
ちょうど今読んでいた『世界の貧困をなくすための50の質問 途上国債務と私たち』にも登場していた。
「1985年7月、ペルーの新大統領アラン・ガルシアは債務返済額を輸出収入の10%に制限することを決定しました。このため、ペルーはIMFと世界銀行の手によって国際社会から追放されてしまいました。米国が裏で糸を引いて、ペルーを孤立させ、不安定にさせました。実験は数ヶ月しか続かず、未払い金に対する利息(50億ドルあまりと見られる)はそのまま債務残高に加えられました(利子の元本組み入れ)。」(同書160-161頁)
ペルーのことは何も知らない僕は「ふーん、なかなかやるじゃないの」と思ったのだが・・・・・・。
新聞報道(東京新聞6月5日付夕刊)でも「伝統政党、アメリカ革命人民同盟を率いるガルシア氏は1985年に36歳の若さで大統領に就任。銀行を国有化したほか対外債務の支払いを拒否し、年間7000%のハイパーインフレを招いて経済を破綻させた」ともあったので、ちょっと期待してみた。
しかしこの期待は、後に続く「ガルシア氏は当時の政策の誤りを率直に認め、自由主義経済の堅持など、より穏健な路線を主張」という評価で雲行きが怪しくなる。そして決選投票でガルシア氏に敗北したオヤンタ・ウマラ候補がベネズエラの反米左翼政権チャベス大統領の支持を受けたが「豊富な地下資源を開発する外国企業への増税や、米国との自由貿易協定(FTA)見直しなど左派的な政策が保守層に嫌われた」というコメントを読んで、ガルシア氏の立場がなんとなく分かった気がした。
しかし、かつては債務支払いを敢然と拒否したのではなかったのか? 『50の質問』でも紹介されていたではないか。とそのとき本棚でほこりをかぶった『債務ブーメラン 第三世界債務は地球を脅かす』(朝日選書)という本が目に入った。Attacフランスの副代表をつとめるスーザンジョージさんの本だ。これになにか書いているだろうかと取り出してみると、あったあった。
「ペルーのIMFへの償還は、84年の1億4400万ドルから87年および88年にはわずか100万ドルに減少した。アラン・ガルシアが大統領になった後、IMFはペルーを『パーリア(最下層)』リストに載せて、この政府は融資に不適格であると、他の融資機関に警告を発したのである。ペルーは五年の間、国際金融界から締め出しをくった。」(同書83頁)
うーん、いちおうIMFに逆らったんだよな。もうすこし読み進めてみる。
「ペルーは、ラテンアメリカのどの国よりも数年早く深刻な債務危機に陥った」。「ここでも将軍たち〈軍事政権:引用者〉が主犯である。彼らは1960年代末から70年代にかけて、山なす債務を累積した。・・・・・・政府歳入の40%を軍事費に使った。・・・・・・埋蔵量の豊な銅と石油の備蓄があるために、外国の金融機関はペルーが気に入っていた。彼らはペルー政府に潤沢に資金を貸し付けたので、債務残高は68年から74年の間に3倍になった。」(同書94頁)
なるほど。確かに『50の質問』にも民間金融機関は、鉱山資源などのある国に好んで貸付を行った、と解説があったが、このことか。
スーザンジョージによるペルーの続きをみてみよう。
「ペルーの国際収支は1970年代を通して悪化した。・・・・・・78年には・・・IMFとの『緊縮』協定に調印するほかに選択肢はなかった。こうした動きは、他の国におけるIMFの処方箋と同じく、この国によい結果をもたらさなかった。輸出収入は急降下を続け、80年から83年にかけて25%落ち込んだ。しかし利払いは続き、ペルーの乏しいハード・カレンシー〈ここでは外貨、ドルと考えてください:引用者〉所得の半分近くが吸い取られた。IMFの指示は、債権者〈外国の民間金融機関など:引用者〉への支払いができるように経済を編成しなおす点にある。」(同書95頁)
これも『50の質問』でもさんざん言われてた。
さあ、いよいよガルシアの登場だ。
「アラン・ガルシアは、1985年の大統領選挙で38歳の若さで当選を勝ちとった。ガルシアの前任者ベラウンデ・テリーが80年に就任したとき、対外債務は70億ドルをすこし越える水準にあった。ベラウンデはそれを倍増し、160億ドルの負担と取り組む仕事をガルシアに引き継いだ。そのうえベラウンデは任期の最後の年に利払いを事実上停止していたので、ガルシアは10億ドルの返済遅延問題を押し付けられてもいた。」(同書95頁)
なるほど、そんなに大変な時期に政治を引き継いだんだ、と同情するまもなく、スーザンジョージのもの言いはとげとげしくなっていく。
「ガルシアは、山なす債務を処理するための戦略を採用した。それは振り返ってみると、勇敢だが信じられないほど愚かしいとしか記述できないものである。良識的どころか、むしろ虚勢を見せながら、彼は腐心して世界の最悪の部分のすべてを持ち込んでしまった。」(同書95頁)
「彼の最初の行動は、ペルーの利払いを輸出収入の10%以内に制限することを全世界に宣言したことであった。・・・・・・IMFはすぐさま延滞分を支払うよう最後通牒をつきつけた。ガルシアはこれを拒否した。彼が大統領に就任してまだ一年にならない1986年8月15日、IMFはペルーが将来の融資対象国として『不適格』であると宣言した。これは国際金融界における死の接吻を意味する。一国が『不適格』――パーリア〈最下層〉――リストに載せられると、世界銀行や米州開発銀行のような公的金融機関が自動的に行動をともにするだけでなく、民間銀行もまた歩調をそろえてあたるようようになる。」(同書95頁)
それは大変だ。しかも実際にはガルシアの「10%制限」は守られていなかった。85年は55%、86年は51%、87年は30%、88年は23.5%という水準であった。(同書97頁の表2-3より)
投資は来ないわ、債務は返済するわで、ついに1987年には外貨準備が枯渇。現金の必要に迫られたガルシアは銀行と保険会社を国有化した。
「手を触れてはならない銀行に触れようとして右翼勢力を、帝国主義国の債権者をあまりに多くを支払って民衆に対する選挙公約を破ることによって左翼勢力を、そして国際金融界に対する公然たる挑戦によって外国人を、それぞれ激怒させてしまったのである。・・・・・・1988年には鉱山労働者がストライキを決行した。・・・・・・12月には、幸運にもまだ仕事を持っていた数少ない人びとは、最低賃金が実質的に一年前の半分の値打ちしかないことを知った。89年にはインフレーションは2722%に達し」ていた。(同書97%)
当時のペルー大統領は一期五年しか勤められなかったので、ガルシアは任期終了。つぎの1990年の選挙で当選したのが、アルベルト・フジモリ。
「フジモリ氏は『ショックを与えない』ことを約束した政治綱領をかかげて勝利した。しかし選挙直後に、彼は外圧もないのに過激なIMF型のショック療法計画を開始し、新規融資を要請した。・・・・・・石油・ガソリンの30倍(3000%)もの引き上げ、・・・・・・公衆システムの崩壊」(同書98頁)などがもたらされた。
「1990年9月に開催された世界銀行・IMF合同年次総会で、・・・・・・IMFの専務理事ミカエル・カムドシュは・・・・・・ペルー国民に向けて、『諸君は何をなすべきか、なすべきではないかを明確に示した。私たちは諸君を支援できるし、その用意がある』との声明を出した。しかしそれは、ペルーがIMFに8億ドル、世界銀行に10億ドルの債務を償還するまではお預けである。この返済のためには、より多くのコカイン生産に励まなければならない」(同書99頁)
IMFの支援(本当は債務の永続化プロジェクトなのだが)はつねにIMFの経済政策をしっかりと履行できるまで「お預け」状態なのだ。そしてペルーではその経済政策を実行したり債務を返済するためのドルを入手するためにコカインの生産が継続するという。
「ボリビアでもペルーでも、IMFの『調整』政策が成功するかどうかは、コカ産業の成功にかかっている。それだけが、雇用とハード・カレンシー所得の「クッション」を提供できるからである。・・・・・・麻薬経済の重要性の増大は、合法的経済の衰退と直接に比例している。債務返済についての国際金融『界』からの圧力は、問題を悪化させるばかりである。だが貧困と麻薬との間の関連にIMFはどう対処するのかとの質問を受けたとき、IMFのスポークスマンは、『私たちはラテンアメリカの貧困をそのような見地から考えたことはありません』と答えている。」(同書101頁)
ガルシアは92年にフジモリに在職中の汚職疑惑を追及され、亡命した。フジモリも在任中の日本滞在時に日本に亡命。後任のトレド大統領に汚職や殺人の疑惑で津給されている。ガルシアはフジモリ失脚後の2001年にペルーへ帰国して政治活動を再開していたという。ガルシア-フジモリ-トレドと、ペルーでは新自由主義グローバリゼーション政策が進められてきた。それがペルーにもたらしたものは、債務の増加、貧困の拡大だった。
いまガルシアは「自由主義経済を堅持」する政治を行うという。新自由主義政策、それは債務の永続化であることは、『50の質問』でも繰り返し批判されている。いまこそこの悪循環を断つときではないか、債務返済停止を高らかに宣言すべきときではないのか。そして、債務拒否のたたかいは、ペルー一国の民衆だけに押し付けられてはならないだろう。新自由主義政策をとり続けたフジモリ政権を支えてきた日本政府と日本企業の責任は重い。ペルー債務を帳消しに。フジモリに裁きを。そしてペルー民衆とともに。
14名の仲間たちを偲んで
参考
『世界の貧困をなくすための50の質問 途上国債務と私たち』(D・ミレー、E・トゥーサン著/大倉純子 訳/柘植書房新社)
『債務ブーメラン 第三世界債務は地球を脅かす』(スーザン・ジョージ著/佐々木建・毛利良一 訳/朝日新聞社)
しかしこの期待は、後に続く「ガルシア氏は当時の政策の誤りを率直に認め、自由主義経済の堅持など、より穏健な路線を主張」という評価で雲行きが怪しくなる。そして決選投票でガルシア氏に敗北したオヤンタ・ウマラ候補がベネズエラの反米左翼政権チャベス大統領の支持を受けたが「豊富な地下資源を開発する外国企業への増税や、米国との自由貿易協定(FTA)見直しなど左派的な政策が保守層に嫌われた」というコメントを読んで、ガルシア氏の立場がなんとなく分かった気がした。
しかし、かつては債務支払いを敢然と拒否したのではなかったのか? 『50の質問』でも紹介されていたではないか。とそのとき本棚でほこりをかぶった『債務ブーメラン 第三世界債務は地球を脅かす』(朝日選書)という本が目に入った。Attacフランスの副代表をつとめるスーザンジョージさんの本だ。これになにか書いているだろうかと取り出してみると、あったあった。
「ペルーのIMFへの償還は、84年の1億4400万ドルから87年および88年にはわずか100万ドルに減少した。アラン・ガルシアが大統領になった後、IMFはペルーを『パーリア(最下層)』リストに載せて、この政府は融資に不適格であると、他の融資機関に警告を発したのである。ペルーは五年の間、国際金融界から締め出しをくった。」(同書83頁)
うーん、いちおうIMFに逆らったんだよな。もうすこし読み進めてみる。
「ペルーは、ラテンアメリカのどの国よりも数年早く深刻な債務危機に陥った」。「ここでも将軍たち〈軍事政権:引用者〉が主犯である。彼らは1960年代末から70年代にかけて、山なす債務を累積した。・・・・・・政府歳入の40%を軍事費に使った。・・・・・・埋蔵量の豊な銅と石油の備蓄があるために、外国の金融機関はペルーが気に入っていた。彼らはペルー政府に潤沢に資金を貸し付けたので、債務残高は68年から74年の間に3倍になった。」(同書94頁)
なるほど。確かに『50の質問』にも民間金融機関は、鉱山資源などのある国に好んで貸付を行った、と解説があったが、このことか。
スーザンジョージによるペルーの続きをみてみよう。
「ペルーの国際収支は1970年代を通して悪化した。・・・・・・78年には・・・IMFとの『緊縮』協定に調印するほかに選択肢はなかった。こうした動きは、他の国におけるIMFの処方箋と同じく、この国によい結果をもたらさなかった。輸出収入は急降下を続け、80年から83年にかけて25%落ち込んだ。しかし利払いは続き、ペルーの乏しいハード・カレンシー〈ここでは外貨、ドルと考えてください:引用者〉所得の半分近くが吸い取られた。IMFの指示は、債権者〈外国の民間金融機関など:引用者〉への支払いができるように経済を編成しなおす点にある。」(同書95頁)
これも『50の質問』でもさんざん言われてた。
さあ、いよいよガルシアの登場だ。
「アラン・ガルシアは、1985年の大統領選挙で38歳の若さで当選を勝ちとった。ガルシアの前任者ベラウンデ・テリーが80年に就任したとき、対外債務は70億ドルをすこし越える水準にあった。ベラウンデはそれを倍増し、160億ドルの負担と取り組む仕事をガルシアに引き継いだ。そのうえベラウンデは任期の最後の年に利払いを事実上停止していたので、ガルシアは10億ドルの返済遅延問題を押し付けられてもいた。」(同書95頁)
なるほど、そんなに大変な時期に政治を引き継いだんだ、と同情するまもなく、スーザンジョージのもの言いはとげとげしくなっていく。
「ガルシアは、山なす債務を処理するための戦略を採用した。それは振り返ってみると、勇敢だが信じられないほど愚かしいとしか記述できないものである。良識的どころか、むしろ虚勢を見せながら、彼は腐心して世界の最悪の部分のすべてを持ち込んでしまった。」(同書95頁)
「彼の最初の行動は、ペルーの利払いを輸出収入の10%以内に制限することを全世界に宣言したことであった。・・・・・・IMFはすぐさま延滞分を支払うよう最後通牒をつきつけた。ガルシアはこれを拒否した。彼が大統領に就任してまだ一年にならない1986年8月15日、IMFはペルーが将来の融資対象国として『不適格』であると宣言した。これは国際金融界における死の接吻を意味する。一国が『不適格』――パーリア〈最下層〉――リストに載せられると、世界銀行や米州開発銀行のような公的金融機関が自動的に行動をともにするだけでなく、民間銀行もまた歩調をそろえてあたるようようになる。」(同書95頁)
それは大変だ。しかも実際にはガルシアの「10%制限」は守られていなかった。85年は55%、86年は51%、87年は30%、88年は23.5%という水準であった。(同書97頁の表2-3より)
投資は来ないわ、債務は返済するわで、ついに1987年には外貨準備が枯渇。現金の必要に迫られたガルシアは銀行と保険会社を国有化した。
「手を触れてはならない銀行に触れようとして右翼勢力を、帝国主義国の債権者をあまりに多くを支払って民衆に対する選挙公約を破ることによって左翼勢力を、そして国際金融界に対する公然たる挑戦によって外国人を、それぞれ激怒させてしまったのである。・・・・・・1988年には鉱山労働者がストライキを決行した。・・・・・・12月には、幸運にもまだ仕事を持っていた数少ない人びとは、最低賃金が実質的に一年前の半分の値打ちしかないことを知った。89年にはインフレーションは2722%に達し」ていた。(同書97%)
当時のペルー大統領は一期五年しか勤められなかったので、ガルシアは任期終了。つぎの1990年の選挙で当選したのが、アルベルト・フジモリ。
「フジモリ氏は『ショックを与えない』ことを約束した政治綱領をかかげて勝利した。しかし選挙直後に、彼は外圧もないのに過激なIMF型のショック療法計画を開始し、新規融資を要請した。・・・・・・石油・ガソリンの30倍(3000%)もの引き上げ、・・・・・・公衆システムの崩壊」(同書98頁)などがもたらされた。
「1990年9月に開催された世界銀行・IMF合同年次総会で、・・・・・・IMFの専務理事ミカエル・カムドシュは・・・・・・ペルー国民に向けて、『諸君は何をなすべきか、なすべきではないかを明確に示した。私たちは諸君を支援できるし、その用意がある』との声明を出した。しかしそれは、ペルーがIMFに8億ドル、世界銀行に10億ドルの債務を償還するまではお預けである。この返済のためには、より多くのコカイン生産に励まなければならない」(同書99頁)
IMFの支援(本当は債務の永続化プロジェクトなのだが)はつねにIMFの経済政策をしっかりと履行できるまで「お預け」状態なのだ。そしてペルーではその経済政策を実行したり債務を返済するためのドルを入手するためにコカインの生産が継続するという。
「ボリビアでもペルーでも、IMFの『調整』政策が成功するかどうかは、コカ産業の成功にかかっている。それだけが、雇用とハード・カレンシー所得の「クッション」を提供できるからである。・・・・・・麻薬経済の重要性の増大は、合法的経済の衰退と直接に比例している。債務返済についての国際金融『界』からの圧力は、問題を悪化させるばかりである。だが貧困と麻薬との間の関連にIMFはどう対処するのかとの質問を受けたとき、IMFのスポークスマンは、『私たちはラテンアメリカの貧困をそのような見地から考えたことはありません』と答えている。」(同書101頁)
ガルシアは92年にフジモリに在職中の汚職疑惑を追及され、亡命した。フジモリも在任中の日本滞在時に日本に亡命。後任のトレド大統領に汚職や殺人の疑惑で津給されている。ガルシアはフジモリ失脚後の2001年にペルーへ帰国して政治活動を再開していたという。ガルシア-フジモリ-トレドと、ペルーでは新自由主義グローバリゼーション政策が進められてきた。それがペルーにもたらしたものは、債務の増加、貧困の拡大だった。
いまガルシアは「自由主義経済を堅持」する政治を行うという。新自由主義政策、それは債務の永続化であることは、『50の質問』でも繰り返し批判されている。いまこそこの悪循環を断つときではないか、債務返済停止を高らかに宣言すべきときではないのか。そして、債務拒否のたたかいは、ペルー一国の民衆だけに押し付けられてはならないだろう。新自由主義政策をとり続けたフジモリ政権を支えてきた日本政府と日本企業の責任は重い。ペルー債務を帳消しに。フジモリに裁きを。そしてペルー民衆とともに。
14名の仲間たちを偲んで
参考
『世界の貧困をなくすための50の質問 途上国債務と私たち』(D・ミレー、E・トゥーサン著/大倉純子 訳/柘植書房新社)
『債務ブーメラン 第三世界債務は地球を脅かす』(スーザン・ジョージ著/佐々木建・毛利良一 訳/朝日新聞社)
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