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ハイサイ!名護に来ています(2)

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ハイサイ!名護に来ています。

6月18日は、午前中にやんばるの本部(もとぶ)の八重岳にあった野戦病院跡を訪ねました。その前に、地元の学校の学生達の授業の一環で、沖縄陸軍病院名護分院(野戦病院)の衛生兵の補助として動員された県立第三高等女学校の女学生によって結成された「なごらん学徒隊」の存命者、上原米子さんに話を聞きました。

上原さんの話は、徹底的に叩き込まれた皇民化教育の話から始まりました。国のために死ぬのは当たり前だという教育の恐ろしさを若い学生達に語りました。絵をたしなむ上原さんは、なごらん学徒隊の経験を何枚もの絵にしてわかりやすく話してくれます。わかりやすさが逆にその悲惨さを物語ります。

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「これが私です」と絵の中に描かれたなごらん学徒隊時代の上原さんは、傷病兵のまわりで看護をするもんぺ姿の女学生の姿をしていました。上原さんは八重岳の中腹にある野戦病院での恐ろしい体験を伝えてくれました。

麻酔もないまま切断された足を山の中に捨てに行く仕事などをしたことや、多くの傷病兵を治療途中で置き去りにして逃避行したこと、小隊長による自決強要を思いとどまらせた勇気ある兵士の話、艦砲射撃で吹き飛ばされた住民親子の話、学友などのおかげで九死に一生を得るという経験を語り、この日のツアーに参加する20歳前の青年たちも真剣に聞いていました。

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上原さんの証言はNHKのアーカイブでも見られます。

上原さんの話を聴いた後は、野戦病院のあった八重岳の山腹にいきました。まずは日本軍の飛行場建設が行われていた激戦地、伊江島の全景が展望できる八重岳の中腹で、いっしょに案内として説明をしていただいた「なんよう文庫」の川満昭広さんから八重岳山頂にあった日本軍司令部と野戦病院、そして伊江島の位置関係などの説明を受けたのちに、じっさいに野戦病院のあった場所で、上原さんのお話を聞いた。

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上原さんが何度も強調したのは、戦争の時はおかしなことにおかしいということができなかったが、いま若い人たちはおかしなことには毅然とNOを主張してほしい、なによりも憲法改悪には平和のための意思表示をしてほしい、ということ。

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野戦病院跡の見学の後は、やんばるの水がめの羽地ダム湖畔で昼食。羽地ダムを背景に、川満さんの話を聴く。川満さんは、豊かな自然のあるやんばる地域だが、生活や経済と両立するような自然環境が必要であること、やんばるの自然を世界遺産登録という話もあるが、予定地域はすべて米軍基地に囲まれていること、「経済発展」という物差しに対する別な基準が必要であることなどを、学生たちにわかることばで語る。

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もちろんその根底にあるのは米軍基地建設に対する反対だ。辺野古基地建設反対の攻防が厳しく繰り広げられてきたシュワブゲート前のテントにも泊まり込みながら、やんばると大浦湾の自然と経済を考え続けてきた経験に裏付けられた、物静かな訴えに学生たちも引き込まれていた。

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羽地ダムから大浦湾を一望できる瀬嵩(せだけ)の丘の上へむかう。政府との休戦協定で制限区域を示すオレンジのフロートが取り払われた大浦湾は、梅雨明けの日差しをうけて、辺野古ブルーに輝いていました。しかし防衛施設局が雇いあげている地元漁民の船(警戒船)は、思ったよりも多い。警戒船の手前を虹の旗をなびかせて通り過ぎていく船にみんなで手を振る。

川満さんの説明では、先ほどの羽地ダムややんばる山間部に降り注いだ雨水が、樹木や土壌の栄養分とともに大浦湾に流れ込むことで多様な生物をはぐくむサンゴの浅瀬が形成され、そこに希少動物のジュゴンが餌を食べにやってくる。やんばるの山の自然を保全するということは海の生物をまもることにもつながる。丘の上から見えるキャンプシュワブの敷地内にはかつて大浦収容所があり、伊江島や中南部からおおくの住民が強制的に移住・収容されたことなどが説明されました。

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最後は、辺野古浜のテントを訪ねて、辺野古基地建設と最前面で阻止し続けてきた安次富浩さんに話を聞いた。テントでの座り込みは4444日を迎えた。

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目の前に広がる海を壊して新しく作られようとする基地の概要を説明。かけがえのない大自然の破壊、移設ではなく最新鋭の機能を持つ基地建設であること、原発災害がつづく福島や震災被災の熊本などいくらでも税金を使わなければならないところがあるが基地建設はすべて日本の税金で賄われること、そして基地の存在が自然を生かした沖縄の自立経済を阻害している翁長知事や稲嶺市長の言葉を引用しながら丁寧に説明。

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名護で生まれ育った20歳の女性が元米兵に凌辱されて殺されて山林に捨てられた事件は、米軍基地の存在と無縁ではなく、そのような現状は新しい世代によって変えていくことができると安次富さんは力説した。

辺野古の海をとり続けるフォトグラファー、山本英夫さんも健在。8月にはまた東京にくるとのこと。今度は報告会を企画したいですね、と約束し、辺野古テントを後にした。

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この日のツアーでは時間がなくて、シュワブゲート前のテントにはバスから手を振るくらいしかできなかったのが残念だったが、案内の川満さんは「あそこは座り込みの場所だから時間の取れる時にまたゆっくりきてくだい」とのこと。

この日の見学で18歳の青年たちは何を感じただろうか。平和の種は蒔き続けられており、それはずっと芽吹いていると信じたい。

夕方、名護市街地から車で40分ほどのところにあるキャンプハンセンの雑木林に挟まれた104号線沿いにある女性殺害遺棄の現場を訪れた。たくさんの花束とお供えが添えられている。日本とアメリカの軍事同盟がもたらす暴力と恐怖によってすべてを断ち切られた無念は必ずヤマトの責任で晴らしますと念じて、その場を後にした。

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名護への帰り、キャンプシュワブのゲート前では、ピースキャンドルが行われていた。瀬嵩にすむ渡具知さん一家が毎週土曜日の夕方に続けている行動。映画「戦場の止み」にも出てくるのでご記憶の方もいるでしょう。二見以北十区の会の浦島悦子さんもいっしょに手を振って声をかけている。夜に名護市内で予定があったのでほんの少ししか立ち寄ることができなかったが、今度名護に来た時にはぜひ参加したいと思いました。

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悲しみと怒りの行動と思いが満ち満ちていた県民大会の前日のやんばるでした。


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