
「しらない」「記憶にない」「官僚が勝手にやった」などなど、築地市場から豊洲市場への移転を巡る都議会百条委員会での石原や浜渦の証言は、安倍や稲田が森友学園の籠池理事長をトカゲのしっぽ切りのように使い捨てようとしているのと同じように、無責任を通り越して、これこそ「美しい国」(安倍)の「日本人のアイデンティティ」(石原)だなと思う。功績は自分の手柄、失敗は部下の所為という、パワハラ上司の典型だが、「男らしい」という言葉にふさわしい醜態です。
「こうとう」を名乗っているので、豊洲市場の問題にはずっと関心を持っていたのですが、あふれる情報に流されてなかなかかけませんでした。
築地市場の移転については、いろいろと論点はあると思いますが、これまでの検査では検出されなかったか基準以下だった地下水に含まれる有害物質が、知事が変わってから行われた今回と前回の調査で基準の100倍のベンゼンや、不検出が基準であるシアンなどが検出されているというニュースを読んで、エンゲルスのこんな言葉を思い出しました。
「われわれ人間が自然にたいして得た勝利のことであまりうぬぼれないようにしよう。このような勝利の一つ一つにたいして、自然はわれわれに報復する。」
ここで資本主義の打倒を目指したエンゲルスに触れることはおかしなことではありません。
・豊洲市場の土地の所有者だった東京ガスの初代社長は「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一
・現在の有害物質は、1923年の関東大震災のがれきでつくった豊洲埋め立て地に、戦後の1956年に東京ガスが都市ガス工場を建設、稼働させたことによるものであり、都市ガスの普及は戦後の行動経済成長を担うために増大した都市労働者階級の都市生活環境の整備の一環だったこと
など、東京ガスによる都市ガス(および原材料である石炭から発生する大量の有害物質の)製造は、日本資本主義による自然の支配とそれに伴う環境汚染と切っても切れないからです。
さらにエコ社会主義の観点からいえば、巨大資本の利潤のために莫大なエネルギー浪費を伴う大量生産・大量消費システムをささえる市場のあり方も問題にすべきですが、それはまた別の機会に。
さらに、さらに言えば、オリンピック会場問題や豊洲市場問題で、守旧派勢力にかかんに挑戦しているかに見える小池百合子都知事すすめる最大の政策が「東京都を国際金融都市に」という、都民ファーストとはまったく逆行する政策目標を批判する視点にも資本主義批判は有効なのですが、これもまた後日。
さて、その「エンゲルスの言葉ですが、以前、ナオミ・クラインのセリフとの関連で引用紹介(こちら)していますので、以下再掲しておきますが、そのときには引用しなかったのですが、今回の問題にもつながる土地所有を論じた箇所があるのでそれも追加しておきます。
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ナオミ・クラインは二度ほど、次のようなセリフを語っています。
「わたしたちは繰り返し自然を支配していると言い続けている。―――それは当たっていない。自然は逆襲できる。」
「わたしたちが自然を制御できるというふりをやめること。そして、私たちが自然の一部であるように行動しはじめること。」
これを聞いて、ちっぽけなエコ・マルクス主義者としては、フリードリヒ・エンゲルスの「猿が人間になるについての労働の役割」(1876年執筆)を思い出さずにはいられない。
この短い、そして未完の文章は、「労働は自然とともにあらゆる富の源泉」であり、「労働が人間そのものをつくりだし」、「人間は…自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである」という主張で有名だが(また先住民に対する差別的形容は大問題なのだが)、じつは最後の部分で、ナオミ・クラインを彷彿とさせる分析を展開している。
「けれども、われわれ人間が自然にたいして得た勝利のことであまりうぬぼれないようにしよう。このような勝利の一つ一つにたいして、自然はわれわれに報復する。どの勝利も、はじめはわれわれの予定した成果をもたらしても、二次的、三次的には、まったく違った、予想しなかった作用をひきおこし、そのため最初の成果が帳消しになることも少なくない。」
エンゲルスは、「自然の報復」として、古代メソポタミアやギリシャなのでの森林伐採による貯水池の枯渇、アルプス山腹森林伐採による牧牛業の壊滅、ジャガイモの伝来による「るいれき」病の拡大をあげます。
そして、人間が自然の一部であることも語っています。
「……われわれが自然を支配するのは、征服者が他国民を支配するような仕方で、また自然の外に立っているものがやるような仕方で支配するのでは決してないこと、――むしろわれわれは、肉と血と脳髄をそなえたままで自然の一部であり、自然のまんなかにいるのだということ、自然にたいするわれわれの支配は、われわれが、他のどんな生物にもできないことだが、自然の法則を認識し、それを正しく応用できる点につきること、これである。」
「自然の支配」については、マルクス主義の環境無視の生産力史観の問題として批判されてきたが、エンゲルスのいう「自然の支配」とは、まさに気候のためにたちあがっている多くの人々と同じように、「自然の法則を認識し、それを正しく応用」することを指しています。
エンゲルスはさらに続けます。
「今世紀(19世紀)にはいって自然科学が長足の進歩をとげてからは、われわれは、少なくともわれわれのもっとも日常的な生産行動については、それから起こる遠い自然的結果までも知り、したがってそれを支配できるようにますますなっている。しかしそうなればなるほど、ますます人間は自分が自然と一体であることを重ねて感じるばかりでなく、またさとるようになるであろう。」
少し前の箇所でメソポタミアやアルプスなどでの「自然の報復」=生産活動による「自然的結果」を示しましたが、さらに生産活動による「社会的結果」についてもそれなりの年月をかけて知るようになったと述べます。
欧州に「るいれき」病をもたらしたジャガイモの拡大は、アイルランドの100万の民衆を襲い、200万の民衆を新大陸に送り出すことになった。アラビアでアルコール醸造が発明されたが、それは新大陸の先住民たちを滅ぼす魔の薬となった。コロンブスの新大陸「発見」は欧州に奴隷制を復活させた、蒸気機関車に象徴される産業革命は富の一局集中と貧困の拡大を招いた…。
しかしこれらは当初から予想されたことではなく、「ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだに階級闘争--ブルジョアジーの打倒と一切の階級対立の廃止とに終わるほかない階級闘争--を生みだすはずの道具を作り上げたのだということは、知らなかった。」
こうして長い年月をかけて発展した科学知識によって、自らの生産行動による将来の自然的結果だけでなく、さらに「社会的結果」をも理解できるようになっているとエンゲルスは書いています。この箇所も、現代の気候変動をめぐるたたかいを彷彿とさせます。
「われわれは、ながい、ときにはきびしい経験をつうじて、また歴史的材料の収集と研究をつうじて、しだいにわれわれの生産活動の間接的な、遠い社会的結果をもはっきり理解できるようになっており、その結果われわれがこの結果をも支配し規制する可能性が生まれている。しかし、この規制を実現するためには、たんなる認識以上のものが必要である。それには、われわれの従来の生産様式を、それとともにまたわれわれの今日の社会制度全体を、完全に変革することが必要である。」
クライメート・ジャスティス運動は世界中で次のスローガンを叫んできました。
「System change not climate change!」
気候ではなくシステムを変えよう。
従来の生産様式を、今日の社会制度全体を、完全に変革しよう。
すべてを変えよう。
(以下、追加引用です)
「余分の土地がつきはてたとき、共同所有も衰退した。しかし、より高い生産形態はすべて、種々異なった階級への住民の分離にみちびき、それとともに支配階級との対立にみちびいた。その結果、生産が被抑圧者のきわめてとぼしい生計の支えに限られなかったかぎり、支配階級の利益が生産の推進要素となった。このことがもっとも完全に実現されているのは、いま西ヨーロッパで支配的な資本主義的生産様式においてである。生産と交換を支配している個々の資本家は、彼らの行動のもっとも直接的な効果しか気にかけない。それどころか、この効果でさえ――生産または交換される物品の有用性に関するかぎり――まったく二の次の問題になっている。売却によって得られる利潤が、唯一の動機となる。」
東京ガスのことを言ってるようです。
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