
「どうなのかなぁ?」
一か月ほどまえに新聞掲載された映画「チリの闘い」を見てそうおもった。
「チリの闘い」は、初めて選挙で権力を握った(と思っていた)チリのアジェンデ人民連合政権が、1973年9月11日に護憲派の将軍とみられていたピノチェト率いる国軍のクーデターで崩壊するまでの半年を記録した三部作のドキュメント。第一部「ブルジョワジーの叛乱」、第二部「クーデター」、第三部「民衆の力」という構成。
チリの闘い 公式サイト
僕の本棚からは『チリの革命と反革命』(大月書店、1975年11月)という本が覗いている。その本の裏表紙にはこんな宣伝文句。
「『歴史はわれわれのものであり、それをつくるのは人民である』――ファシスト軍部の銃弾にたおれたアジェンデ大統領はその直前、国民に語りかけた。チリ革命は一時的には悲劇に終わったとはいえ、その現代の新しい型の革命への挑戦は、世界の発達した資本主義国、発展途上国の革命に限りない教訓をもたらしている。今日もたたかいつづけるチリ人民の壮大な闘争は、かならずや現代史に不滅の光を放ちつづけるだろう。」
「歴史はわれわれのもの」ではなく「階級闘争のもの」だろう?という軽い反発と、事実関係はデータを含めて論じているが、その記述からはまったく「教訓」をくみ取ることのできない本と同じように、この映画についてのいくつかの映画評やコメントを読んでも観ようという気がしなかった。
とはいえドキュメントなのでそれなりの価値はあるだろうということで、空いている時間を見つけて映画を見に行くことにした。
その前に、すこし理論武装(この言葉はこの映画を観た後でますます意味を持ちます)をしておいた方がいいだろうということで、古書店で『チリの悲劇 破産したもう一つの人民戦線〈増補〉』(柘植書房、1977年5月)を買って読み始めた。
この本は、アジェンデ人民連合政権を「人民戦線」と規定している。
この本の解説によると、
「人民戦線とは、ブルジョア社会の支配体制がその深部において動揺にさらされるとき、客観的にその支配体制を救う役割をになって成立するプロレタリアートの改良主義的指導部と自由主義的ブルジョアジーとのブロックである。」(『チリの悲劇』8頁)
「人民連合綱領は確かに幾多の“社会主義的”プランを含んでいた。しかし例えば主要企業の国有化計画をとってみても、“チリは国有化をいそぎすぎた”という一般ジャーナリズムの『定説』とはうらはらに、それが多くのあいまいさと欠落を含んでいた」(『チリの悲劇』9頁)
とのこと。
本書に収録されている論文「アジェンデは後退するが、労働者は前進する」(ジェリー・フォーリー)のタイトル通り、本のなかでは、ブルジョアジーと軍部の挑発を実力で粉砕しようとする労働者の抵抗(それはコルドンという労組住民地域共闘に結実していく)に対して、中産階級や自由主義ブルジョアジーを敵の側に追いやってしまう挑発行為は慎むべきだとして抑えつけるアジェンデとそれを支えるチリ社会党右派、チリ共産党とその影響下にあるCUT(チリ中央統一労働組合)の動きを鋭く批判している。
しかしアジェンデ人民連合政府については、左派ポピュリスズムの悲劇的な末路とピノチェトによる新自由主義推進があいまって、一部にはなにか神話的な象徴に祭り上げられてしまっているのではないか、という懸念もあった。
早めに到着した映画館のロビーに掲示されていたいくつかの雑誌や新聞の映画評も「悲劇の大統領アジェンデ」、「民衆の希望をクーデターで粉砕したピノチェトとCIA」的な臭いばかりするものだった。
映画館のチケットカウンターには、CIAに支援されたチリ空軍爆撃機の爆撃直前のアジェンデの最期の演説の一節「歴史は人民のものである」というメッセージが書かれたステッカーが売っていたが、もちろん買わない。
しかしいつもの癖で映画のパンフレットは事前に購入して、上映までのあいだにぱらぱらとめくる。
「おや?思ったより人民連合政府内部の亀裂がでているな」、「第三部はコルドンが中心かぁ。そっちはけっこう期待できるかな」という感じがした。
太田昌国さんや廣瀬純さんなど、鋭い批評視点を持つ人たちも、けっこう前向きなコメントをしている。
「まあ映画パンフのコメントだから“ヨイショ”もあるしね」
とつぶやきながら、10人ほどの観客とともに席に着き、88分の映画を観おわった。
……。
圧巻だった。
圧巻だったのは、最期のクーデターのシーンでもなく、そこに流れるアジェンデの演説でもなく、「アジェンデを守るのは民衆だ」と叫ぶ巨万の人民のデモでもなく、アジェンデ人民連合の階級協調路線を批判する政権内の社会党左派のアルタミラノやMAPU(人民統一行動運動)や在外勢力のMIR(革命的左翼運動)の演説や隊列ではない。ブルジョアジーの攻勢に抗して工場と街頭を占拠してバリケードを築き警察と対峙したコルドンの労働者の闘争ですら圧巻ではない。
圧巻だったのは、その工場占拠(国有化要求)闘争を巡って行われた工場内での会議における労働者の演説だ。
CUTから派遣された活動家が、労働者の闘争を容認しつつ、国有化は難しい、ましてや外国資本の工場の占拠は「パリクラブ」を挑発することになり、チリ経済に大きな打撃を与えるなどと説得する。
映画のパンフレットではそのシーンをこう描いている。
「全工場国有化をめぐって慎重議論を唱えるCUTの指導者(そして平静を保てと言い続けるアジェンデ)に対し、労働者の代表たちは彼らの態度を『妥協』ととらえ、苛立ちを隠さない。」(パンフ55頁)
だがスクリーンに登場するこの労働者が表現していたのは「苛立ち」ではない。職場から地域までを完全に組織し、いつでも資本家やファシストと実力でやり合うことができるという「自信」である。
労働者の国有化要求に対して、それをなだめようと派遣されたCTU活動家の発言の「自信のなさ」に比べて(ドキュメントにしてよくこんなピッタリの人物がいたな、と感心するくらいの自信の無さで、はまり役だった)、この労働者の発言は自信に満ちていた。
彼はこう発言している(うろ覚えご容赦)
「われわれはアジェンデに言われたように、下から上まで(職場の労組から地域のコルドンまで、という意味だろう)すべて組織した。だがアジェンデやあなたたちはまだ待てという。いつまで待てばいいのか。われわれがいま対峙しているのはファシストやブルジョアジーではなく、CUTの官僚であり人民連合政府の官僚だ。いったいいつまで官僚的なんだ」
この演説はかなり長い。まるで映画のセリフのようだ。そう、ケンローチの『大地と自由』のなかで農地を社会化(共有化)するかどうかを巡って村民会議で紛糾し、社会化を阻止しようとする共産党系活動家や地域の地主などを圧倒した革命派の村民の演説のようだ。
しかしこの労働者の演説は、作り物ではない。演説の後に巻き起こる拍手も演出ではない。僕も思わず拍手。
この労働者の発言を聞けただけでも、この映画を観た甲斐があった。おそらくこの労働者は、ピノチェト軍部のクーデターに対して、コルドンをあげて工場防衛の戦闘で命を落としているだろう(労働者の組織的な武装闘争はCTUなどの指揮命令もなく自発的、絶望的、英雄的に戦われた)。
映画のパンフレットのなかで太田昌国さんが最後にこう書いている。
「『チリの闘い』の画面に見入りながら、私はしきりに、現在の日本の政治・社会状況と重ね合わせていた。……見逃すには、あまりに惜しい映画だ。」
まったくその通り。
これに付け加えるとすれば、「アジェンデは後退するが、労働者は前進する当時のチリ革命情勢を理解せずに見るには、あまりに惜しい映画だ」ということだ。
残念なことに、エンジンがかかったのが遅かった。もう関東圏の上映で第一部「ブルジョワジーの叛乱」を観ることはできそうにない。第一部ではアジェンデ人民連合政府から「ファシスト」呼ばわりされた鉱山労働者のストが登場するようだ。第三部「民衆の力」は、コルドンの闘いがメインになるみたいだ。
見逃すには、あまりに惜しい映画だ。
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