ハイサイ!悲しみと怒りの沖縄に来ました(1)

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ハイサイ!沖縄にきました。

昼前に那覇に到着。梅雨明けの好天のなか、空港に出迎えてくれたOKさん、OMさんの案内で糸満の大度浜海岸へ。ちょうど干潮の時間なので、かなりの沖合まで歩いていけるという。ジョン万次郎が上陸した浜で有名なところ。潮が引いたサンゴの水たまりには磯のいきものがわんさか。

波の音、そして海岸の絶壁から湧き出す水の音など、自然の音以外は聞こえない。こんなのどかな風景だが、沖縄戦のときには当然南部の激戦地の一つとなり、日本軍の盾にされて多くの犠牲者を出した地域でもある。

しばらく磯遊びをしてから、ひめゆりの塔、そして翁長知事の父親が尽力してできた魂魄の塔に立ち寄る。魂魄の塔でたたずんでいると、車でのりつけた高齢の女性が魂魄の塔の前で手を合わせている。会釈をすると、自分の6人きょうだいのうち、一人はフィリピンで、そしてもう一人が沖縄戦で南部戦線の衛生兵として、最後まで司令官のそばを離れることができず、犠牲になったが、遺骨などはどうなったかなどわからず、3万5千人の戦死者がまとめられた魂魄の塔で、戦死した日の近辺に名前の記載されている平和の礎とともに、戦死した期日の前後にお参りをしていると話してくれた。

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その後、日本軍と住民あわせて1000人が立てこもった「轟ガマ」へ。ヘルメットと軍手、懐中電灯を持って、かなり急な下りの石段を下っていくと、中学生だろうか、50人ほどの集団がガマの入り口で平和ガイドさんの話をきいていた。その横を通らせてもらいガマの奥へ。ガマの奥は広がっており、気温も外気よりもかなり低く涼しく、水が流れているが、ここに1000人近くも食料もなく、一か月も立てこもっていたと思うと、信じられない。

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ここでも日本軍が投降を許さず、徹底抗戦と玉砕を沖縄の人々に押し付けていた。米軍もガマの上からガソリン入りのドラム缶に火をつけて投下しようとしていたが、ガマの奥の行き止まりの池の中を潜って外にでた地元住民が、ガマのなかには住民がたくさんいることを米軍に伝えて、ひっしで投降を説得したことで、多くの住民の命が救われたという。ここでも日本軍は沖縄の人たちを守るどころか、「国体」という天皇制を守るために、沖縄の人々の命を犠牲にした。

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沖縄の人々を犠牲にして日本を守る、という考えはいまでも日本政府の中心にある考えだ。沖縄を切り捨てた4月28日の日に元米軍兵士に凌辱され殺されたRINAさんもその犠牲者の一人だ。

この日、名護で追悼市民集会が開かれた。RINAさんは高校卒業まで名護で育ったことから、稲嶺進名護市長が市民集会の実行委員長として、亡くなったRINAさんの無念を晴らすと訴え、同級生らが追悼の想いを述べ、辺野古移設を厳しい条件を付けたうえで受け入れを表明した岸本建男元市長のお連れ合いで、現在は辺野古移設反対の意思を表明している岸本能子さんが女性代表として発言したという。

私達はこの集会には間に合わないので、那覇にある瀬長亀次郎記念館の「不屈館」を訪れた。

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沖縄タイムスの写真記者であった大城弘明さんの写真展が行われていた。ガマの写真や日本軍にスパイの疑いをかけられ暴力を振るわれたことで寿命を縮めた肉親の話など、さきほと糸満の案内をしてくれたOKさんの話と同じことが写真と文章で展示されていた。最後に19日の「被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」で参加者に身に着けるように呼びかけられている「黒色のもの」として、好評発売中の「不屈Tシャツ」を購入。

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不屈館から歩いてそう遠くない泊港の沖縄料理屋で反省会をして、名護行きの高速バスに乗った。

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