国会議長の専権事項にすればいいし、またはそもそも必要ない国事行為もあろう。

その際には、より厳しく首相の解散権を第六九条の「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」という条件に合致した場合にだけ限定するなど、議会の任期を現在よりも固定的なものにする法律の立法化なども想定できる。もちろんこれは天皇制が存続していても可能だが、時代遅れで反人権的な天皇制は廃止するに越したことはない。

実際、天皇制とおなじように反動的な身分制度である帝政により授けられた議会制度がどれほど脆く、主権在民に反するのかを示してくれた歴史的事例がある。

1905年1月の「血の日曜日」を発端として勃発したロシア第一次革命のさなかの8月に皇帝ニコライ2世によってガス抜き的に設置が宣言された第一次国会(ドゥーマ)がそれである。

農奴をさらに貧困に追いやった1861年の「農奴解放」や、社会的な動揺と革命運動に対する徹底した弾圧、そしてより直接的には日露戦争に対する嫌戦ムードなどを背景にして、皇帝ニコライ2世への請願に対する血の弾圧を契機に、1905年春以降、都市部における労働者の総罷業(ゼネラルストライキ)や農村部における過酷な騒擾、そして軍隊内部での反乱などが展開され、ニコライはついに国会の召集の宣言、ペトログラードをはじめロシア全土の都市部を嵐のようにかけぬけた「十月ストライキ」の断固たるこぶしの前に、ニコライは憲法制定の宣言を迫られることになった。

しかし十月ストライキをたたかったペトログラードの労働者たちは、翌年に予定されていた国会にほとんど期待をかけていなかった。労働者たちの予想は当たった。後日談になるがロシア第一次革命が敗北したのちの1906年3月に実施された第一次国会の選挙ではブルジョア民主派が大勝した。ニコライは大臣任命や議会解散などの権限を自らに集中する憲法を発布し、第一次国会の議会制民主主義を事実上否定し、かつブルジョア民主派を気にいらないニコライはすぐに第一次国会を解散する。

いっぽう労働者はといえば、十月ストライキの嵐の中、欽定の国会ではない、べつの権力機関を鉄火のなかから創造しつつあった。

それこそが労働者代表ソビエトである。

このソビエトの成立について、トロツキーは『ロシア革命史』のなかで1905年と1917年の違いについて次のように述べている。

+ +(以下、引用)+ +

(1917年)2月27日、ダウリーダ宮において創立され、「労働者代表ソビエト執行委員会」と称された組織は、その名が示すものとは、まるでちがったものであった。この制度のそもそもの嚆矢である1905年の労働者代表ソビエトは、総罷業からうまれたのであった。それは、闘争中の代表を直接代表していた。そして、ストライキの指導者がソビエト代表となった。代表の選出は、鉄火のもとでおこなわれた。ソビエトはさらに闘争をつづけるために、執行委員会を選出した。そして、この執行委員会が武装蜂起を日程にのせたのである。

(1917年)2月革命は軍隊の暴動のおかげで、労働者がまだソビエトを創造しないさきに勝利を獲得した。執行委員会は、革命の勝利後、ソビエトよりも先に、工場や兵営から独立して、委員自身によって結成された。われわれは革命的闘争は回避しながら、一方その成果は争ってつかもうとする急進主義者たちの典型的イニシアチブをここに見るのである。

(『ロシア革命史』(1)、山西英一訳、角川文庫、298頁)

+ + (以上、引用) + +

ということで、一般的には1917年の革命と結び付けられることの多い評議会(ソビエト)ですが、どうやら1905年革命のさいのソビエトを見たほうがよさそうである。ということで以下は『1905年』(トロツキー、原暉之訳、現代思潮社)の「ソビエトの成立」の章と「総括」の章からの抜き書き。

+ + + + +



『1905年』

「ソビエトの成立」


(略)

ソビエトとはいったい何であったか。

ソビエトは事件の進展によって生み出された客観的要求、すなわち、伝統もないのに権威があり、組織的拘束がほとんどないのに数十万の分散した大衆をただちに把握しようと思えばできるような組織が必要だという要求、そしてまた、プロレタリアート内部の革命的諸潮流を結集し、イニシャティヴを発揮する能力と自分自身を自動制御する力を持ち、そしてこれが肝心なのだが、24時間以内に力か呼び出すことができるようなそういう組織が必要だという要求にこたえるものとして成立したのである。

(略)

一方では社会民主党内の等しく強力な両分派間の摩擦、他方ではエスエルに対するこれらの両分派の抗争という事情があったため、無党派の組織をつくることは絶対に必要であった。この組織は、結成の翌日から大衆の眼に権威あるものとして映るためには、もっとも広範な代表制の原則の上に組織されねばならなかった。何を基盤とすべきか。答えは自明であった。組織の点で処女[ママ]であるプロレタリア大衆を結びつけている唯一の紐帯は生産過程である。だから代表制は工場に合致させるほかなかった(原注)。最高法院判事シドロフスキーの委員会が組織を作るための先例として役立った[訳注]。

(原注)
代議員は労働者500人につき一名の割合で選出された。小さな工場は集まってグループを作り、そこで選挙を行った。生まれて間もない労働組合代表も代表権を得た。ただし代表比率の基準はそれほど厳密に遵守されなかったと言わねばならない。100人ないし200人、あるいはそれよりも少ない労働者から代議員が送られたこともあった。

[訳注]
シドロフスキー委員会 1905年1月29日、「ペテルブルグとその近郊の労働者の不満の原因を緊急に明らかにし、将来かかることなきよう対策を検討するため」、最高法院判事シドロフスキーを長として設置された委員会。これは、ズバートフ運動に代表される内務省系の労働者対策が「血の日曜日」で破たんしたのち、労働行政へのいわば運営参加の方式として打ち出された。官・労・資の三者協議会である。労働者代表の選出方式は二段階で、前半段階で労働者は各工場から選挙人を占拠し、後半段階で選挙人は各業種別に代表を選挙するとされた。選挙人の代表比率は100-500人の工場から1名、500-1000人の工場から2名等々と定められた。[1905年]2月18日、選挙人集会の要求が政府に拒否されたため、選挙人はストを呼びかけ、シドロフスキー委員会は機能せずに瓦解した。しかし生産拠点に根を持った全市的代表機関という構想は生き続ける。シドロフスキー委員会はソビエトの原型となることによって、政府の意図に反して、反対物に転化したわけである。

(略)

「総括」

ペテルブルグ・ソビエトの歴史、それは50日間の歴史である。ソビエト創設の会合が開催されたのが[1905年]10月13日、ソビエトの会議が政府の軍隊によって中断されたのが12月3日である。

第一回の会議には数十人が出席した。11月後半までには、代議員の数は562名(うち6名は女性)に達した。彼らは147の各種工場、34の作業所、16の労働組合を代表していた。代議員の中心部分をなす351名は金属労働者に属していた。彼らはソビエトの中で決定的な役割を演じた。繊維産業からは57名、印刷業・製糸業からは32名、商業従業員からは12名、事務員・薬剤師からは7名の代議員が送られていた。

ソビエトの内閣にあたるものは執行委員会であった。執行委員会は10月17日に結成され、代議員22名と政党代表9名(社会民主党の両分派から6、エスエルから3)との合計31名で構成されていた。

(略)

ソビエトは労働者大衆を組織した。政治ストとデモを指導した。労働者を武装させた。住民をポグロムから防衛した。……ソビエトの影響力の秘密は、それが、事件の過程全体に条件づけられた権力獲得をめざす闘争という直接的闘争の中で、プロレタリアートの自然発生的な機関として成長したという点にある。……ソビエトはプロレタリアートの組織であり、その目的は革命的権力獲得のための闘争であった。

(略)

ソビエトの主要な闘争形態は政治的ゼネラルストライキであった。このストライキの革命的な意義は、それが資本の頭上をこえて国家権力を解体する点にある。ストライキはそれがもたらす「無政府状態」が大きく全面的あればあるほど、それだけ勝利に近づく。とはいえ、このことが打倒するのは、この「無政府状態」が無政府主義的手段によってつくりだされたのではない場合に限られるものであるが。

(略)

ソビエトはストライキの圧力を通じて出版の自由を実現した。市民の安全を保障するために正規の街頭パトロールを組織した。郵便・電信・鉄道を多少なりとも掌握した。権威をもって労資間の経済的争議に介入した。直接の革命的圧力によって八時間労働日の制定を試みた。ストに決起することによって専制国家の活動を麻痺させながら、都市勤労住民の生活の中にソビエト固有の民主主義的秩序をもたらしたのである。

(略)

近代ロシア史上はじめて、民主主義的な権力がソビエトという形をとってわれわれの前に搭乗したのである。ソビエトは大衆の個別の各部分の上に組織された、大衆自身の権力である。それは、にせものでない、真の民主主義であり、二院制も、職業的官僚制ももたない。そして有権者は随時に代議員をリコールする権利をもっている。ソビエトはそのメンバーを通じて、すなわち労働者に選出された代議員を通じて、直接に全体としてのプロレタリアート…を指導し、彼らの決起行動を組織し、彼らにスローガンと旗を与える。

(以下、略)


+ + (以上、引用) + +

ながながと、この最初の労働者代表ソビエトのことを引用したのは、さいきんソビエトの起源はロシア正教の異端派の「古儀式派」の会合にあり、帝政から抑圧されていたこの古儀式派がボリシェビキの中にも浸透しており、レーニンは古儀式派の社会倫理観を反映したスローガンをつかって農民を味方につけたといった主張を目にしたからだ。

歴史を動かした異端派、ロシア革命100年:青木睦・論説委員が聞く(東京新聞2017年9月23日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2017092302000199.html

この背景を丹念に研究した下斗米伸夫教授の『ロシアとソ連 歴史に消された者たち-古儀式派が変えた超大国の歴史』はまだ未読だがが、そんなこともあるのか~程度にしかとらえていませんでしたが、ちょっと本腰をいれて読む必要があるのかもしれない。

ただウィキ情報で恐縮だが、おなじくボリシェビキの優れた活動家であるクループスカヤは「特に古儀式派に対しては厳しい態度をとっており『富農階級との闘争とはすなわち古儀式派との闘争である』というテーゼを打ち出した」とある。もちろん革命後のことと思われるが、ロシア革命におけるソビエトの役割を考える上では、古儀式派よりも、トロツキーのいうようなプロレタリアートの権力闘争機関としてとらえる方が重要だろう。

ロシア革命と議会との関係でいえば、もちろん1917年10月革命後に、ボリシェビキと左派エスエルの連立政権が、憲法制定議会を解散したということが真っ先に想起されるだろう。だがこれもまた、労働者代表ソビエトというプロレタリアートの権力機関のいっそうの民主化こそが、ロシア革命の総括点として提起されるべきであるし、そもそもなぜカデット、エスエル、メンシェビキらが労働者や兵士らが期待をかけたソビエトの中で少数派となっていったのかという点を振り返るだけで、憲法制定議会を擁護する主張の滑稽さが浮き彫りになりはしないだろうか。

かくいう僕も、そろそろ運動では古儀式派の部類に入ってきているようだ。クループスカヤの警告を傾聴しよう。
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