中国四川省での大地震(2013年4月22日)

2013年4月22日にattac首都圏の会員メーリングリストに投稿したものです。

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[attac_ml:3363] 中国四川省での大地震
2013年4月22日

中国四川省の大地震。

被災地域の雅安市は、チベット文化圏の入口にあたるところ。また雅安をはじめ四川省の農村からは沿海部の出稼ぎ労働者を一番送り出しているところで、たくさんの子ども達が、出稼ぎにいっている親と離れ離れでくらしており、今回も被災した家庭の多くで、両親は出稼ぎ、子どもと高齢者が被災しているケースが報道されています。

ジェンダー&デベロップメント中国という団体のウェブサイトに、女性に必需品のナプキンのカンパを呼びかける大学生たちの活動が紹介されていました。

ほんの冒頭部分だけを訳しました。

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広西大学の学生らが「雅安の被災地にナプキンをカンパしよう」の街頭活動
2013-4-22 9:04:05

雅安地震発生後、被災地へのカンパ物資が各方面から届けられている。しかし女性の必需品であるナプキンはあまり重視されていない。衛生条件が極めて不十分な状況で、ナプキンは女性の健康上のリスクを軽減させることができる。広西大学の女子学生らがこのことに気がつき、被災地の女性にナプキンを届ける活動を呼びかけている。

以下略

原文ページ
http://www.china-gad.org/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=19165

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以下は、またちょっと違った視点からの論評です。
論評してる場合ではないのでしょうが。
あ、そんなもの翻訳している場合じゃない、とも言われそうですが。


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被災支援と復興
義捐金や献血もいいが、民衆の自主的組織による自由な主張こそが大切
2013年4月20日

今朝7時、四川省雅安で大地震が発生した。現在までに死者71人、負傷者は1000人を超す。マグニチュード7.0で、2008年5月12日の[シ文]川大地震のマグニチュード8.0に次ぐ規模だ。これらの情報は数時間前にホータルサイトSOHUの特集ページで得た情報だ。四川省で発生した震災と労働者階級が無関係であるはずがない。四川省は中国全土で一番出稼ぎ労働者を送り出している省のひとつでもあるからだ。成都のフォックスコンでも数十万の単位で出稼ぎ労働者が働いている。ここで働く労働者たちのふるさとが大震災に見舞われたのだ。額に汗して苦労した蓄積 ―― 唯一の金銭的価値のある財産は住宅である。たくさんの出稼ぎ労働者が借金をして住宅を建てている。しかしそれは大震災によって瓦礫と化してしまった。

被災地の報道に目を移すと、すべてが悲惨なニュースばかりだ。私の第一印象をインターネットの掲示板に書き込んだ。「震災にもっとも弱いのは孤立した個人。地震でもっとも必要なことは社会的な救援。互助とそして社会的組織が必要だ。」

08年の[シ文]川地震の時にウェブ上で公表したメッセージは、ほとんど人目に触れなかったが、知人の紹介を通じて日本左翼の雑誌にその一部が掲載された。それは「災難、祈り。もしも翼があったなら・・・」というタイトルで2008年5月13日の夜に公表したものだ。

そのうちの一部を再掲しよう。

「救援物資は大変重要だ。しかし個人ではいかんともし難い。大規模な災害で最も大切なことは、市民の草の根の互助と集団的な連帯の精神だろう。インターネット上で相互に連絡を取り合い連携を模索し、互いに励ましあいこの社会的危機を乗り越えなければならない。だがそれと同じく大切なことは、警戒を怠らず、社会の敵に抵抗する度胸と認識、災害で金儲けをたくらんでいる火事場泥棒的ブルジョアジーへの警戒心を放棄しないということだろう。」

「私たちに翼があったなら...。もちろんそんなことはあり得ないのだが。だが、もし私たち民衆が自発的に団結し、組織し、支援活動を行うことができるのであれば、大規模な常備軍やエキスパート部隊だけが災害救援を行うよりももっと効果的に、そして力強い支援ができるだろう。今現在は、義捐金の呼びかけが行われているだけだが、草の根レベルでの救援組織の組織化を認めて、民衆自身による救援活動を強調すべきではないだろうか。被災の時期は、普段のときよりも、広範な結社の自由、報道の自由、インターネット上での民主的自律と最大限の寛容さが必要である。民衆は、可能な限り、自分自身の声を伝える手段をかちとり、相互に状況を共有し、救援に必要な情報を伝える必要があるだろう。もしそれが実現できたなら、それは具体的で力強い翼になり、私たちの未来――民衆自身による助け合いと社会解放にむけた未来へ飛翔することができるだろう。」

上記の観点は、[シ文]川大地震における初歩的な実践の反映であった。社会運動組織による取り組み、市民らの自発的な動員、政府主導ではない民衆の主張など、自由主義派をふくむ人びとの努力があった。これらの実践はさまざまな傾向の民衆が参加した。政府は不寛容と警戒でこれに応え、市民組織の活動空間を制限し、事実上人民による自主的な救援活動の努力を破壊した。今日の雅安地震では、よりいっそう民衆が自由に組織をつくり、自由に発言する必要があり、結社の自由と言論報道の自由が必要である。

(略)

個人は無力である。巨大な災害の前ではその無力さは増すだろう。しかしそれは事の半分である。さらに重要なもう半分はこうである。「だからこそ、人民が自由に組織し、社会組織を存分に活発化させ、民衆が自由に主張できるようにしなければならない」。

冒頭に紹介したインターネットの特集ページでは、興味を引くこんな見出しのニュースがあった。「中央テレビの司会者が政府指導者の紹介をする雅安の党書記の発言をさえぎり『被災への対応策の説明をしてください』と発言」。これは非常に小さな動きかもしれないが、メディアによる監督が被災支援に直接的な影響を及ぼしているケースかもしれない。しかし、それは中国で報道の自由が存在することを意味するものではない。こういった報道でさえ、党や政府の宣伝部門の審査を経たものである場合がおおいからだ。また、これが中央テレビの司会者ではなく、雅安テレビ局の司会だったら、地元の党書記の発言をさえぎることができたかどうか?

公共的な事件において、公共スペースの言論や報道は、社会的リソースの分配と同じような重要な作用がある。なぜならそれは社会的リソースをいかに分配するかに直結しているからだ。先に示した小さな事例では、雅安市の党書記はたくさんの社会的リソースを左右することができるが、彼は限られた時間のなかで、政治的指導者がどのように被災地区を視察したのかなどの紹介を優先し、実際の被災支援についての言及を後回しにした。必要とされるもうひとつの社会的リソースの分配方式―――実際の被災支援への傾斜、民衆組織の支援への傾斜――を通じて救援復興の全過程に関与し、報道および民衆(とりわけ被災民)自身の主張こそが重要である。

言論や報道の自由を認めたら、デマが飛び交ってしまうじゃないか、という意見もある。だがすべての社会にはそれがデマかどうかを明らかにする能力が備わっている。とくに多くの人びとが関心をもっている事柄についてデマを発すると、結局は社会的な批判にさらされ、信用を失い、軽蔑され、誰も信用しなくなるだろう。自由の権利が混乱を招くのではなく、それはその社会グループ内部における自由度いかんにかかわっているのである。言論の自由は混乱をもたらす、という発送は、かつて婚姻の自由が離婚を誘発し、異性間の関係を乱すという(清朝末期、民国初期の封建的道士らの考えと同じ)間違った考えとおなじである。

今日の中国は、結社の自由を実現するには至っていない。言論報道の自由は多少なりとも存在している(そう安定はしていないが)。この言論報道の自由は、市民団体を刺激し、民衆の声をウェブ上の自主メディアと結合させるという現実的方法のひとつだろう([シ文]川地震の時がそうだった。自由主義者の***が彼のインターネットサイトのファンをつれて被災地支援を行った)。いま大震災の災害救助の十字路において、言論と報道の自由はこれまでにもまして重要である。もちろんこれらの方法だけが被災支援にとって重要なのではない。もし民衆による言論報道の自由がいっそう開かれ、人々がその力を結集させるのであれば、より多様な支援方法がひらかれるだろう。


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