『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っている』、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』という本の著者という紹介を読んで、ちょっと興味を持った。というのも、本の出版は知っており、たしか書店でもパラパラと立ち読みをした記憶があり、どうも対米従属論や米帝陰謀論のような雰囲気を、タイトルや宣伝文句から感じたこともあり、そのまま買わずにいた。
インタビューを読んで、両著書を読んでおけばよかったと思った。というのも、戦後護憲運動の「解釈護憲」という問題、そしてそれに関連した安部政権の性格のふたつについて興味深い指摘をしていたからだ。
矢部さんはこの二つの点について次のように指摘している。かなり長いが、引用する。
はじめは、戦後護憲運動について。
+ + 以下、引用 + + +
戦後71年、日本のリベラル勢力は「憲法には指一本触れるな」という方針をとってきた。改憲議論そのものをするな、という立場ですね。
私は、それは戦術的には正しかったと思っています。憲法9条2項、つまり日本は軍事力をもたないという条項は「米軍基地」と「自衛隊」によって破壊されていたわけですが、より弊害の大きい9条1項の破壊、つまり「海外派兵」だけは、「指一本触れさせない」戦術で食い止めてきた。歴代首相も、9条を盾に、米国からくり返される自衛隊の海外派兵の要請を拒み続けてきました。
しかし安倍政権は14年に、海外での戦争を可能にする集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、9条1項を破壊しました。
こういった状況の中で安倍首相に対抗するには、護憲派自身が、国民の多数が支持できるような改憲案(微修正案)を一致して考え出し、広く提示する必要があるのです。
+ + 以上、引用 + + +
つづいて安倍政権の性格についてこう指摘する。
+ + 以下、引用 + + + +
米軍が朝鮮半島で大苦戦する中、米国政府は、安保条約を講和条約から切り離し、その条文を米軍自身に書かせた。ここが現在まで続く戦後日本のゆがみの原点です。その米軍が書いた旧安保条約の原案の「日本軍」という項目には、次のような二つの例外規定があったのです。
<この(安保)条約が有効なあいだ、日本政府は陸海空軍を創設しない。ただし米政府の同意や決定に基づく軍隊の創設計画の場合は、例外とする>
この条文によって軍隊の放棄をうたった9条2項の破壊が計画され、それは日本の独立後すぐに「自衛隊の創設」というかたちで現実のものとなります。
さらに、<日本軍が創設された場合、日本国外で戦闘行動はできない。ただし(米政府が任命した)最高司令官の指揮による場合はその例外とする>という規定もありました。
この原案にあった文言は密約などの形で生き続けていますし、原案は米国務省のウェブサイトで公開されています。自衛隊はもともと米軍の指揮下で戦争をするという「指揮権密約」を前提として創設されていきます。密約を結んだのは、当時の吉田茂首相です。その米軍の指揮権を前提とした、今説明した二つの例外規定によって、憲法9条は変質し、破壊されていったのです。
ですから安倍晋三首相は突然現れてきた存在ではなく、「米国の戦争を全面的に支援する戦後日本」という当初からのグランドデザインを、最終段階で完成させようとしている人物だという認識が必要です。
+ + 以上、引用 + + +
たいへん興味深い指摘だ。
もちろん日米安保の密約問題などはこれまでも研究者や運動のなかで指摘されてきたことかもしれないが(僕が不勉強なだけだけどね)、それを新ためて世に問うた意味は大きいだろう。
もちろん問題がないわけではない。
矢部さんはインタビューの最後で改憲をめぐる状況を問われ、こう述べている。
+ + 以下、引用 +++
大変厳しい状況にあると思いますが、やはりポイントは護憲派が説得力を持ち、国民の幅広い合意が可能な「国のかたち」を一致して考えだせるかです。
二つの例があります。憲法に条項を加え、「日本は専守防衛で必要最低限の防衛力を持つ」が「今後、国内に外国軍基地を置かない」と明記することです。フィリピンが87年に実現しました。
もうひとつはドイツ。東西ドイツの統一と欧州連合の拡大に伴い、ドイツは主権を回復していきました。これを参考にするなら、日本が朝鮮半島での平和条約の締結に貢献し、その中で朝鮮戦争を原因とする米国との不平等な条約の解消を進める。
(略)
憲法9条2項と自衛隊の問題に象徴される「解釈護憲」の歴史を私たち自身が検証し、克服しなければ、国民の多数派の信頼を得ることは難しいでしょう。
+ + 以上、引用 + + +
つまり突き詰めて言えば、自衛隊を合憲として認めること、そしてアメリカに対する不平等条約解消運動を進める、ということになる。矢部さんの批判する「護憲派」の多くが、すでに自衛隊の存在を認める方向にあることも、ベストセラーとなった理由の一つかもしれない。
だが、やはりこのような分析では、安倍政権の背後にあるシステムそのものに対抗できないことは明らかだ。日米安保締結当時の攻撃対象と、軍隊という暴力装置そのものの性格を考えれば、矢部さんの分析に欠けているものがみえてくるだろう。
日米安保においては熾烈な犠牲を払いながらナチス・ドイツとの大祖国防衛戦争をたたかいぬきふたたび名声を獲得したソ連邦を標的にしていたし、朝鮮戦争においては当然にも国民党との内戦を勝ち抜いて建国したばかりの共産中国の存在が米軍の日本再軍事化を促した。
「冷戦」というあいまいな名称で呼ばれているが、いくつものベールをはがせばそこには敢然と「階級戦争」の様相が刻まれている。「反共」とは資本家階級の階級憎悪が現実世界に現れたイデオロギーであり、それは戦後護憲派の一部にも浸透していた。
アメリカは資本主義世界の軍事的盟主となり、日本の支配層はその陣営の重要な一角をになうことになった。国家・軍隊とは階級支配の道具である。日本は資本主義なので資本家が支配階級である。つまり日本国と日本の軍隊は資本家階級の道具である。それがどれだけ憲法によって「自衛」のみに縛られようとも、その階級的性格に変わりはない。資本家のために「自衛」するのか、対外戦争をするのかの違いに過ぎない(一方で、軍隊、とりわけ近代国家の軍隊は、その国のさまざまの階層によって構成される。また軍隊内における民主化要求や反軍宣伝などの実践や議論もあるが、ここでは深く分け入らない)。
つまり、自衛隊という日本軍の問題を考えるときに、階級という分析軸をもたなければ、非常に漠然とした平和主義になるか、そうでなければ一見論理的で冷静な主張のようであるが実際には現実の軍隊システムを追認するような立場に立たざるを得なくなる。
前者は、後者そして支配階級のイデオローグから激しく攻撃されている。自衛隊違憲論や9条守れの運動の重要な成果は、資本家階級の軍隊システムに対して一定程度(というかかなりの程度)の縛りを、国民的な世論のなかで作り上げてきたことであり、その点はどれだけ賞賛しても称賛しつくすことはできないだろう。
一方で、それは資本家階級だけでなく、護憲運動をも、憲法によって縛りをかけてきたともいえる。本来、憲法は国家(=支配階級の道具)を縛るためのものであったにも関わらず、である。
では、護憲運動は何に縛られてきたのか。
ひとつは「平和」に縛り付けられてきた。
それは「一国平和主義」という意味においては、たしかに「一国」に縛られてきたといえる。しかし日本という国は絶対に戦争をしない、という強固なイデオロギーに縛られていること自体は悪いことではない。「日本が平和ならほかの国はどうでもいい」と考える人もいるだろうが、それは護憲派や人権派の中にはほとんどいないといっていいだろう。もちろん優先順位はあるだろう。しかし護憲=一国平和主義=海外の問題を考えもしない、というのはあまりに短絡的なとらえ方である。
だがもうひとつ、護憲派は「資本主義」に縛り付けられてきた。
こちらのほうは現在の安倍政治の台頭につながる大きな欠点だといえるし、また前述の矢部さんへの批判にもつながる問題である。
第一次世界大戦、第二次世界大戦ともに、よく言われるのが市場(植民地)の分捕り合戦であるという分析。第一次世界大戦はまさにそのとおりであり、第二次世界大戦はそこにファシズムという資本主義のおとしごと、コミュニズムという資本主義国家の死滅を目指す世界的勢力の登場によって、事態はいっそう複雑になったが、階級戦争という本質はいぜんとして中心軸をなしていた。
資本はつねに利潤をもとめて新たな市場獲得を目指す。周辺から収奪し、中心部で搾取する。一国内では資本同士も激しく戦い、国家間では究極的には戦争である。護憲運動は、国家間での戦争という資本家階級の究極の手段にたいする強力な縛りをかけてきたが、他方でその原因である資本の運動にはまったく手をかけなかった(軍事費拡大という利潤獲得へのブレーキにはなった)。
いまだ日本国内で大きな力を持つ護憲運動が、戦争への道につながる資本主義(生産手段の私的所有&賃金という搾取のシステム)を終わらせると力強く宣言することが、支配階級とその道具である軍隊を恐怖せしめることになり、より大きな力と課題を運動の側にもたらすことになるし、安倍政治の支持率の基盤となっているアベノミクスに対する鋭利なギロチン的攻勢をかけることができるだろう。
「軍隊という暴力装置は支配階級の道具」という階級的観点を持つことで、8月13日の東京新聞朝刊に掲載された石破茂の次のような主張なんなく反論することができるだろう。
「例えば、『軍隊と警察はどう違いますか』。両者の違いは、学校でちゃんと教えられてはいません。国の独立を守るのが軍隊。国民の生命や財産、公の秩序を守るのが警察。」
不正確である。正確にはこうである。
「支配階級の道具である国家を守るのが軍隊。資本家の生命や財産、公の秩序を守るのが警察」。
もちろん軍隊や警察内部における民主化要求(死に至るパワハラが横行している!)、労組結成、女性や性的少数者に対する人権的配慮、国際法の順守などなど、階級規定をならべるだけでは足りない実践的要求もあり、左翼はその課題にも積極的に取り組むべきであるが、ここでは石破の階級規定(ブルジョア民主主義によるごまかしの規定)に即している。
石破はこうも言っている。
「日本国憲法は、戦後間もなく日本がまだ主権を回復せず、独立していないときに公布された。だから、国家の独立を守る軍隊の規定があるはずがない。極めて論理的な話ですよね。でもその後、日本は独立を果たした。日本国の独立は日本が守らなければなりません。」
不正確である。正確には、こうである。
「日本国憲法は、戦後間もなく日本ブルジョアジーがまだ主権(資本家の権利)を回復せず、独立していないときに公布された。だから、資本家国家の独立を守る資本家の軍隊の規定があるはずがない。そしてその後、日本ブルジョアジーは一定の独立を果たした。資本家国家としての日本国の独立は日本のブルジョアジーが守らなければなりません。」
またこうも言っている。
「私たち政治家の仕事は、国民の自由や権利を守ること。その国民のための国家を亡きものにしようとする勢力とは、断固対峙しなければなりません。」
不正確である。正確にはこうである。
「私たち資本家のために働く政治家の仕事は、資本家の自由や権利を守ること。その資本家のための国家を亡きものにしようとする勢力とは、断固対峙しなければなりません」。
しかしもうひとつの世界を求める運動の一部分は、資本家のための国家どころか、将来の支配階級となるであろう労働者のための国家でさえも亡きものにしようとするだろう。支配階級の道具である国家を守ろうとする勢力とは、断固対峙しなければならない。
最後は話が飛んでしまったが、矢部さんの護憲派への提言に欠ける階級という分析軸をあらためて強調すべきだと、東京新聞のいくつかの記事を読んで感じた次第である。(12日朝刊の一面トップでは、9条の発案は幣原首相であり押し付け憲法ではない、という記事もあった。階級分析に乏しいトップ記事である)
憲法問題をこんなふうに考え、実践を模索しようとする人間がすこしくらいいてもいいだろう。
2016年8月15日
追記:しかし東京新聞、8月15日夕刊、16日朝刊は「天皇新聞」になっている。天皇制ほどひどい身分差別が日本にあるだろうか。象徴だろうが君主だろうが、主権在民にとって天皇制など必要ないだろう。そんなこともわからないのか。(8月16日)
