
1989年の北京の春を弾圧した「6・4天安門事件」から28年目を迎えようとしています。香港の労働運動研究者が、北京の春における労働者のとりくみをコンパクトにまとめた文章をウェブサイトで公表していましたので訳してみました。原文はこちら。画像は天安門の学生支援に駆けつけた北京の鉄道部門の車両修理工場の労働者部隊。「機関車が再びやってきた」という旗を掲げている。
89年民主化運動における労働者の声
梁寶龍(労働運動研究者)
◎ 労働者階級の役割
香港のメインストリームに描かれた歴史は、植民地ブルジョア・エリートの栄光史であり、労働者階級と下層階層の貢献を完全に無視してきた。だが香港労働者は、経済闘争はもちろんのこと、反植民地闘争の色彩を持った海員大ストライキ[1922年]や民主的要求を有した省港大ストライキ[1925-26年]を闘った歴史を持つ。だがこれらの闘争も香港全土の各階層の共同した民主化闘争にまでは発展しなかった。
89年民主化運動の歴史を記した書物においても労働者階級の役割は無視されている。しかしちょっと資料にあたれば、89年民主化運動において労働者が大きな役割を果たしたというわけではないが、かれらの問題のとらえ方は学生に比べると深く、また期待を持つことのできる力を表現していたことがわかる。以下、89年民主化運動における労働者の動きを概説する。
◎ 北京工人自治聯合会
1989年4月17日から、北京の大学生、数千名が全人代常務委員会に対して請願を行った。民主主義の実現と汚職の根絶を訴える轟轟たる民主化運動がここに展開されることとなった。4月22日、天安門広場で20余万の学生と大衆が胡耀邦[改革派指導者]を追悼した。4月23日には学生たちは授業ボイコットに突入した。学生たちの行動に影響を受け、ついに労働者も立ち上がることとなった。
それまでにも、4月19日の夜には学生が警察から暴行されるという事件が発生していた。その翌日には十数名の労働者が、学生がはじめて民主化運動は全人民の運動でなければならないことを自覚し、天安門広場の英雄記念碑に集まり、警察による暴力事件について、「軍と人民は魚と水の関係 4月20日事件についての労働者の考え」という演説を行い、独立した労働者組織の動きが始まった。それはついに北京工人自治聯合会(工自聯)の結成に発展し、学生の闘争継続を支援し、中国共産党に対して憲法と法律を順守すること、そして党に対する民主的監督を求めて民主化運動に参加した。当初、工自聯が天安門広場にテントを設置することを学生たちが拒否したので、工自聯は[広場に面した]長安大街にテントを設営した。状況が緊迫した5月末になってやっと天安門広場にテントを設置することができた。
5月にはいると、工自聯は中後共産党に対して新しい立場を持つようになった。中国共産党は古代の帝王独裁の政権だと批判する「全国の労働者に告げる書簡」を公表し、労働者が民主主義実現のたたかいの最前線に立つよう訴えた。
工自聯は4月31日に「全市人民に告げる書簡」を張り出して、全市の労働者を代表して学生運動を支援することを明らかにして、賃金引上げ、物価の安定などの経済的要求を訴えるとともに、国家官僚の子弟の収入の公開を求めるとともに、警察と兵士に対しては学生の側に立って「真理のために、国家と民族の未来のためにたたかおう」と呼びかけた。
同じ日、「十問書」を張り出して、中国共産党中央に対して汚職問題を問いただした。鄧樸方[鄧小平の息子]が香港競馬場ではたいた金額はいくらなのか?趙紫陽[共産党総書記]はゴルフの代金は支払ったのか?などについて知る権利を行使し、李鵬[国務院総理]の改革の進展具合はどうか? インフレ対策の状況はどうか? 役人の支出は? 政党・革命・反動の三つの用語についての解釈はいかに?などについても問いただした。「十問書」は改革派に対しても期待をかけておらず、保守派と同じように問いただす対象とされており、真理の追究を基準としており、権力にある党・政府機関のすべての派閥に対して質問していた。
4月26日、党機関紙「人民日報」は「動乱反対の旗幟を鮮明にしなければならない」と題した社説(4・26社説)を発表し、宣伝メディアによる民主化運動への攻撃を開始した。工自聯は5月17日に「全国同胞に告げる書簡」を発表し、全市の労働者に向けて工自聯の指導の下に団結して、「4・26社説」を拒否し、社説の筆者とその黒幕を厳正に処罰するよう訴えた。そして中国共産党の権力者と国務院の各級役人の資産状況を調査することを要求し、人民の普通選挙によって選出された全国人民調査団による調査を求め、調査結果を全国人民に向けて発表するよう訴えた。
4月27日には20万人の学生が非暴力でデモを行い、「4・26社説」に対して抗議し、100万人の市民が沿道でそれを歓迎した。学生の非暴力の行動は軍や警官の抑制的対応にも影響を与え、学生が警察の警備ラインを越えてデモを行うことを可能にした。学生たちは警官にも敬意を払い、「人民警察は人民を愛する」というスローガンを叫び、警官による抑制的対応にも感激した。警官による抑制的対応は民主化運動への支持を表してもいた。革命行動はかならずしも暴力や流血をともなうわけではない。軍や警察を味方につけるということが最高度の革命的行動と言える。
◎ 団結は力なり
5月13日、二千余名の学生たちが天安門広場でハンストを行った。5月20日、政府は北京に戒厳令を敷いた。知識人が公然と民主化運動に参加し始めた。工自聯は道路を封鎖して軍隊の進軍を阻止するために北京労働者決死隊を結成した。工自聯は「首都労働者への書簡」を発表し、北京全市の労働者と市民が立ちあがり、軍隊の入城を阻止し、兵士たちに民主化運動の偉大な意義を宣伝し、軍隊を民主化運動の味方につけるように呼びかけた。また政府は北京市内の秩序維持活動から撤退し、労働者糾察隊による市内秩序に任務を譲ることを求めた。工自聯による5月25日の「緊急の呼びかけ」では、それぞれの分野で治安隊を組織することをよびかけ、それぞれの協力のもとで秩序を維持し、学生を防衛しながら戦いを継続するよう訴えた。
厳しい状況のなか、工自聯は5月21日に「労働者宣言」を発表し、団結こそが力なり、と訴えた。また北京市での民主選挙実施と闘争目標を決議し、民主化運動の正当性の承認、戒厳令の解除、逮捕された学生の釈放という要求を提起した。
5月26日、工自聯は「海外の同胞に告げる書簡」を発表し、「4・26社説」と李鵬の「5・20談話」(「動乱と社会混乱を回復するため戒厳令を敷く」という李鵬国務院総理の談話)に反対するよう、海外の同胞の支持を訴えた。同日、「現代のバスチーユ監獄へ攻めのぼるために緊急動員せよ」の檄文を発し、闘争の秋がすでに到来したことを訴え、中国共産党政府はファシスト政府であり、スターリン主義の独裁制度を実施していると批判した。5月29日に公表された訴え「人民の号令」では、中国共産党が中国を指導することに反対しているのではなく、李鵬などの一部の指導者に対して反対しているとした。また鄧小平を大独裁者だと名指しで批判し、歴史の舞台から降りるべきだと訴えた。
6月2日、解放軍が北京市内に入城を開始したが数万の群衆がそれを阻止し、軍隊は一時撤退した。しかし6月3日にはさらに多くの部隊と戦車が入城し、血の弾圧が繰り広げられた。
◎ 労働者が領導した民主化運動
北京師範大学の労働者は4月2日に「一労働者から学生への書簡」を発表し、知識人と学生だけに関係する要求や空虚なスローガンを掲げることで、労働者や農民との結合にマイナスの影響や団結にほころびが出ると警告した。賢人による統治に期待するのではなく、より拡充された民主主義制度の構築、報道の自由、司法の独立と普通選挙を訴えるべきだと指摘した。
民主化運動の後半、ある学生が「勇敢に立ち上がろう 労働者の先輩たち」というビラを配布し、労働者が民主化運動に参加するよう訴えた。そして「労働者階級へ 組織を立ち上げ共同してたたかおう」という呼びかけビラでは労働者が組織を立ち上げて民主化運動を指導するよう訴えた。
人権活動家の任畹町は「幾千万の産業労働者がみずからの民主的権利を自覚したき、それは人から与えられるものではなく自らかちとるものだと自覚して、国家権力を掌握するに足るとき、中国の生産活動の飛躍と民主事業は実現にむかうだろう」と述べた。しかしのちの統計によると、民主化運動に参加した労働者は全国で15%に満たず、また参加した労働者の多くが未組織の若年労働者であった。労働者の中堅部分は参加していなかった。
◎ まとめ
89年民主化運動に労働者階級が参加したことが、中国共産党による血の弾圧を招いたという分析がある。民主化運動全体をみれば、中国共産党に対しては、学生よりも労働者のほうがより深く分析していたが、いわゆる体制内改革派への過度な期待もみられた。工自聯は市内各地の工場へ人員を派遣したが、大多数の労働者の決起を組織することはできなかった。それは中国共産党による厳密な人民支配ゆえであるが、そのなかでも立ち上がった学生、労働者、市民らの勇気は貴重であり敬服に値する。
参考資料
陳杰文等著:《人民不會忘記──89民運實録》(香港:香港記者協會,1989)。
《工人起來了──工人自治聯合會運動1989》(香港:香港工會敎育中心,1990)。
十月評論社:《中國民運原資料精選》,第一輯(香港:十月評論社,1989)。
十月評論社:《中國民運原資料精選》,第二輯(香港:十月評論社,1989)。
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