ぜんぶ、フィデルのせい

フィデル・カストロが死んだ。人間だれしも死は避けられないが、その死に方は選択可能である。

恥ずかしながら、フィデル・カストロの著作をまともに読んだことがない。ということでフィデルの死について、何か意味のあることをかけそうもない。

しかし先日、「ぜんぶ、フィデルのせい」という2006年にフランスで作られた映画を再度みた。08年に日本で公開された時にも劇場で観て、こりゃすばらしい映画だ、と感じたのだが、あれこれ忙殺されていたのか、その感想はどこにも残していなかった。書くなら今しかないだろう。

フィデル・カストロが死に、アメリカで最悪の大統領就任予定者が「残忍な独裁者が死去した」と発言したことなどをはじめ、世界中のメディアで久々にあの「ヒゲの革命家」がトップニュースで登場したということもあって、DVDを取り寄せて8年ぶりにこの映画を観た。

この予告映像をいい意味で裏切ってくれた、超お勧めの作品。



パリ五月革命から2年後の1970年のパリが舞台。スペイン貴族出身で現在はフランスで活躍する弁護士を父に、ファッション雑誌「マリクレール」の記者を母親に持つ9歳の少女アンナの目線から、ややコミカルだがシリアスにとらえた激動するフランスと世界の社会を扱ったドラマ。

ストーリーは観てからのお楽しみだが、中絶が法的に禁止されていた当時のフランスの女性運動、チリ・アジェンデ政権の誕生に沸くパリ在住の「ヒゲの革命家」たち、超保守的なカトリックの名門校での授業風景、フランコ独裁から逃れたパリ在住スペイン人の苦悩などが、9歳のアンナの体験を通じて描かれる。

貴族や名家出身の両親に育てられ、何不自由ない生活をおくっていたと思われたアンナ一家は、チリのアジェンデ政権の誕生に影響を受け、その生活環境を大きく変えていく。戸惑いと反発を隠さないアンナはそれが「ぜんぶ、フィデルのせい」だと思ってしまう。いっぽう、それを心よく思わない保守的な祖父母や学校との溝も敏感に感じ取る。パリ五月革命以降のラディカルな雰囲気のなかで進歩的な取り組みに傾倒していくアンナの母と父も、じつは誰にも言えなかった過去に自責の念を抱きつつ、アンナやその弟のフランソワたちとともに成長する。

映画のタイトルになった「ぜんぶ、フィデルのせい」のフィデルとは言うまでもなくフィデル・カストロのことだが、とうのカストロは映画にはまったく出てこない。アジェンデは記録映画のひとコマとして登場するが、フィデルはそれすらない。

だが、物語のあちらこちらにフィデルの魂が見え隠れする。たとえばアンナの家にたむろする「ヒゲの革命家」とアンナとの、共産主義についてのちょっとコミカルな会話のなかに。

もちろんそれだけではない。パリ五月革命後でもいまだ家父長制に支配された社会的雰囲気や、そして社会だけでなく進歩的だと自認する自らの抱える保守性に苦悩する女性やフェミニストたちの奮闘の一端を垣間見ることができる。

とにかく内容はぜひ本作品を観てほしいのだが、最後に二つだけネタばれを。

ひとつは、「ヒゲの革命家」たちが、チリのアジェンデ政権の国有化政策をめぐり「国有化した途端に帝国主義者の餌食だ」、「だからこそ我々が手を貸すんだ」という会話が一瞬だけ映るシーン。

ほとんど物語の本編とは関係のないシーンだが、先日観た「チリの闘い」の第三部を思い出した。三部作の「チリの闘い」は、第一部は観る機会を逸してしまい、第二部については感想を書いたが、そのあと第三部を観る機会があった。

第三部は第二部と違い、アジェンデが登場するのは冒頭の3分程度。しかも街頭の市民らに対して、まるで天皇のように手を振りながら車で通り過ぎていくアジェンデの姿だけ。それ以降のほとんどのシーンは、労働者自主管理をめぐる議論やたたかいと言っても過言ではないくらい、僕にとっては「ど真ん中どストライク」の内容だった。

「ぜんぶ、フィデルのせい」では、タイトルにも関連するキューバ革命、パリ五月革命とフランコ独裁体制という社会的状況のほかに、チリ・アジェンデ政権の誕生が重要なモチーフのひとつになっており(ベトナム戦争、ギリシャ軍事政権なども登場する)、上記の「ヒゲの革命家」たちの会話のシーンもそのような状況を反映している。

アジェンデ政権、とくにその重要な一角を担ったチリ共産党が、なかなか主要産業の国有化に踏み込まなかった理由の一つが、そうすることでアメリカ帝国主義を挑発することになるというものだった。映画の会話のシーンはその議論を反映している。

「チリの闘い」第三部では最後に進むにつれ、国有化を求める労働者たちの、労働者自主管理に自信を持ちつつも、それに踏み切らなければ反革命にやられてしまうという必死の叫びが強調されていったと記憶している。どちらの映画でも「国有化」と表現されているが、実際にチリの労働者たちが求めたのは「労働者自主管理」だったのではないか。「社会主義=国有化」という単純なステレオタイプの等号ではなく、「社会主義=労働者自主管理に基づいた国有化」でなければならないのではないか、と「チリの闘い」第三部を観て思ったことを、「ぜんぶ、フィデルのせい」での会話を観て改めて思い出した。

もうひとつのネタばれは、冒頭に書いた「だれしも死は避けられないが、その死に方は選択可能である」に関係する。

映画の後半、さまざまな経験を通じて、それまで何の疑問もなく受け入れてきた学校の教えにも疑問を抱くようになっていたアンナは、スペイン・フランコ体制下で従順に生きることを拒んでパリに逃れてきた父親の苦悩を知ることになるスペインへの旅から戻ったあとの授業で、聖書の教えを説いていたシスターから、檻から逃げ出したヤギがどうなったかという質問される。

シスター「ヤギはどうなりましたか」
アンナ「オオカミに食べられてしまいました」
シスター「つまり飼い主に逆らった罰なのです。従順さが大切だという教えよ」
アンナ「でもおじいちゃんの家ではキツネが(自分の)足を噛み切って罠から逃げました。」
シスター「それは関係ないわ。ヤギは餌をもらい愛されていたのよ」
アンナ「でも小屋につながれていました」
シスター「(檻から逃れてオオカミに食べられることで)ヤギは死を望んだとでも?それは罪よ。ではヤギの物語の意味は?」
アンナ「ヤギには二つの道がありました。家に残るか山に行くかです。ヤギは山を選びました。山に行ったのは自由を望んだからです。」

ヤギは檻のなかの従順ではなく危険ではあるが自由を選んだ。そしてそれは間違いではなかった。アンナはおそらくフランコ体制から逃れた父親の苦悩に思いをはせながら、聖書の教えと正反対の解釈を堂々と述べた。

「ぜんぶ、フィデルのせい」には、ヤギと同じようなヒゲを持った「ヒゲの革命家」はたくさん登場するが、フィデルもゲバラも出てはこない。この二人はそれぞれまったく異なる状況のなかで死を迎えた。だが共通するのは、どちらも檻のなかの順々な生活ではなく、危険ではあるが自由を勝ち取る道を選んだということだ。

カストロは生前こんなことを語っていたという。

「資本家どもとともに私は地獄に落ち、マルクスやエンゲルス、レーニンに会いまみえるであろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に比べればなんでもない」(宮本信生「カストロ」中公新書、こちらの記事を参照しました)

これは苦痛の現実から死後の世界への逃避を語ったものでないことくらいは、カストロ自身の生涯や盟友チェの生き様を見れば、すぐ分かることだ。理想を実現することは死よりも難しいが、彼ら、彼女らはけっしてそれをあきらめはしなかった。

映画の最後では、アンナもまた自由を勝ち取るための選択をする。もしアンナが実在の人物であれば、いま50代半ば。時代が進歩的に変化していくかに見えた70年代とは異なり、トランプの当選やISの台頭など、世界がどんどん逆回転していく地獄の熱さ以上の苦痛の世界的変化のなか、映画のなかでアジェンデの死のニュースを父ともに聞いた時のように、いま50代半ばを迎えたアンナはフィデルの死のニュースをどう考えたのか。そして、どのような理想の道をきりひらいていくのだろうか。

アンコール上映でもレンタルでも、とにかく多くの人に観てもらいたい映画だ。

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