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『間接税と労働者階級』ラサール、岩波文庫(2016/2/26)

2016/2/26に会員MLに投稿したものです。

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[attac_ml:5868] 『間接税と労働者階級』(ラサール、岩波文庫)
2016/2/26


こんにちは。いながきです。

前回の金融カフェでは消費税を取り上げたので、指定のテキストも読まずに(ごめんなさい!)、『間接税と労働者階級』(岩波文庫)というラサールの著書を読んでみました。

ラサールは、ドイツで最初の労働者政党、全独労働者同盟の初代会長をつとめた人物で、のちのドイツ社会民主党の前身の一つを作り上げた人物です。

『間接税と労働者階級』は理論書というよりも、政府統計やブルジョア経済学者による分析の紹介を通じて、間接税がいかに労働者階級や貧しい人々にとって悪税であるのかを、平易な言葉遣いで記したものです。

ラサールは社会主義者を自任していましたが、マルクス主義的な要素はほとんどないこともあって(どちらかといえば社会民主主義的)読みやすく、ピケティの『21世紀』をすこし彷彿とさせるような感じもありました。

ラサールは1862年4月12日にベルリン郊外にある手工業者組合で演説を行い、それをパンフレットにまとめたのですが、それは発禁となり、演説を理由に告訴され、禁固4カ月の判決を受けます。

それに対してラサールと検察はともに控訴しますが、『間接税と労働者階級』は1863年にベルリン高等法院で予定されていた控訴審での演説原稿をまとめたものです。


「判決の脊梁をなしているのは、わたくしの演説のなかで間接税について申したことであります。わたくしはこのことによって、判決が何回となくそれの真の基礎として指摘しておりますように、有産階級に対する憎悪と侮蔑を扇動したとされているのであります。」(岩波文庫版第二刷、24頁)

そして、手工業組合の演説をまとめたパンフレットの一節を紹介します。

「すべての間接税の総額は、個人にその資本と所得とにおうじて課せられることなく、その圧倒的に大きな部分についてみれば、国民中の無産者や比較的貧困な階級によって支払われていることになるのです。ところで間接税はむろんブルジョアジーが独自に発明したものではありません。それはもっとまえからあったものです。しかしブルジョアジーはそれをはじめてひとつの未曾有の体系に発展せしめて、そしてそれに国の必要経費のほとんど総額を負担させてきたのであります。」(26頁)

パンフレットでは、統計を使って1855年のプロイセン国家の歳入9700万ターレルのうち、実質的な直接税からの歳入は約1280万ターレルのみで、のこる8420万ターレルは事実上の間接税からの歳入だと説明し、演説の聴衆に向けてこう訴えました。

「諸君、それゆえ間接税なるものは、ブルジョアジーが大資本のために免税の特権を実現し、国家の経費を、社会の比較的貧困な階級に背負わしめるための制度なのであります。」(28頁)

それに対して検事は、ラサールの演説では富裕階層も支払っている各種の租税を意図的に無視して、もっぱら労働者階級のみが税を負担しているとして、「被告の詭弁は一目瞭然であること、および、被告がかかるやり方で労働者のまえで語るならば、そのことによって聴衆をして公共の平和を未曾有の方法で破壊せしめたるための扇動となる」と法廷で主張しました。


控訴審でラサールはこう述べています。

「経済学上ブルジョアジーを代表する諸学者をつうじて、[自説が正しいという]この証明を導き出そうと思います。すなわち、支配的な諸学派の代表者をつうじて、ブルジョア経済学者のなかでもっとも賞賛されており、かつもっとも著名なひとびとの告白をつうじて、諸君[裁判官]のためにこの証明を導き出そうと思うのであります。」(38頁)

そして、セエ(フランス大学の経済学の教授)の『経済学通論』(1844年)の一節を紹介します。

「消費に課せられる租税は、必然的に消費された商品の量に比例する。そしてこの消費された商品の数量はけっして財産の割合におうじえないから、その結果として、租税の重い国々において主役を演じているこの種の課税は、納税義務者が貧乏であればあるほど、まさにそれだけ重くおちかかってくることになる。」(41頁)
「消費に対する租税は、すべてのひとにもっとも不公平に配分される租税であること、またこの税が支配的である国家では、最貧の家庭が犠牲にされているということを、確言できるのである。」(43頁)

つづいて、シスモンディの『経済学新原理』(1819年)を引いています。

「租税を回避している富者の収入のさまざまの部分についてかさねて要約する煩をいとわないならば、つぎのことがわかるのであろう。しなわち何らかの消費税がかかるのは、富者の支出のせいぜい10分の1にすぎないこと、この税[間接税]はより貧困な階級にさがってゆけばゆくほど、その収入との関係においてますます上昇してゆくこと、そしてなかでも一番不幸な階級、すなわちその消費が、ほとんどすべて都市において購入され、また輸入される生活資料からなっている工場労働者階級は、その所得のどの一部分についても租税から免れえないこと、これである。」(47頁)

そしてラサールはこう述べています。

「ごらんのように、こういうシスモンディやセエのような偉大な学者も、検事が私を非難し、判決がそのゆえにわたくすを有罪にしたのとまったく同様の『詭弁』を弄し、まったく同様の『誤謬に満ちた事実』を表明しているのであり、ただ違う点はかれら[シスモンディとセエ]がいっそう強硬な態度でそうしているということだけのことであります。」(48頁)


つづいてアダム・スミスの『国富論』を引用します。

「生活必需品に対する租税は、国民の生活のうえに、不毛の土地や悪い気候とほとんど同様の影響を与える。この租税によって食糧が高くなるのは、あたかもそれの生産に、ふつう以上の労働と経費を必要としたばあいのごとくである。」

「課税される食料の価格が騰貴しても、労働賃銀がとうぜんにあがるとはきまっていない。たとえばたばこは貧者にも富者にもひとしくさかんにもちいられる奢侈品であるが、それに対する税は労働賃銀を騰貴させることはないであろう。」(50頁)

「下層階級あるいは中流階級以下のひとびとの消費の総額は、中流階級あるいはそれ以上の階級のそれに比して、いかなる国においても、その量においてばかりでなく、その価値においてもはるかに大であることは、注意されなければならない。下層階級の支出の総計は、上流階級のそれよりもはるかに大きい。」(52頁)

ラサールは述べます。

「それゆえわたくしが弄している詭弁、わたくしが主張している誤謬に満ちた事実、それらのあらゆる点において、わたくしはアダム・スミスとまた共通なのであります! それはすでに1770年以来、したがって100年このかた学問のうえにおいて確定されているのです!」

そしてづついて、フランス人やスコットランド人だけでなく、ドイツの学問の代表者らの論述をしょうかいします。

ザクセン・コーブルク公国参事官、ロッツの『国家経済学要綱』(1822年)の次の言葉を引用しています。

「一言をもっていうならば、消費税は租税を、国民のなかの、それをおさめる力も能力ももっともかけている階級に転嫁し、それによって、たんに公租の分配の衡平のみではなく、一般的福祉の基本的諸要素すらも、その最後の土台にいたるまで震撼するものである。」(55頁)

「この租税制度[消費税]はそれだけでほんらい抑圧的なものである。しかもこのほんらいの圧迫のうえになお第二の、より富んだものがより貧しいものよりも優位にあるということから生ずる圧迫が加わる。この第二の圧迫、およびそれがより貧しいものにとって破壊的だということの主要な理由は、貧者が富者よりもはるかに強く必要に迫られているといことにある、そして特にこの必要の切迫は、その労働の価格およびかれが富者のために提供しなければならない仕事の価格を、いずれもはなはだしく押し下げる作用を果たすのにたいして、富者には、かれが貧者の必要におうじて提供するものに対して、最高の価格を強制する機会をそれだけ与えるものだということにある。」

「このようなすでに事物自然のなりゆきのうちにその基礎を持つ優越性を、自然に反してまで強化し、そしてそれによって公の租税制度に必要な衡平を完全に、底の底まで攪乱してしまうこと--消費税の役目はただひとつこれあるのみであって、しかもしれが間接的方法で徴収される場合にはとくにそうなるのである。」(55~56頁)

ラサールは、つづけてハイデルベルク大学の財政学の正教授、エッシェンマイヤー博士の『消費税論』(1813年)や大公領ヘッセンの宮廷顧問官クレンケの『財政事象にかんする研究』、ライプツィッヒで出版されたベール博士の『国家経済論』(1822年)の記述を紹介します。

そして1758年にバーゼルで出版されたフランス王立造幣局長官フォルボンネの『フランス財政の研究』を紹介して、「間接税の廃止と直接所得税による国費の調達とは、正義のため、全体の福祉のため、また国力の増進のために、すべての財政家が努力すべき目標でなければならないと認めております。」と力説しています。

この「ブルジョア経済学者」の論考をつうじたラサールの消費税批判はまだまだ続きます。そしてこの法廷演説の最後のほうで、ラサールは社会主義者としての気概をみせて裁判官たちに語っています。

「諸君、諸君はいかなる革命をも信じようとされません。わたくしは--わたくしの研究はたしかに、わたくしが革命を信ずるようにさせました。・・・・・・[革命の]意味と申しますのは、暴力をともなっているか否かを問わず、新しい原理を既存状態におきかえることに他なりません。このような意味において、わたしくはつねに将来革命がおこることを確信しているということができるのです。」

「諸君は革命をお信じにならない、またそれゆえにそれを妨げようと望んでおられる。よろしい! どうぞ諸君の職務をおやりください。わたくしは--革命を信じます、しかもそれを信じればこそわたくしは、それを惹き起こそうとは思いません。・・・・・・わたしくは革命がくるばあい、しかも下からくるばあいにそなえて、それをあらかじめ教化し、開化しようと思うだけであります。」(232~233頁)

ラサールは、この演説の後、全独労働者同盟の伸び悩み解消のために、プロイセン宰相ビスマルクに接近して普通選挙と協同組合の合法化を目指すも、結局は何ら得るところもなく、1864年夏に保養先のスイス・ジュネーブで色恋沙汰のもつれから決闘で命を落としてしまいます。

その後継者たちラサール派とマルクス派との合同大会(ゴーダ大会)によって社会民主党が結成され、その後、破竹の勢いで発展することになりますが、このゴーダ大会で採択された「ゴーダ綱領」がラサール派のもっていた国家主義にあまりにおもね過ぎているとマルクスやエンゲルスが厳しく批判したことは良く知られています。

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