
「叫ぶ男は、レオン・トロツキー。ロシア革命の立役者だが、スターリンとの権力闘争に敗れ、放逐されていた。1932年、そのトロツキーがデンマークの学生相手に講演することになった。」
という文章から始まる東京新聞2月12日の30面(最終面)の「TOKYO発 カジュアル美術館」という記事には、ロバート・キャパのデビュー作となった有名な一枚がでかでかと掲載されている。「TOKYO発 カジュアル美術館」は、たぶんいつもカラーのページだが、キャパの写真は他の2点も含めすべて白黒。しかしそれでもキャパのトロツキーの写真はいつもながら迫力満点。これらの写真は2月28日まで横浜美術館で開催されているコレクション展の一部。
1917年のロシア十月革命から15年を経た1932年11月のコペンハーゲン演説は、スターリンの一国社会主義との闘争に敗れた左翼反対派の指導者、トロツキーがソ連から追放され、トルコ・プリンキポ滞在中に、デンマーク社会民主党の学生組織によって講演依頼を受けて、さまざまな制約下でコペンハーゲンに入国して行われた演説だった。
今年はロシア革命100周年ということもあり、この写真が紹介されることにも意味はあるだろう。また写真だけでなく、「ロシア革命の擁護」と題したトロツキーのコペンハーゲン演説そのものが改めて紹介されてもいいはずだ。
当時、帝国主義者から、社会民主主義者から、そしてスターリニストによって貶められ、単純化されていたロシア革命について、有名な複合的発展の法則をはじめとして、「ちょうど完成したばかりの『ロシア革命史』の精髄をかたってきかせた。」(ドイッチャー)
2時間ほどのコペンハーゲン演説は次のような内容で構成されている。
はじめに/革命の客観的要因と主体的要因/中間考察/十月革命に関する問題提起/歴史的後進性の概念/革命前ロシアの社会構造/農民層/民族問題/永久革命/ボリシェヴィズム/革命の犠牲/労働生産性の成長/二つの文化/革命と国民の性格/経済を理性に従属させる/人類の発展
講演タイトルからもわかるように内容の大半、そしてそれぞれの編訳者解説も、「ロシア革命」そのものに焦点を当てているが、今回の改めてこの演説を読み返して、ぼくが一番関心をひかれたのは、「経済を理性に従属させる」と「人類の発展」という演説の最後の二つの部分だ。
「経済を理性に従属させる」は、社会主義がどのような社会を目指しているのかということを原則的に説いたものである。「人類の発展」は、社会主義や共産主義でさえもが人類の親の解放にとっては始まりにすぎないことを論じている。この最後の二つの箇所は、東京新聞の記事が形容したような「叫ぶ男」のイメージとは程遠い。
世界恐慌の衝撃にいまだあえいでいた当時の社会状況と、今日の未曾有の金融恐慌とその後の弥縫策として世界中で一斉に取られた金融緩和(それはまた次の危機を準備する)という状況が重なるなかで、極めて現代的な、そして未来的な内容を持つものである。全文が収録されている雑誌や著書を手に取ってもらいたいが、その一部を引用紹介することは許されるだろう。
これは資本主義下における「理性」や「道徳」や「清貧」や「内需拡大」や「反グローバル化」によって、よりよい社会が可能であるというような、やや流行りもすたれた「オルタナティブ」とは違う、資本主義に変わる真のオルタナティブ構想の一つであるとともに、人間と自然の関係を考える上で、さらに慎重な議論がひつようなるだろう。
+ + (以下、引用) + +
「資本主義は、世界システムとしては時代遅れになった。それは、人間の力と富を高めるという本質的使命を果たさなくなった。人類がこれまでの到達段階にいつまでもとどまることは不可能である。生産諸力の強固な発展と、適正かつ計画的な、すなわち社会主義的な生産・分配の組織によってこそ、人間は――すべての人間が――品位ある生活水準を保証され、同時に自己のつくる経済に自由を感じるという得がたい感情をもつことができるようになる。」
「ここでいう自由には二つの意味がある。第一に、人間はもはや、生活の大部分を費やして肉体労働するよう強制されはしない、ということ。第二に、人間はもはや市場の法則に、すなわち己のあずかり知らないところで生じる隠れた正体不明の力に左右されない、ということである。人間は経済を自由に、すなわち計画的に、羅針盤を手に建設するようになろう。ここで肝要なのは、社会の構造を徹底的に精査し、社会のあらゆる秘密を解明し、あらゆる機能を人間集団の理性と意志に従わせることである。」
「この意味において、社会主義は人類の歴史的前進の新たな一段階を画するものでなくてはならない。はじめて石斧を武器としたわれわれの祖先にとっては、自然の全体が、不可思議な敵対的諸力の企てる謀りごとであった。以来、自然諸科学は実用的なテクノロジーと手を結び、自然の内奥の秘密までも解き明かしてきた。電気エネルギーにより、物理学者は原子核について判断を下す。科学が錬金術の課題を易々と解決し、堆肥を金に、金を堆肥に変換するようになる時代の到来も、遠いことではない。かつて悪魔と自然が猛威をふるっていた場に、いまや人間の工業的意志がますます支配を及ぼしつつある。」
「ところで、自然と国家とのあいだに位置するのが経済である。技術は、古来の自然力――地、水、火、風――の専制からは人間を解放したが、結局は技術それ自身の専制に人間を従属させただけであった。人間は自然の奴隷たることをやめたが、いまや機械の奴隷となり、さらに悪いことには、需要と供給の奴隷となった。現在の世界恐慌が特に悲劇的なかたちで示しているのは、大海の底に潜り、成層圏にまで飛翔し、眼に見えない電波で地球の反対側と話を交わす人間が、この誇り高い、大胆不敵な自然の支配者が、いかに己れ自身の経済から生まれる見えない力の奴隷になったままであるか、ということだ。」
「現代の歴史的課題は、制御のきかない市場の運動を理性的な計画に替えること、生産諸力を規制することにある。この新しい社会的基礎の上に立ってこそ、人間は疲れた背筋をのばすことが可能になり、そして――選ばれた者だけでなく、あらゆる男女が[近代において最初に同性愛者に対する罪を廃止したロシア革命の立役者としては「男女を問わず」とした方がより適切だったであろう:引用者]――、思想の世界において完全な権利を持つ市民となるのだ。」
+ + (以上、引用) + +
引用がながくなった。「だが、これはなお道程の終末ではない。それどころか、それは始まりにすぎない。」から始まる最後の「人類の発展」の章については、機会があればまた論じてみたいが、最後にひとつだけ。
2000人を前に行われたトロツキー最後の大衆的演説となったコペンハーゲン演説は、資本主義では自然と労働を搾取して「商品」を作り出すことが目的であることに対して、ポスト資本主義の社会においては、それまでの科学の英知を誰もがいとも簡単に使って、人間自身の発展を目的としてだけ労働が行使されるとして、次のように締めくくっている。
「人間社会における無政府的な諸力を意のままに制御しうるようになれば、人間は自己自身の制作に、化学者の乳鉢とレトルトをもって、とりかかるであろう。人類ははじめて、自己自身を原材料として、あるいは、せいぜいのところ肉体的・精神的な半製品としてみなすようになる。矛盾に満ち、均衡を失した現在の人間は、新しい、いっそう恵まれた人類に道を拓くであろう。この意味でも、社会主義は必然の王国から自由の王国への飛躍となるのである。」
トランプのTPP離脱に対して「自由貿易を守れ!」の叫び声が、安倍批判をする野党のなかからも挙げられている。「自由貿易」の「自由」と「自由の王国」の「自由」とは、飛躍以上の距離があることは記憶しておいていいだろう。
東京新聞の記事は「人間に迫り続けて」と題して、トロツキーではなくキャパの仕事を紹介する内容になっている。
記事は「キャパは戦争写真で活躍したが、彼が撮ったのは人間だった。」と述べている。
トロツキーはロシア革命で活躍したが、彼が語ったのは人間だった、ということである。
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日本語訳は、『トロツキー研究』5号「特集 10月革命の擁護」(1992年秋号)や『トロツキー著作集1932年下』(2009年)に掲載されている。「ロシア革命の擁護」の日本語版はこちらのウェブサイトでも読めるが、同論文が収録されている『トロツキー研究』5号では、第二部として「1917年の日々」と題して1917年2月から10月に至る渦中の、緊張感と躍動感にあふれたトロツキーの諸論文が収録されている。また『トロツキー著作集 1932年下』には、コペンハーゲンに滞在中のトロツキーに対する学生らのインタビューやそれにまつわる様々な興味深い論文が収録されている。またそれぞれ、訳者解題なども参考になる。
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