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『香港三年』 : 香港民主化の30年との時空を超えた対話

昨年6月に『香港三年』という本が香港で出版された。ウェブメディア「端傳媒」が雨傘運動にかかわった当事者たちに取材をした記事をまとめたもの。『香港雨傘運動 プロレタリア民主派の政治論集』の著者、區龍宇さんも登場している。誰か日本でも翻訳出版しないかな~。以下は、『香港三年』の新刊イベントを報じた端傳媒の記事の超訳です。原文はこちら

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『香港三年』:香港民主化の30年との時空を超えた対話
端傳媒 何錦源 2016-07-27


香港三年とは何か? 『香港三年』という書名を見た読者は、最初にこの疑問を思い浮かべるかもしれない。

端傳媒とオックスフォード大学出版社は2016年7月に報道集『香港三年』を出版した。香港研究者の羅永生によれば、「非常に特別な方法で編集された現在進行形の歴史である」。特別の一つ目は、まず「三年」を一区切りとしたことであり、また同じ本の中で「三年」と「三十年」を並立させ、時代を跨いだ対話の構築を試みたところにある。

三年とは、この本の編集者に言わせると、戴耀廷が非暴力不服従のオキュパイを提唱したときから旺角の暴力騒乱までの三年のあいだに起こった出来事となる。

2013年1月16日、香港大学法律学部の戴耀廷副教授は「信報」紙で「市民抵抗権の最大の殺傷力という武器」を発表し、「オキュパイ・セントラル」の深水魚雷を放った。

2014年8月31日、のちに「8・31決定」と呼ばれる立候補に三つの条件を設けた香港特区行政長官の選出方法が北京から提示された。それは北京の意にそぐわない候補者を退ける内容であった。「オキュパイ・セントラル」運動は「今日すでに対話の道は断たれたことで、オキュパイ・セントラルの実行は必定である」というプレスリリースで応えた。

だがシナリオ通りに進まないことは世の常。セントラルのオキュパイは結局のところ実現せず、87発の催涙弾によって9月28日には学生らが先頭にたった「雨傘運動」が誕生した。それは金鐘(アドミラリティ)の政府本庁舎の外側に展開した大規模なオキュパイ運動であり、百万近くの市民が参加した。79日後、雨傘運動は悄然と幕を下ろしたが、血の弾圧はなかったが、そのかわりに北京からの譲歩もかちとることができなかった。運動の「敗北」は、民主化運動の参加者を憤激の道に歩ませるか、あるいは大きな傷跡をのこした。「平和・理性・非暴力の抵抗」の効果は挑戦を受け、一度は団結した市民社会はいくつもの塊に分解した。

2015年6月18日、立法会[香港議会]は北京政府が指定した政治改革案を否決した。しかし2004年の時の否決とはことなり、北京の「8・31決定」は長期的に有効とされ、ひとつの巨大な岩石のように、二つの普通選挙(行政長官と立法会)の実現のまえに横たわっていた。長年、民主化実現の道と考えられてきた普通選挙の実現の道が閉ざされたことで、さらにその先に待ち構える問題を直視するようになった。そう、2047年問題[返還50年]である。

2015年11月の区議会選挙に参加した「傘兵」(雨傘運動に参加したアクティビスト:訳注)はすくなくとも6議席を確保した(メディアによって傘兵の定義がことなる)。既成政党の「大物」たちがつぎつぎと落選し、「革新」と「ニューフェイス」の風が席巻した。

2016年2月8日、本来は楽しいはずの[旧暦の]元旦は、暗黒の大晦日となり、12時間にわたって市民と警察が衝突する事件につつまれた。「旺角騒乱」「旺角暴乱」「フィッシュボール革命」「フィッシュボール暴動」など様々な命名がなされたが、香港市民は、焦燥する民意がいかにして暴力的抵抗を生み出すのかという生き証人となった。

旺角騒乱は、当初はまったく無名であった本土派[香港ナショナリスト]の梁天琦がステージに引き上げたものだった。彼は2月の立法会の補選において、一人の[雨傘運動の]伴走者から、民主派と体制派のどちらの候補者が当選するのかというキャスティングボードを握り、民主派は有権者に対して「大局に立つべきだ」と警告を発した[反中国の梁天琦に投票することで民主派の票が減り体制派が当選してしまうということ]。2月29日、補選の結果、梁天琦は落選するも15%の支持を集めたことで、本土派の支持基盤を固めた[補選は民主派候補が辛勝]。これによって9月に予定されていた立法会選挙でも本土派の議席獲得を目指すと力強くかたった。香港独立を目指す本土派は「確認書」事件が起こるまでは、議会内に勢力を広げるだろうとみられていたのだ[候補者は、香港は中国の一部であることを含む香港基本法を順守する「確認書」へのサインを求められ、梁ら5人の本土派は立候補を認められなかった]。

2013年初めから2016年初めまで、香港が経験した激烈な政治状況は、これまで香港市民が慣れ親しんできた常識がとつぜん通用しなくなり、香港の将来に関する「新しい」議論、「新しい」社会運動と政治運動のモデル、「新しい」政治勢力ないし「新しい」アイデンティティが登場し、「新人類」たちが堂々と一切をひっくり返したかのようであった。

香港三年の新しさはどこにあるのか?

風雲巻き起こるかのようなこの三年間の香港の経験は、本当に新しいのか。本当にこのように特別な状況だったのだろうか。

嶺南大学文化研究学部の羅永生副教授は『香港三年』の新刊リリースイベントで、その問いに次のように答えた。「この三年は、過去30年ないし50年の香港に対する挑戦だったと言えます」。しかし、この三年は特別ではなかったとも言う。「このような三年はわたしもかつて経験したことがあるからです」。

羅教授によると、中国とイギリスによる香港返還をめぐる交渉のなかで、香港には改革がひつようなのかそれとも革命が必要なのか、香港人のアイデンティティはどうか、民族アイデンティティはどうか、香港の未来はどうなるのかなどなど、今日熱心に議論されているテーマすべてが「当時、全部議論されていたことなのです」。「当時議論されていた様々な問題をいまふたたび問い直すことで、新しい時代を迎えることができるのです」。

羅教授は、30年前に議論不足だったからなのか、それとも現在とのあいだに歴史の断絶があるからなのかと問いを投げかけた。「またこの三年の変化かあまりにも早すぎて、これらの問題を考える時間もないほどということも、理由のひとつだとおもいます。」

雨傘運動では大学生連合会のメンバーで『香港三年』の編集者のひとりでもある鍾耀華は、同じような問いを持っている。現在、多くの人が新しい時代の到来を叫んでいるが「30年来、議会は何の進展もなかった」「平和・理性・非暴力の抵抗は無意味だ」といった主張が社会運動や本土派から提起されるが、新しい時代の「新しさ」とはいったい何なのか?従来民主化運動が効果的でないと強調するが、これまでのやり方についてどれだけ理解しているのか、という疑問である。

彼は、歴史をかえりみることで、香港の街頭運動が実際には1970年代から80年代にかけて、すでに徐々に衰退してきたことがわかると指摘する。80年代の植民地政府は区議会選挙を実施し、社会運動の世界では「体制内に参加すべきかどうか」という論争が起こり、最後には参加すべきだという意見が大勢になった。同じ時期、「中英共同声明」が交わされ、「交渉テーブルの政治構想」が最大限拡大され、香港人は様々な委員会や政治日程に参加した。このような体制側の取り込みによって多くの民主化運動の参加者がそこに身を投じていく。

鍾耀華は、30年後の今日において最も大きな変化は、おそらく「交渉テーブルの政治構想」それ自体だと考えている。緊迫した弾圧と激烈な抵抗のあいだに、交渉テーブルが存在するのだろうか?彼によると、雨傘運動は「長年にわたる民主化運動の困難な局面を切り開くためにひねり出されたものだ」という。しかし彼はまた、これがはたして良いことなのか悪いことなのかは、また新たな道を見つけることができるのかどうかもわからない、という。だがそれはまた彼を次のような不断の思考に導く。「今日のいわゆる民主化抵抗運動は、30年前の民主化運動とはたしてどれほどの違いがあるのだろうか」。歴史を理解せずして、どうして新しい時代を知ることができよう。結局のところ「新しさはどこにあるのか?」。

羅永生は、まさにこのような問題意識によって、『香港三年』は香港がこの三年間のあいだに発生した事柄をあつかい、過去30年の民主化運動のあゆみと比べることで、線形とは異なる角度から歴史を著述しており、現実と歴史の対話空間の構築を試み、そのなかで参考に値するものを探し出し、有用であるにもかかわらず忘れ去られたものを掘り起こそうとしていると語った。また、30年来の民主化運動の議論が繰り返しに繰り返しを重ねており、多くの問題についてかつて提起されたままで答えがないままのものがあることを重ねて訴えた。

鍾耀華は羅永生に次のように質問した。「ではなぜ1980年代後半に議論が止まってしまったのでしょうか? 当時の民主化運動の指導者たちは他の議論すべてを投げ出して、一つの道[制度圏への参加?]へと進んでしまったのでしょうか?」

羅永生は、今日から振り返ると、当時すべての人々が「権宜の計」(ごんぎのけい:原則的ではない臨機応変の策)を採用したからだ、と答えた。中国共産党は80年代以前は香港回収を考えていなかったが、これは権宜の計といえる。80年代に入り「一国二制度」によって香港を回収するとしたことも権宜の計だ。当時の香港の運動活動家も、これらの権宜の計をめぐって議論し、[制度圏への進出という]答えを見つけたと考えて、他の選択肢に蓋をしてしまった。しかしこれら一切は「上からの改革」の賜物でしかなかった。たとえば80年代に議会政治への道を議論したが、しかし当時の[植民地という]状況で条件は成熟していたのだろうか。民主化運動の参加者はこの問題をそれほど深刻には考えなかったのである。

「三年の時が流れましたが、いまだ何ら回答はでていない。……私たちは『反対運動の結集と分裂』と『香港の記憶の戦場と拾遺』(それぞれ本書の第一部と第二部のタイトル:訳注)を、相互に対照的な二つのヒントとして、できるかぎり時代の息遣いを正確に捕捉し、これまでの歩みを整理して、自由な未来に向けた公共の議論のための基礎を固めることができるでしょう。」

これが『香港三年』の二人の編集者による前書きで述べられている事柄である。

暴風が私たちを不断に未来に向かわせている。しかし解答は過去に隠されているのかもしれない。


《香港三年》
2016年6月
牛津大學出版社(中國)有限公司
編者:張潔平,鍾耀華
こちらから目次(「目録」をクリック)などが見られます。

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