イワン雷帝からスターリン、そしてプーチン政権に至るまでの政治史からロシアに民主主義は根付かないという主張に対して、今年2月に若者たちが反プーチンで立ち上がったデモを紹介して、「若者の政治的覚醒を見れば、ロシアに民主主義は根付かないと決め付けるのも悲観的すぎる」と。
この視点は大切で重要ですが、若者の政治的覚醒とはべつに、常盤氏が挙げている歴史的理由が、なんと2月革命なのです。こうです。
「(ロシアに民主主義は根付かないという主張に対し)反証材料となるのが二月革命だ。ミリュコーフら自由主義者や穏健社会主義者ケレンスキーらからなる臨時政府は、第一次大戦の危機的状況にありながら、現在のプーチン氏が骨抜きにした、政治的自由や四方の独立などの民主化政策を一世紀も前に推進していたのだ。」
イタタタ…(>_<)
そろそろロシア2月革命で成立した臨時政府や自由主義者への幻想はかんべんしてほしいのですが・・・。
ミリュコーフら立憲民主党の自由主義者らは、2月革命で民衆が帝政を打倒した後も、民衆を恐れてみずから権力をとることを拒否続け、穏健社会主義者らが安全を保障してやっとおずおずと臨時政府を樹立しました。しかもこのミリュコーフは、2月革命のスローガン「平和・土地・パン」を裏切ってドイツとの戦争を継続することを極秘に英仏に対して約束したことで民衆の反発をうけて外務大臣を辞任します。
これが民主主義でしょうか?
ミリュコーフの辞任を受けて5月18日(旧暦5月5日)に、9名のブルジョア政治家と6名の穏健社会主義者が入った一次連立政府が発足します。6人の穏健社会主義者のうちケレンスキー、チェルノフ、ツェレテリ、スコベレフの4名は、臨時政府とは別に民衆の権力機関となっていたソヴィエトの副議長でもありました。
この4名の副議長が大臣に就任することに賛成するかどうかのソビエト総会で、前日に亡命先からペトログラードに帰国した急進社会主義者のトロツキーは、臨時政府の閣僚人事に反対する演説を行います。
「わたくしは、いまここでおこなわれている多くのことに反対であることを隠すことができない。この政府への参加は危険だと、わたくしは考える。連合政府は、現存の二重権力からわれわれを救わないで、ただこの二重権力を政府そのものにもちこむだけである」
「革命は連合政府によって滅びはしないだろう。だがわれわれは3つの戒めを忘れてはならない。ブルジョアジーを信用するな、われわれ自身の指導者を統制せよ。そしてわれわれ自身の革命的な力を頼りにせよ」。
しかしソビエト総会は賛成多数で閣僚人事を承認します。陸海軍大臣に就任したケレンスキーは、5月25日に戦争の継続を命令します。
これが民主主義でしょうか?
常盤氏は、レーニンを引き合いに出しています。
「当時『ロシアは今や欧州で最も自由な国だ』と明言したのはレーニンだ。臨時政府は、そのレーニンが指導する十月革命に打倒される。曲りなり踏み出した民主主義への歩みは粉砕され、ロシアは際限ない独裁の伝統に復帰したのだった。」
そして最後をこう締めくくっています。
「抗議行動を力で抑え込むことは一時的には可能だ。しかし、不満のマグマはロシア社会の奥深く沈殿し、いずれは巨大な爆発を待つばかりとなるだろう。プーチン政権はロシア革命から謙虚に教訓を学ぶべきではないだろうか。」
自由主義や穏健社会主義に何かしらの期待をかけている人々は、抗議行動を力で一時的に抑え込もうとした自由主義者や穏健社会主義者らの臨時政府が、ロシア社会の不満のマグマの巨大な爆発で世界を揺るがした「ロシア十月革命」から謙虚に教訓を学ぶべきではないでしょうか。
急進社会主義に何かしらの期待をかけている人々は、ロシア10月革命の理念と実践を裏切り、大量の党内外粛清を経て、世界革命の後退的状況とナチスを含む帝国主義との不安定なパワーバランスのなかで独裁権力を掌握したスターリニズムの問題についても謙虚に総括する必要がありますが、それはロシア十月革命の理論と実践を謙虚に学ぶことによってはじめて、謙虚に総括することが可能になるのだと思います。
参考
・2つの顔――ロシア革命の内的力(トロツキー、1917年3月4日、湯川順夫・西島栄訳)
・この忌まわしい殺戮はいつ終わるのか?(トロツキー、1917年8月、西島栄訳)
・ブログ「ロシア革命100年 今日は何の日?」1917年5月18日

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東京新聞2017年6月9日朝刊4面「視点」
ロシア革命から100年
民主化へ「静かな抵抗」
ロシアのプーチン大統領は来年3月の大統領選で圧勝を目指しているが、2月にモスクワなど全土で突然起きた抗議デモで、シナリオに狂いが生じている。今年は1917年にロシア帝国が倒された「二月革命」(西暦で3月)と、レーニンが指導した「十月革命」(西暦で11月)から百年。ロシア国民の意識に「静かな革命」が起きつつあるようだ。
抗議デモは反プーチン野党の旗手アレクセイ・ナバリヌイ氏のインターネットでの呼びかけで、プーチン氏の右腕、メドベージェフ首相の腐敗疑惑に怒りの声を上げた。
反プーチンの運動は2011年末から翌年春まで吹き荒れたが徹底した弾圧に加え、14年2月のウクライナ南部クリミア半島併合以降、愛国心の渦の中で失速していた。
「クリミアで高揚した愛国的な風潮が弱まりつつある」。ロシアのある社会学者は抗議の背景をそう指摘する。都市部の中間層に加え、十代から二十代の若者の参加が目立った。私生活に埋没し政治に無関心と見られた彼らが、自らの権利を主張するようになったのは注目すべき現象だ。
広大なユーラシア国家であるロシアを巡り、常に論争となってきたテーマがある。ロシアに近代的民主主義、西欧型民主主義は適合するのかという命題だ。十六世紀のイワン雷帝からソ連の独裁者スターリンまで専制体制に彩られたロシアの歴史を根拠に、否定的な見解が有力である。プーチン政権も欧米流の民主主義の受け入れを否定する。
これに対し反証材料となるのが二月革命だ。ミリュコーフら自由主義者や穏健社会主義者ケレンスキーらからなる臨時政府は、第一次大戦の危機的状況にありながら、現在のプーチン氏が骨抜きにした、政治的自由や四方の独立などの民主化政策を一世紀も前に推進していたのだ。当時「ロシアは今や欧州で最も自由な国だ」と明言したのはレーニンだ。臨時政府は、そのレーニンが指導する十月革命に打倒される。曲りなり踏み出した民主主義への歩みは粉砕され、ロシアは際限ない独裁の伝統に復帰したのだった。
プーチン時代は17年を超えた。秩序と安定を取り戻したが権威主義体制が定着し、汚職がまん延した。基本的な社会インフラの整備は、都市部以外は遅れている。
市民社会は脆弱で民主化への条件はなお厳しい。だが若者の政治的覚醒をみれば、ロシアに未主主義は根付かないと決め付けるのも悲観的すぎるのではないか。
抗議行動を力で抑え込むことは一時的には可能だ。しかし、不満のマグマはロシア社会の奥深く沈殿し、いずれは巨大な爆発を待つばかりとなるだろう。プーチン政権はロシア革命から謙虚に教訓を学ぶべきではないだろうか。(常盤伸)
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