ジェイムズ・コノリーの経済的徴兵と安倍晋三首相の所信表明演説

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最近、アイルランドの音楽を生で聞く機会があり、乏しいアイルランド知識をちょっとでも補おうと『アイルランド・ナショナリズムと社会主義 ジェイムズ・コノリー著作集』(堀越智、岡安寿子訳、未来社)を再読した。

コノリーは20世紀初頭のアイルランドの社会主義者。イギリス植民地支配に抵抗した1916年5月のイースター蜂起の指導者。蜂起は敗北し、イギリス軍によって銃殺された。

このコノリーの著作集に1915年12月18日のWorkers Republic紙の一面コラムNotes on the Frontに掲載された「経済的徴兵」という文章が収録されている。

「経済的徴兵」は、安倍政権による戦争法制定や自衛隊の海外派兵などが世論的にも注目されるなかで、アベノミクスによる格差拡大もあいまって、日本でも話題になったが、すでに100年前にアイルランドの社会主義者、ジェイムズ・コノリーが経済的徴兵の本質を正しくのべている。経済的徴兵に駆り立てるのは政治家ではなく資本家である。安倍政治への批判は資本家、そして資本家が支配する資本主義への批判にまで進まなければならない。

以下、「経済的徴兵」から、関係するであろう個所を抜粋して紹介する。

+ + 以下、抜粋 + + +

経済的徴兵

経済的徴兵というこの新しい言葉に最近私たちは慣れてきている。これは暮しを立てる手段を奪って軍隊に応募することを強制する政策である。カナダでは飢餓徴兵と呼ばれている。基本的に次の事実を認めなければならない。労働者階級が金持ちのための戦争を戦っていること、金持ちが職業、すなわち労働者階級の生存の手段をコントロールしていること、そしてそれ故に軍務に適格な男たちを金持ちが解雇するならば、彼らは男たちを、志願するかそれとも飢えるかと強制することができることである

問題をさらに深く考察すると、次のような事実が認められる。私的な個人[資本家]によって生活手段が握られることは、民族的な、政治的な、軍事的な、あらゆる圧制の根源であり、それ故に職業を制するものは世界を制するということである。

今日、戦線では沢山の人たちが戦っているが、彼らの心は自分が今していることに反対である。しかしそれなのに戦い、人殺しを続けなければならない。なぜなら母国で生活手段を奪われ、家族を飢えさせないために応募することを余儀なくされたからである。

こうして政治的には自由意志という形で、人びとの魂が世界でもっとも残酷な暴君に屈しているのである。

(略)

アイルランド人に対する経済的徴兵の第一歩は、1913年にダブリンの経営者が、アイルランド運輸・一般労働組合所属の労働者をロック・アウトした時だった。

(略)

もしも時たま、1913年に私たちと戦った経営者で、1915年の私たちの民族政策[イギリスによる徴兵反対、アイルランド独立等]に同意するものが、あちらこちらにいたとしても、それは彼らが変わったからでも、また権力の不正な行使を恥じているからでもなく、ただ経済的徴兵から思っていたほどの利益が上がらないからである。1913年にその経営者は、自分の方法で組織する権利を労働者に与えないことに、利益を見ていたのである。

(略)

私たちも同じようにあからさまに階級的利益に立って、私たち自身の階級[労働者階級]についての立場を表明する。しかしこの利益は、民族の最高の利益であると信じている。

従属的な労働者階級から自由なアイルランドなど、私たちは考えることはできない。また自由な労働者階級から従属的アイルランドなど考えることができない。しかし自らの力で自由に、平和的に問題を解決する権利を保証された労働者階級からなら自由なアイルランドを考えることができる。

イギリス帝国の存在が、アイルランド労働者の自由や安全と両立するとは思わない。その自由やその安全は、外国の支配を完全に廃絶してのみ実現されるのである。

(略)

アイルランドの労働者階級の安全は、全体としてアイルランド人民の安全と同じ根を持っているのである。根はアイルランドにある。それは、民族が自由な状態にあって、はじめて育ち、機能するのである。そしてアイルランド人民の安全は、アイルランド労働者階級の安全と同じ根を持っている。緊密に結びついた現代世界においては、いかなる民族も、民族の一部でも奴隷状態にあるものを民族として見逃していて自由であることはできない。

(以下略)

+ + 以上、抜粋 + + +

700年にわたるイギリスの植民地支配に抗するアイルランド民衆の抵抗はそれまでナショナリストが主導してきたが、コノリーが活躍した20世紀初頭は、労働者階級という民族の核が登場し、そして帝国主義戦争としての第一次世界大戦という激動の時代であった。コノリーら社会主義者による反英植民地闘争は、アイルランド・ナショナリストの闘争を急進化させることになる。コノリーの主張に登場する「民族主義」は、そのような状況から理解されるべきである。

さて、かたや9月26日の衆院本会議での安倍首相の所信表明演説。領土ナショナリズムとでも言うような、ちっぽけなナショナリズムが語られている。

「わが国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げます。」

それに続けてこう述べている。

「現場では、夜を徹して、そして、今この瞬間も、海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が、任務にあたっています。……今この場から、心からの敬意をあらわそうではありませんか。」

この発言を受けて議場の自民党議員らが総立ちとなったそうだ。現場の警官は地方公務員で、領土防衛が任務ではないはずだが? 消防や救急、保健医療をはじめ他の地方公務員もその瞬間もそれぞれの任務にあたっているはずだが? 

海保、警察(機動隊)、自衛隊が任務にあたっているといえば辺野古、高江を想起しないわけにはいかないだろう。安倍ら自民議員が衆院本会議場で総立ちとなって敬意を表した午後2時過ぎという「今この瞬間」も、沖縄に配備・派遣された海上保安庁、警察、自衛隊は、日本民族が侵略・併呑した沖縄で、アメリカの基地建設に加担し、反対する人々を弾圧していたはずである。

恥を知れ、抑圧民族!

+ + + + +

所信表明演説では、あからさまな労働者攻撃が、労働者に味方するという口ぶりで語られたが、騙されてはならない。

「一億総活躍の『未来』を皆さんとともに切り開いてまいります。その大きな鍵は、働き方改革です。働く人の立場に立った改革。意欲ある皆さんに多様なチャンスを生み出す、労働制度の大胆な改革を進めます。」

「働く人の立場に立った改革」とは、働く人=労働者が主体の改革ではない。労働者が主体なら「立場に立った」などという必要がないからだ。では、誰が主体なのか。労働者ではない人とは、この文脈でいえば、資本主義的雇用関係が貫徹する日本においては資本家を指す以外にない。つまり改革の主体は資本家であり、客体は労働者ということだ。

そう理解すれば、これに続く「意欲ある皆さん」が誰のことを指すのかは自明である。資本家である。つまり、資本家のなかで「意欲ある皆さんに多様なチャンスを生み出す、労働制度の大胆な改革を進め」るということだ。

それにつづいて子育て、介護、長時間労働、同一労働同一賃金、不合理な待遇差など、いくつかの具体的な対象が挙げられているが、それらもすべて意欲ある資本家に多様なチャンスを生み出すための手段にすぎない。

そしてお得意のフレーズ。

「『非正規』という言葉を、皆さん、この国から一掃しようではありませんか。」

雇用の4割近くになった非正規雇用はもう非正規ではなく正規ですよ、ということだろう。さらにいえば「正規」と「非正規」を隔てる一番の壁である解雇規制を緩和すること、これが、意欲ある資本家の皆さんに多様なチャンスを生み出す、労働制度の大胆な改革の本丸だろう。

ここで先に紹介したコノリーのこの一言を再度紹介しておくことに意味はあるだろう。

「もしも時たま、1913年に私たちと戦った経営者で、1915年の私たちの民族政策に同意するものが、あちらこちらにいたとしても、それは彼らが変わったからでも、また権力の不正な行使を恥じているからでもなく、ただ経済的徴兵から思っていたほどの利益が上がらないからである。」

「働き方改革」という名の労働搾取のための改革に騙されるな。

+ + + + + +

最後に、コノリーの「経済的徴兵」の最後の一文を紹介しよう。コノリーは、この文章の最後で「私たちはアイルランドにおける経済的徴兵を望んでいる」と、それまでの主張とは全く逆のことを語り始める。

「私たちはアイルランドにおける経済的徴兵を望んでいる。また望まなければならない。しかしそれは、自分の国を治めたいという権利を否定している権力のために戦うことを飢えによって強制する徴兵ではない。民族のあらゆる力をアイルランド民族が動員する徴兵である。土地、鉄道、運河、作業場、ドック、鉱山、山河、河川、工場、機械、馬、牛、そして男も女も、すべての力が一つの共通の目標のために協力する徴兵である。その共通の目標は、アイルランドがかつてないほど最高に自由な人民を、最大多数、豊かな胸の上で育てることができるようになることである。」

民族の未来は、飢餓徴兵を強制する資本家ではなく、イギリスの帝国主義支配と資本家の賃金奴隷から解放された最高に自由な人民をめざす労働者階級の経済的徴兵、つまり社会主義に賭けられているという展望である。

コノリーならば、安倍の所信表明演説に対してこう主張するだろうか。

「私たちは日本における一億総活躍を望んでいる。また望まなければならない。しかしそれは、自分の国を治めたいという権利を否定している権力のために戦うことを飢え(=非正規雇用の普遍化)によって強制する総活躍ではない。労働のあらゆる力を労働者が動員する総活躍である。土地、鉄道、運河、作業場、ドック、鉱山、山河、河川、工場、機械、馬、牛、そして男も女も、すべての力が一つの共通の目標のために協力する総活躍である。その共通の目標は、日本がかつてないほど最高に自由(=賃労働の廃止、あるいは沖縄に対する抑圧民族であることやめる)な人民を、最大多数、豊かな胸の上で育てることができるようになることである。」

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Comment

豊かな胸の上で

「豊かな胸の上で」という表現は、社会科学の分野ではあまり見かけない文言で、人間臭さというかコノリ−さんの体臭が伝わってくるような感じがして、お目にかかってお話ししたいような、ちょっと怖い気持ちもします。

2016/11/01 (Tue) 08:12 | 田島義夫 #lndO56c. | URL | Edit

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