
「労働組合がその力を無分別に使用するならば部分的に失敗する。現存システムの諸結果に対してゲリラ戦争を遂行することにのみ自己を限定して、それと同時にこのシステムを変革しようとしないならば、そして自己の組織された諸力を労働者階級の最終的解放のための、つまりは賃金制度の究極的廃絶のための梃子として用いないならば、それは全面的に失敗する。」――――マルクス、「賃金、価格、利潤」(森田成也訳、光文社古典新訳文庫)
ケン・ローチの最新作「わたしは、ダニエル・ブレイク」が描く現代イギリス社会は、マルクスがイギリス労働運動にむけて発した警告が悪い形で実現した社会である、というのがこの映画を観て言いたいことだ。
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「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、イギリス・サッチャリズムによる福祉行政の民営化によって屈辱と引き換えに尊厳を奪われることに抗する労働者階級を描いた秀作。
一言でいえば、システムによって奪われる人間の尊厳を描いた作品。福祉切捨ての新自由主義にたいする憤りはおそらくこの映画を観た誰もが共有するだろう。内容はぜひ本編を映画館でみてほしい。とくに最後にケイティが読み上げるダニエルのメッセージは、決して尊厳を奪われなかったダニエルや、シングルマザーのケイティの怒りに満ちている。
今後全国で上映されるので、失業問題に取り組む人々、福祉行政に携わる人々、女性の貧困問題に取り組む人々、フードバンクや貧困支援に取り組む人々、新自由主義や民営化の問題に取り組む人々が、運動のなかで、あるいは媒体において、それぞれの立場から優れた映画評をすでに書いているだろうし、今後も共感の輪は広がっていくだろう。
ここでわざわざ同じようなことを書く必要もないし、そんな能力は僕にはない。
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この映画につけられた「隣の誰かを助けるだけで、人生は変えられる」という日本の悪しきコマーシャリズムに彩られたキャッチコピーにはげんなりもする。
ケン・ローチが言いたいのは個人の人生ではなく「システム全体を変えろ」ということだとおもう。これは憶測ではない。映画のパンフレットに掲載されているインタビューで、この映画が描いたネオリベ社会について次のように述べている。
「それは大企業による意図的なものなのです。いかに利益を最大化できるかが、大企業の目的です。……こうした仕組み[システム]が、政治家を動かし、貧困を生み出しているわけです。……でも、こうした仕組みを動かすのは、悪人とは限らない。それこそが問題の核心なんです。」
つまり個人の問題ではなく、システムの問題だということだ。
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この映画で描かれているのは新自由主義のひどさだけではない。
この映画で描かれている社会は「労働組合は……このシステムを変革しようとしないならば、そして自己の組織された諸力を労働者階級の最終的解放のため、つまりは賃金制度の究極的廃絶のための梃子として用いないならば、全面的に失敗する」というマルクスが警告を発した労働組合が「全面的に失敗」した社会である。
つまり、資本主義システムの根幹である生産手段の私的所有とその生産関係である賃労働を廃絶することを目指さず、「公正な一日の労働に公正な一日の賃金を!」という旗印、つまり修正資本主義の枠内から一ミリもはみ出ることのない労働運動の方針が、マルクスの時代からサッチャリズム、そしてブレアのニューレイバーに至るまで重ねに重ねられた結果、社会運動の「全面的敗北」を招き、新自由主義の「全面的勝利」が実現した社会が描かれていた。
ここでマルクスやエンゲルスの言葉を引き合いに出したことは、それがイギリスの労働組合運動にたいして向けられた言葉(1880年代にだが)ということにだけにかこつけているわけではない。それはケン・ローチの考えにも通じるからだ。
当時マルクスとともにイギリス労働運動への厳しい提言を続けたエンゲルスは、「公正な一日の労働に対する公正な一日の賃金」という当時のイギリス労働組合の中心的スローガンは、資本主義的生産関係に内包される賃金制度の問題をそのままにしたままだとして、そうではなく社会主義の実現に向けた運動スローガンとして「賃金制度の廃止!」を闘争の中心的課題にすべきだと提言する1881年5月の一連の文章のなかでこう述べている。
「労働手段――原料、工場、機械――を、働く人民自身の所有にうつせ!」
ケン・ローチは映画のパンフレットに掲載されているインタビューで、新自由主義の問題を解決する方法があるのかと問われて、彼はこう答えている。
「あります。共同でものを所有し、決断も共同でする。独占しようとしないこと。過剰な利益を追求せず、誰もが協力しあい、貢献し、歓びを得られるような仕組み[システム]を作り、大企業とは違う論理で、経済をまわしていくこと。それは、社会主義と呼ばれるものです。ここで言う社会主義は、旧ソ連のものとは違います。あくまで民主主義の上で成立する、社会主義なんです。」
それは、もちろんニュー・レイバーや欧州社民の「社会主義」――それは「公正な一日の労働に対する公正な一日の賃金」の旗印にとどまり続けることで「全面的な失敗」を日々準備し続けている――そして、ロシアの2月革命によって権力の座に押し上げられてしまった臨時政府の「社会主義」者のそれとも違うだろう。
彼らの「社会主義」は、「共産党宣言」のなかで「ブルジョア社会主義」と呼ばれたものだ。以下、「共産党宣言」から抜粋紹介する。
(以下、抜粋)
ブルジョアジーの一部は、ブルジョア社会の存続をはかるために社会の欠陥をとりのぞきたいとのぞんでいる。
(略)
この社会主義の……もっと実践的な第二の型は、労働者階級のためになるのは、あれこれの政治上の改革ではなくて、ただ物質的生活関係すなわち経済関係の改革だけだということを証明してみせることによって、労働者階級にあらゆる革命運動をきらわせようとこころみた。
この社会主義のいう物質的生活関係の改革とは、革命的方法によってはじめておこないうるブルジョア的生産関係の廃止ではけっしてなく、この生産関係の土台のうえでおこなわれる行政上の改良である。したがって、資本と賃労働との関係には何の変化もくわえずに、たかだかブルジョアジーにその支配の費用をへらしてやり、その国家財政を簡単にしてやるにすぎない。
ブルジョア社会主義は、たんなる演説文句の修辞になるときにはじめてそれにふさわしい表現を得る。
労働者階級の利益の自由貿易![安倍晋三や習近平の自由貿易!]、労働者階級の利益のための保護関税![トランプの保護貿易!]、労働者階級の利益のための独房監獄!
これがブルジョア社会主義の、最後の、そしてただ一つの本気に語られたことばである。
(以上、抜粋)
引用が長くなったが、「わたしは、ダニエル・ブレイク」について、サッチャーやレーガン、中曽根に代表される新自由主義を批判するだけでは、決してケン・ローチの意図を理解することはできないだろう。システムそのものへの根源的な批判と、それに代わる代替案を今こそ語り始める時だ。「システム」とはいうまでもなく行政的な制度のことではなく、生産手段の私的所有と賃労働という資本主義生産関係のことである。
この映画をきっかけに発足した、有料入場者1名につき50円の寄付が行われる「ダニエル・ブレイク基金」にたいして寄せたメッセージでも、ケン・ローチは、システムの変革こそが重要だ、と述べている。
「チャリティは一時的であるべきということです。……チャリティがいらないように社会のシステムを変えるべきで、同時に政治的運動も欠かせません」
ケン・ローチ万歳!
ダニエル・ブレイク万歳!
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