
あと10日もすればメーデー。
そんなおり、昨日東西線・大手町のホームで「ベア!」と書かれた大きな広告を見かけた。
横山光輝の漫画『三国志』とタイアップした日経新聞の電子版広告「日経三国志」シリーズの一コマだ。
思わず途中下車して写真に収めた。どうやらという一般応募から作品を選ぶ「大喜利の乱」という企画の入選作らしい。こちらに他の入選作品と掲示されている駅が発表されている。
ベアは春闘の課題でメーデーの課題ではないとは思いつつも、この時期にこの広告とは「なかなかやるな」と思いながら、その前の日から日経新聞の一面で始まった「景気 試される波及力」という連載記事を思い出した。
連載の一回目は、「企業、過去最高の利益水準」と題して、景気回復の現状を説明している。
ざっと数字を挙げてみると、
・2016年10~12月期の企業の設備投資費(研究開発費を含む)は82兆円で10年ぶり過去最高
・海外現地法人の投資は2015年半ばから減少に転じる一方で国内投資は14年から増加し、16年10~12月期は7年ぶりの高水準に回復
・17年度の全規模全産業の経常利益は52.3兆円の見通しで、ITバブルの00年度の38兆円を大幅に上回る(3月の全国企業短観)
・けん引役は海外需要
という具合だ。しかしそこは日経。一面的な提灯記事ではなく、さらに踏み込んでいる。それはこの記事で一番大きな見出しの「増える投資 賃上げ後手」が物語っている。
記事の後半は、景気回復で企業は増産ではなく人手不足に対応する省力化が主流になっているとしながらも、「省力化投資では景気への効果は限界がある」という三菱総研のチーフエコノミストのコメントを紹介してこう続ける。
「企業が利益をどれだけ賃金などで労働者に配分したかを示す労働分配率は歴史的な低水準が続く。17年の春季労使交渉では、日立製作所など電機大手のベースアップが月額1000円と16年実績を同500円下回るなど、多くの大企業で賃上げ幅が前年を下回った。……好業績の恩恵を家庭にどう回すのかが、本格的な景気回復の焦点になる。」
日経の意図は明らかだ。アベノミクスの補完としての「官製春闘」の延長応援である。
賃金は上げても雇用は不安定なままではないか、という批判もしたくなる。
しかし、そこはさすが戦略家の孔明をキャンペーンマスコットに持ってくるだけのことはある。今日4月20日朝刊の連載の第二回目(昨日は休載)で、その雇用について言及している。
連載二回目はタイトルこそ「消費、持ち直しの兆しも」で、記事の前半は「半年後の暮らしや収入の見通しからはじき出す内閣府の消費者態度指数は4カ月連続で改善、13年9月以来3年半ぶりの高水準を記録した。」「底流にあるのが雇用環境の良さだ。人手不足で有効求人倍率はバブル期以来の高水準。失業率も22年ぶりに3%を割り込んだ」という内容で、なんだ、やっぱりアベノミクスで景気回復という提灯か、と思ってしまうのだが。
しかし記事の後半は、四段抜きの大見出しの「負担増・将来不安が影」が示すように、影の面を報じている。
・実際にどれだけのお金を消費に回したかを示す消費性向は、過去12カ月移動平均は07年7月以来の低さで、下落が続いている。
・電気代等エネルギーは2年2か月ぶりに前年度比で増加。4月からは公的年金の保険料が増加したことなどで、家計の負担が増加している。
・本来、景気が回復すれば需要が増えて物価も上がるというのがこれまでのパターンだったが、そうならないことから大型スーパーではさらなる値下げ競争に舵を切るという。
そして連載第二回目はこう結んでいる。
「景気が良くなれば、自動車や家電の販売にはね返ったのは過去の話。今や先行きが見通しにくい非正規社員が労働市場の四割を占める。……消費拡大という景気の好循環を再び実現するには、一段の賃上げに加え、将来不安をどうやって取り除くかが問われることになる。」
不安定雇用を一掃せよ、とは言えないところに、この連載の限界があるが、日本資本主義の突き当たっている壁の一面を報じている。
だが賃上げや不安定雇用の一層だけでいいのか?というのがメーデーを前にしたこの時期に、資本家新聞を読んで考えたことのひとつでもある。
もちろん賃上げや不安定雇用の一層は重要だ。とりわけ民営化によって多くの解雇者がでる年度の変わり目では、なおのことそうだろう。電通での過労自殺の労災認定をきっかけに長時間労働の是正が叫ばれてもいる。つい先日もスーパー「いなげや」の42歳の社員が過酷なサービス残業で過労死したことが報じられたりしている。
メーデーは「8時間の労働、8時間の休息、8時間の自由」を掲げた国際的で歴史的な取り組みとして続いているが、資本主義大国においてもいまだこの課題を掲げなければならないほど、労働者の命と尊厳、そして自然環境を犠牲にしてしか延命できないこの経済システムの矛盾はすでに明らかだ。
「賃上げで経済の好循環を」というロジックが、労働運動の中でも平然と使われている。
「経済の停滞→賃金抑制→将来不安→消費低迷→経済のさらなる停滞→…」
という悪循環ではなく、
「経済の活性化→賃上げ→不安解消→消費拡大→経済のさらなる活性化→…」
という日経新聞の言うような明るい展望を描きたい、将来不安を取り除きたいという気持ちはわからないでもない。
だが、それは幻想だ。
資本主義の景気サイクルは、
「好景気→景気のピーク(山頂)→不況への下り坂→不況の谷底→景気回復への上り坂→好景気→…」
であり、そのサイクルはかつては10年といわれ、最近ではもっと短いサイクルで回っているともいわれている。
独自の金融政策や財政政策がとれる国や地域では、そのサイクルの速度を若干はコントロールできるし、とくに金融資本主義の先進国ではサブ・プライムや異次元緩和という「錬金術」で、あたかもまったく逆のイリュージョン(幻想)を見せることも可能だ。
前に紹介したケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』では、資本主義システムに対するこんな怒りのセリフが登場する。
「私は、ダニエル・ブレイク。人間だ。」
このダニエルの怒りを彷彿とさせる「メーデーを前にして」という100年以上前の文章のなかの一部の「8時間労働を!」という箇所を抜粋紹介しよう。資本主義の景気についても触れられている。
+ + 以下、抜粋 + +
8時間労働を!
好況の時期、資本は、石炭、鉄、綿、プロレタリアートの筋肉、その妻と子どもの血を、一心不乱にむさぼり食う。がつがつと心ゆくまで食べた資本は、恐慌の時期になると、死んだ材料と生きた「材料」の山を街頭に放り出す。しかし、労働者は綿や石炭や灯油なしではやっていけない。彼らは人間なのだ!そして労働者は、このことについて、メーデーの日にこそ最も大きな声で宣言しなければならない。
失業者の巨大な大軍が一日24時間「休む」ことを余儀なくされ、この「休み」ゆえに多くの人々が死を選んだり気がふれたりしている一方で、まだ解雇されていない仲間たちが一日12~14時間、あるいはそれ以上も働かされている現在、われわれは倍する力をこめて、人間たるプロレタリアートが人間的生活を送る権利を宣言しなければならない。
あらゆるところで、われわれの叫び声をメーデーに鳴り響かせよう。
8時間の労働を、
8時間の睡眠を、
8時間の自由を!
「メーデーを前にして」、 トロツキー、1909年4月9日(『トロツキー研究NO.29』収録)
+ + 以上、抜粋 + +
これが書かれた1909年は、ニューヨークの株式取引所発の世界恐慌がロシアにも襲いかかっていた時期であるとともに、ロシア国内では1905年革命敗北後の反動時期であり、賃労働という資本主義システムの廃止を掲げるような攻勢的スローガンを掲げられる時期ではなかった。
しかし、なんどでも自問するのだが、賃上げや不安定雇用の解消によって、将来不安がなくなるのか。
ダニエル・ブレイクが怒りを込めて描いたように、誰かに労働力という商品を売り続けることでしか生活する糧を得ることができない膨大な数の人間と、生産手段を私的に所有して労働力商品を購入することであらゆる自由を享受することができるごく一部の人間という、二種類の人間に分かれている社会で、本当に将来の安定などあるのだろうか。
賃金や賃労働(雇用)というのは、資本主義の固有で根源的な生産様式であり、その資本主義的生産様式は、資本の無限の生産的欲望が消費や生命や環境という有限の条件と衝突を繰り返すという、これまでに類を見ない不安定さを内包するシステムであり、それにかわる「もうひとつの世界」を、労働者の運動は目指すべき、というのが、100年以上前のメーデを前にしたこの扇動家の思想の根幹にあった。(ちなみに、この扇動家の目標は8年後、つまり現在から100年前に、多くの課題を残しながら達成された)
多くの読者にとってそのような思想は「???」だろうが、日経バーン!の記事ですら(いや実際には日経新聞だからこそなのだが)、ベアや賃上げや、ひいては非正規雇用にまで話題を広げなければならない状況のなかで、「もうひとつの世界」を目指す労働運動や社会運動が、賃労働をベースとしたいまの社会とはまったく違う、これまで見たこともないもうひとつの「???」な世界にむけたイメージを持つことができるかどうかが必要ではないか、と思う。
+ + + + +
メーデーついでにもうひとつ、「???」なメーデの文章を紹介しよう。
先日、attac首都圏の総会講演でサパティスタの話をした太田昌国さんの現代企画室から出版されている『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』を総会で購入して、ざっと読んだ時に目に留まった「メーデーのドゥリート」という短文だ。

『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』の著者は、あのサパティスタのマルコス副司令官。内容は、政府軍の攻撃からラカンドンの密林のなかを逃走(おっと失礼、撤退)していたマルコス副司令官が、人語をしゃべるドン・キホーテ気取りのカブトムシのドゥリートと遭遇して、カブトムシの部下になるという「???」な話。
「???」といっても、もちろんマルコス副司令官による本なので、非常に含蓄のある内容ではある。物語の大半はマルコス副司令官とカブトムシ・ドゥリートの会話が中心で、博学のカブトムシ、ドゥリートは、こんなふうに新自由主義を批判する。
「新自由主義は、危機に対抗するための理論でも、危機を説明するための理論でもない。それは経済の理論や教義そのものの危機である!すなわち、新自由主義は最低限の一貫性すらもたず、経済に関する計画や歴史的な展望をまったくもっていない。つまるところ、クソのような理論である。」
このように、オルタ・グローバリゼーションの活動家にとっても、なじみのあるセリフも語るには語るのだ。
しかし、それに続くマルコスの問いに対するドゥリートの応答が「???」だ。
+ + 以下、引用 + +
「そんな……そんな解釈、今まで聞いたことも、読んだこともありません。」と私[マルコス]は驚いてこたえた。
「そのとおり!今さっき思いついたところだ」とドゥリートは胸を張って言った。
このあまりにも珍妙な理論に疑念を抱きながらも、私は尋ねた。
「それがわれわれの逃走、おっと失礼、撤退とどんな関係があるのですか?」
「そう、そう!きわめて初歩的なことだ。わが愛するワトソン副指令君!計画とか展望とかいったものではない。オ・モ・イ・ツ・キである。政府には節操というものがない。われわれが金持ちになったと宣言したと思えば、われわれは貧乏であると言っている。平和を望んでいたかと思えば、戦争を望んでいると言っている。断食をしていたかと思えば、腸閉塞なるまでガツガツと食べている。おまえ、言っていることがわかっているのか?」とドゥリートは私を尋問するように言った。
私は頭をかきながら、「まあ、おおよそは……」ちためらいがちに答えた。
+ + 以上、引用 + +
この会話はまだ理解しやすい方だ。本書に収録されているドゥリートの会話や回想の多くが「???」なのだ。
たとえば、ある日、ナッツの殻の半分を「兜」にしてかぶり、まっすぐに延ばしたクリップを「槍」として構えて、ペガサスと名付けられた「亀」に(甲羅には「シートベルト着用」とか広告などが描かれている)乗ったドゥリートが、メーデーのデモ行進に参加するためにメキシコシティに向かうと言い出すシーンがある。
メキシコの労働組合は、日本以上に官製労組の色彩が強く、マルコスはあまり勧めようとはしないのだが、ドゥリートは構うことなく、マルコスからくすねたブーツの靴紐を亀、おっと失礼、ペガサスの手綱にしてメキシコシティに旅立ってしまう。
さて、真央益が長くなったが、先に紹介した「メーデーのドゥリート」というのは、メキシコシティでメーデーに参加したドゥリートからの手紙をマルコスが紹介するというシーンだ。
+ + 以下、抜粋 + +
メーデーのドゥリート
追伸――ドゥリートの現在の歩みと、彼の助言に関して説明する。
ドゥリートは一通の葉書を送ってくれた。中央にドゥリートが写っている。左側にはペガサス[亀]、右側には革命記念塔が写っている。写真の下には、「左と右のどちらの歩みが遅いのか?」と書いてある。ドゥリートの葉書には次のように書いてあった。フィデル・ベラスケス[官製労組のボスで実際には97年に死去している]とは会えなかったが、メーデーのデモ行進に参加したという。そして、合衆国大使館の前を通過するとき、「ドジャーズ、ばんざい!ヤンキース、くたばれ!」と叫んだ(ドゥリートは[メキシコ出身選手]バレンスエラが現在はサンディエゴ・パドレスに移籍していることを知らない)。ドゥリートは、ソカロ広場[メーデー会場]に何時に入退場するかを知らなかった。ドゥリートを長時間観察していた人物が近づき、「すみません。だけど言いたくて仕方なかったものですから、怒らないでください。あなたはカブト虫によく似ていますね。」といったそうだ。とてつもない集会だった。「あらゆるものがそこにあった」とドゥリートは言っている。そして、当たり前のことに対するいつもの癖で、「ないのは革命だけだった」と付け加えている。
+ + 以上、引用 + +
この短い文章には多くの暗喩がふくまれているが、わたしは冒頭にも書いたように、景気回復の状況において、何を訴えるのか、ということと結びつけながらこの文章を読んだ。
メキシコシティのメーデー会場でドゥリートが見つけられなかったものの実現をめざして闘い続けた先の扇動家は、好況期において何をなすべきかを、また別の文章でも語っている。
+ + 以下、引用 + +
産業好況はストルイピン的静けさ[当時の首相による反動政治]を強化するのではなく、反対にそれを打破するであろうし、すでに打破しつつある。好況は大衆の要求水準を増大させ、その自信を高め、衝突、行動、ストライキ、闘争をもたらすだろう。好況は労働者の組織化を押し進め、労働組合の反映と社会民主党[のちの共産党]の強化を意味するだろう。弾圧?粉砕? もちろん、こうした政策は単純でおなじみのものであり、恐慌と反動の時期には確実な手段だった。だが、好況期においては、労働者階級を粉砕することは、好況を粉砕することを意味する。好況期において、政府と、そしてなによりも有産階級は、生産の連続性と収奪の「平和的」過程に関心を持つ。それゆえ好況は、ストルイピンの行政機関に解決不能な課題を与える。
(略)
産業好況の最初の時期には、廉価な貨幣が企業家に寄与し、市場が無限であるように見え、資本家が個々の労働日、個々の労働時間を大切に扱うがゆえに、この時期には、労働者の前には、成果の獲得と前進との最も広大な可能性が開けているのである。……大衆のますます固くなる自覚とますます成長する労働組合とにもとづいて、われわれは労働保護立法の要求を中心に幅広いアジテーションを展開しなければならない。
(略)
好況がどれだけ長く続くか、それがどれだけ深く国の経済生活をとらえるか、これは、国内外の一連の諸条件に依存しており、いまは予見したり、検討したりすることはできない。しかし、遅かれ早かれ、数年か数か月すれば、産業の発展は再び、ロシア農民の貧困な胃袋、軍国主義のとてつもない腫瘍、国家の放埓な浪費にぶつかり、好況は恐慌に席を譲るだろう。
そして、袋小路に陥った支配階級の間で敵意が新たな力を得て燃え上がり、未完成の革命が残した全ての基本的課題が、そのあらゆる先鋭さを帯びて前景に押し出されるだろう。そして、この課題に直面するのは、最も重い傷を癒し、広範な諸組織と結びつき、闘争ンア化で新しい成果を勝ちとり、政治的に一段と成長したプロレタリアートである。
産業好況は政治的高揚の始まりを告げるものでしかない。われわれは確信をもって、そのどちらをも迎えるだろう!
トロツキー、ウィーン『プラウダ』第16号、1910年9月24日
(『トロツキー研究NO.29』収録)
+ + 以上、収録 + +
いつの日か、日本のメーデーでも、ドン・ドゥリートが見つけられなかった「賃労働の廃止」と書かれた旗印に象徴される革命の兆しを見ることができるようになるのだろうか。
最後に、先に紹介したドゥリートとマルコス副司令官との新自由主義を巡る会話の続きを紹介して終わりにする。こちらで紹介した童話の会話と似ているな、と感じたからだ(ドゥリートのほうがよりラマンチャの男風ではあるが)。
+ + 以下、引用 + +
ドゥリートがそれ以上は演説をしないようなので、「それで?」と私[マルコス]は尋ねた。
書類を片付けながらドゥリートは言った。
「破裂するのさ。バーン! 膨らみすぎた風船のようにね。新自由主義には未来がない。われわれが勝利する。」
「われわれが勝利するのですか?」と私は意地悪い質問をした。
「そのとおり。『われわれが勝利する』。……」
+ + 以上、引用 + +
われわれが勝利する。時速50センチでめまいを起こす亀、おっと失礼、ペガサスに颯爽と乗ったドゥリートのこの確信を、これからも忘れないようにたい。

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