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24-8=11?  働き方改革実現会議の欺瞞

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昨日、首相官邸で10回目、そして最後の「働き方改革実現会議」が開かれた。

◎働き方改革実現会議(10回目)
首相発言、写真、映像
配布資料等
働き方改革実行計画(案)
働き方改革実現会議(官邸)

参加メンバーは、連合の神津里季生会長と若干の学者を除けばほとんどが経営者側の人間であり、その意味では「働き方」ではなく「働かせ方」を議論する会議である。

そこで了承された実行計画はこう述べている。

「世の中から『非正規』という言葉を一掃していく。そして、長時間労働を自慢するかのような風潮が蔓延・常識化している現状を変えていく。さらに、単線型の日本のキャリアパスを変えていく。」

首相をはじめすべての関係閣僚と労使の主要な団体が参加したこの会議は、昨年9月からハイペースで行われてきた。その間、電通の新入社員の過労自殺の労災認定(長時間労働)、東部労組メトロコマース分会の不当判決(非正規問題)、郵政産業労働者ユニオンの全国スト、クロネコヤマトの宅配時間制限など注目すべき労働課題があった。

しかし実行計画はあくまで、「非正規という言葉を一掃していく」のであって、非正規という差別的な雇用契約を一掃するのではないし、「長時間労働を自慢するかのような風潮が蔓延・常識化している現状を変えていく」のであって、長時間労働そのものを規制するのではないし、「線型の日本のキャリアパスを変えていく」として、労働者をさらなる競争という不安定な境遇におくことを明言している。

そもそもおかしな話ではないか。

「何時間でも残業させることができる抜け穴があるので、上限規制をする」といって出されたのが、過労死リスクがぐっと増大する100時間未満。では99時間59分59秒ならリスクはないのか。

資本家政府のいう「抜け穴」とは、労基法では原則禁止とされている残業を、労使の協定で可能にさせる労基法36条(三六協定)で、特別条項付き協定を結べばいくらでも働かせることができる、というものだ。

しかし特別条項であっても、いくらでも働かせることができるわけではないし、特別条項の枠内であっても法定割増率を超える支払いの努力義務や延長時間の可能な限りの削減の努力義務が、7年前の2010年4月1日から明記されることになった。民主党政権の時代だ。

時間外労働の限度に関する基準(厚労省)

もし仮に、政府の言う「抜け穴」が長時間労働の原因であるなら、問題はそれが努力義務にとどまっていることであり、さらにいえば特別条項付き協定というルールを廃止することで、資本家政府の言う「抜け穴」は塞がるのだ。政権交代後もまったくその努力すらせず、特別条項に課した規制そのものを無意味なものにする今回の「働かせ方」改革は、「抜け穴」を一層広げて、正々堂々と長時間労働が可能になることで、「長時間労働を自慢するかのような風潮が蔓延・常識化している現状を変えていく」という目的を達成することは可能だろう。長時間労働が当然になれば、それを自慢する必要などなくなるからだ。

そもそもおかしな話ではないか。

長時間労働を規制するために、インターバル規制を導入する? EUでは24時間につき最低連続11時間の休息が定められているので、「事業者は、前日の終業時刻と翌日の始業時刻の間に一定時間の休息の確保に努めなければならない旨の努力義務を課し、制度の普及促進に向けて、政府は労使関係者を含む有識者検討会を立ち上げる。また、政府は、同制度を導入する中小企業への助成金の活用や好事例の周知を通じて、取り組みを推進する。」

今日の資本主義の労働運動のスタンダードは、8時間は労働のため、8時間は休息のため、そして8時間は自分のため、というスローガンだ。もちろん世界中でそれが法的にも、現実的にも実現していない。

それにしても、資本主義日本では、いつから

24(時間)-11(時間)=8(時間)

になったのか。

もし努力義務のインターバルを言うのなら一日24時間から労働時間8時間を引いた16時間でないとおかしいだろう。それとも気候変動か原発事故のせいで一日5時間も短くなってしまったのか。

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「労働日[=労働時間]をその肉体的に可能な最大限度まで引きのばそうとすることこそ、資本の不断の傾向である。なぜなら、それと同じ度合いで剰余労働が、したがってまたそこから生じる利潤が増大するからである。」

これは1865年6月にマルクスが行った演説をまとめた『賃金・価格・利潤』の一節だ。この演説は、資本主義においては労働力商品の価値はそれを作り出す費用に等しいので、労賃があがれば生産費もあがるので、結局賃上げ闘争は意味がない、という国際労働者協会(第一インターナショナル)の同志ウェストンの主張に反論したものだ。

マルクスによる150年前の次の一節は、現代の長時間労働の惨状を彷彿とさせる。

「時間は人間の発達の場である。いかなる自由な時間も持たない者、睡眠や食事などにより単なる生理的な中断を除いて、その全生涯が資本家のための労働に吸い取られている人間は、役畜にも劣る。かれは単に他人の富を生産するための機械にすぎないのであり、体は壊され、心は荒れ果てる。だが、近代産業の全歴史が示しているように、資本は、阻止されない限り、しゃにむに休むことなく労働者階級をまさにこのような最大限の荒廃状態になげこむことだろう。」

マルクスは続けてこう述べている。

「現在、工場法が適用されているすべての産業部門では労働日の一定の制限がそんざいしているのだが、その場合でさえ、これまでの水準の労働の価値を維持するためだけであっても、賃上げが必要になるかもしれない。というのも、労働の強度を増大させることによって、以前は2時間で支出したのと同じだけの生命力[労働力]を1時間で支出させることができるからである。」

「労働強度の増大、すなわち一時間に支出される労働量の増大が、労働日の長さの短縮とおおむね適切な比例関係を保っているのなら、労働者は利益を得ることだろう。だがこの限界を超えるなら[つまり、労働時間が半分になっても、支出する労働量が半分にならないなら]、労働者はある形態で得た利益を別の形態で失うのであって、その場合、10時間労働は以前の12時間労働と同じくらい破壊的なものになるかもしれない。」

つまり労働時間が短くなっても、そのぶん労働強化が進めば、現代の8時間労働は以前の10時間労働と同じくらい破壊的なものになるかもしれないのである。

(ついでにいえば、前述の「24(時間)-11(時間)=8(時間)」だが、資本主義の利潤は、その価値以上を生み出す剰余労働時間を通じて、資本家が剰余価値を搾取することで生まれるというのが、「賃金・価格・利潤」で述べられている。たとえば、本当は労働者は4時間働けば、それにつかった労働力を再生産する価値を生み出すことができるが、資本の利潤のためにさらに4時間働かなければならない、ということだが、前述の「24(時間)-11(時間)=8(時間)」によって消えてしまった5時間は、まるでこの剰余労働=資本家に奪われている労働時間のようであり、資本家にとってはあながち間違った等式ではないのだな、と個人的、非論理的には思っている。)

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さて、「働かせ方」改革の行動計画にもどる。行動計画では冒頭でアベノミクスが成功していることを強調している。

「4年間のアベノミクス(大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略)は、大きな成果を生み出した。名目GDP は47 兆円増加し、9%成長した。長らく言葉すら忘れられていたベースアップが4年連続で実現しつつある。有効求人倍率は25 年ぶりの高い水準となり、史上初めて47 全ての都道府県で1倍を超えた。正規雇用も一昨年増加に転じ、26 か月連続で前年を上回る勢いである。格差を示す指標である相対的貧困率が足元で減少しており、特に調査開始以来一貫して増加していた子供の相対的貧困率は初めて減少に転じた。日本経済はデフレ脱却が見えてきており、実質賃金は増加傾向にある。」

それにもかかわらず、個人消費や設備投資など景気が伸び悩んでいるのは、

「少子高齢化、生産年齢人口減少すなわち人口問題という構造的な問題に加え、イノベーションの欠如による生産性向上の低迷、革新的技術への投資不足がある」

という理由をあげ、

「日本経済の再生を実現するためには、投資やイノベーションの促進を通じた付加価値生産性の向上と、労働参加率の向上を図る必要がある。」

と結論付ける。

つまり労働生産性の向上=労働強化と雇用労働者の増加こそが、アベノミクスの成功にとって決定的に重要だということである。

そして、

「画一的な労働制度、保育や介護との両立困難など様々な壁が立ちはだかる。こうした壁を一つひとつ取り除く。これが、一億総活躍の国創りである。」

と述べて、労働強化と賃労働の拡大をつうじた「一億総活躍=活用」による「国創り」を目指すとしている。資本家の、資本家による、資本家のための国創りとしては、ごくごく当然の考え方だろう。

資本主義社会では資本家が労働力商品を購入し、それを活用して搾取することによってのみ、利潤を得ることができるのだから、労働者を増やすか、労働時間を延長するか、労働強化をするかどうかというのは資本主義の死活にかかわる。

その意味で、安倍首相がこの「働かせ方」改革を「後世において振り返れば、2017年が日本の働き方が変わった出発点として、間違いなく記憶されるだろうと私は確信をしております」と評価したことは、一定の真実があるだろう。

これは、構造改革、とくに労働生産性の向上=労働強化という「働かせ改革」こそがアベノミクスの肝であると主張してきた日本資本家新聞の考え方と変わるところがない。

今日の日本資本家新聞の社説では、「成長を後押しする労働改革は力不足だ」として、さらに職安をはじめ公共サービスの民営化=私物化を提唱している。まるで森友学園の事件がなかったかのように、資本家の貪欲さをよく物語っている。

成長を後押しする労働改革は力不足だ(日経新聞2017/3/29)

先に紹介したマルクスの「賃金・価格・利潤」では、労働者の賃上げ闘争が、労働強化の企みを阻止する意味があるとしてこう述べている。

「労働強度の増大に見合った賃上げを求めて闘うことによって労働者は、資本のこのような傾向を阻止しようとしているのであり、自己の労働の減価と労働者種族の衰弱に抵抗しているにすぎないのである。」

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昨年9月からの約六カ月のあいだに、連合と経団連という、日本資本主義を支える二大支柱の労使合意によって、この行動計画が合意に至ったこともまた、安倍首相をして「後世において振り返れば、2017年が日本の働き方が変わった出発点として、間違いなく記憶されるだろうと私は確信をしております」と言わしめたと言えるだろう。

連合を最大の組織的支持基盤としてきた野党は、アベノミクスは2%の物価上昇を実現しておらず失敗だという旨の批判をしている。しかし他でも書いたが、この批判そのものが失敗である。2%の物価上昇を達成できれば成功なのかといえば、そうではないからだし、また2%の物価上昇のために、資本家政府は「働かせ方」という資本主義にとって最重要の課題に取り組んでいるからだ。

アベノミクスという日本資本主義の危機の表現に対する批判は、もっと根源的でなければならないはずだ。

その意味でも、「賃金・価格・利潤」をめぐるマルクスとウェストンとの論争は、あらためて現代に紹介されるべきものである。

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マルクスに批判されたウェストンは、労働組合不要論という、まるで右翼修正主義者であるかのような扱われ方(あるいはとらえられ方)をしているが、じつは全くそうではなく、結論的にはマルクスと同じく「賃労働の廃止」という資本主義システムそのものの廃絶を実現することを主張していた。

マルクスは「賃金・価格・利潤」の冒頭でこう述べている。

「その結論においては、彼[ウェストン]の諸命題の根底にある正しいと思われる思想に私も同意しているのであり、そのことは彼も理解してくれるだろう。」

この「結論」とは、「賃金・価格・利潤」の最終章「労資間の闘争とその諸結果」でこう述べられれている事柄である。

「資本との日常的紛争[例えば賃上げ]において臆病にも膝を屈するならば、労働者は何らかのより大きな運動を開始する資格を自ら失うことになるのは間違いないだろう。それと同時に、そして、賃金制度に内在する一般的な隷属性を全く別にしても、労働者階級は、こうした日常闘争の最終的な効果に関して課題に見積もるべきではない。」

「現在のシステムが労働者に押し付けるあらゆる悲惨さにもかかわらず、それは同時に社会の経済的再構築に必要な物質的諸条件と社会的諸形態をも生み出しているということを。『公正な一日の労働に公正な一日の賃金を!』という保守的なモットーに代えて、『賃金制度の廃止を!』という革命的合言葉をその旗に書き込まなければならない。」

「労働組合は、資本による侵害行為に抵抗する中心としては有効に働く。労働組合がその力を無分別に使用するならば部分的に失敗する。現存システムの諸結果に対してゲリラ戦争を遂行することにのみ自己を限定して、それと同時にこのシステムを変革しようとしないならば、そして自己の組織された諸力を労働者階級の最終的解放のための、つまりは賃金制度の究極的廃絶のための梃子として用いないならば、それは全面的に失敗する。」

働き方改革会議に参加する連合は、現存システムの諸結果に対してゲリラ戦争を遂行しているかのようだ。

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光文社古典新訳文庫の『賃金・価格・利潤』(2014年)の訳者である森田成也さんは、膨大な解説のなかで、「マルクス-ウェストン論争の今日的意義」としてこう述べている。やや長いが重要なので引用する。

(以下、引用)

とりわけ、労働者の賃金低下がとめどなく進行している現代日本においては、賃金引き上げの意義を理論的に根拠づけることは、すぐれて今日的な意義を有している。しかし、さらに二つの意義をつけ加えておきたい。

まず第一に、この論争が、改良と革命、組合闘争と政治闘争との関係をめぐる論争の一つのプロトタイプをなしていることである。気をつけなければならないのは、ウェストンが組合無用論を唱えたのはけっして右派的立場からではなく、その逆に、いわば左派的な(より正確には空想的社会主義的な)立場からであったということである。彼が依拠した理論が俗流経済学のそれであったので、ウェストンはあたかも右からの批判者であるかのような印象を持たれがちだが、実際にはウェストンは、偉大な空想的社会主義者であるロバート・オーウェンの信奉者であり(それゆえマルクスは講演のなかでわざわざオーウェンの名前をあげてウェストンを批判したのである)、創設以来の国際労働者協会の幹部でもあった。また、後にパリ・コミューンをめぐってマルクスが起草した声明文(『フランスにおける内乱』)にも署名している。

(略)

マルクスの応答は二面的なものであった。すなわち、ウェストンの組合無用論に厳しい反論をしつつ、かつ、ブルジョアジーの階級支配の転覆なしには労働者の抜本的な地位改善は望めないといウェストンの結論を支持することであった。

(略)

第二に、第一の点と不可分に関連しているが、このマルクス-ウェストン論争が、客観的法則性と主体的闘争との関係をめぐる論争のプロトタイプにもなっていることである。ウェストンは「客観的な」経済法則を持ち出しつつ、その法則に反する活動[つまり賃上げ闘争]をしても結局は無駄であると説いている。それに対するマルクスの回答は、そうした客観的法則(それが正しく理解されたとしても)が労働者の運命を自動的に決めるわけではない、ということである。法則の存在そのものを否定するのではないが、その法則の作用規範と貫徹の度合いには大きな幅があるのであり、労働者の闘いはその幅を利用することができるし、できるだけ労働者自身に有利なように拡張することができるということである。

(以上、引用おわり)

「働かせ方」改革を巡る攻防のなかで、このシステムを変革することを目指し、自己の組織された諸力を労働者階級の最終的解放のために、つまりは賃金制度の究極的廃絶のための梃子として用いようとする現代のマルクス-ウェストン的論争と実践を復活させよう。

+ + + + +

長くなったが、もうひとつだけ、「働かせ方」改革の実行計画の冒頭で述べられている以下の文言について触れておきたい。

「日本経済再生に向けて、最大のチャレンジは働き方改革である。『働き方』は『暮らし方』そのものであり、働き方改革は、日本の企業文化、日本人のライフスタイル、日本の働くということに対する考え方そのものに手を付けていく改革である。」

これに対して「労働者に祖国はない」などと空想的社会主義を語る代わりに、おなじく「賃金・価格・利潤」からの一節を紹介したい。

(以下、引用)

さまざまな国の標準賃金ないし標準的な労働の価値を比較するなら、また、同じ国のさまざまな歴史時代におけるそれらを比較するなら、労働の価値そのものが固定的なものではなく、可変的な大きさであり、他のあらゆる商品の価値が不変なままであると仮定してさえそうである、ということがわかるだろう。

(略)

[賃金の]実際の水準を定めることは、資本と労働との絶え間ない闘争によってのみ解決される。すなわち、資本家は絶えず賃金をその肉体的最小限にまで引き下げ労働日をその肉体的最大限にまで引き延ばそうとする傾向があるのに対して、労働者は絶えずその反対の方向に向けて圧力をかけようとする。このことは闘争当事者たちのそれぞれの力に帰着する。

イギリスにおける労働日の制限に関しては、他のあらゆる国と同様、立法の介入によってしか解決されなかった。そして外部からの労働者の絶え間ない圧力なしにはこのような介入はけっして起こらなかったろう。いずれにせよ、このような結果は、労働者と資本家とのあいだでの私的合意によっては達成されなかった。そのためには全般的な政治的行動が必要だった

(以上、引用おわり)

労働者と資本家と、資本家政府とのあいだでの私的合意ではなく、「日本の企業文化、日本人のライフスタイル、日本の働くということに対する考え方そのものに手を付けていく改革」としての公正な一日の労働に公正な一日の賃金を!

そして賃金制度の廃止を!

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