
少し前に紹介した「世界」12月号のもうひとつの注目記事が、カナダ在住で「ブランドなんかいらない」で知られるナオミ・クラインさんが、8月11日に行われたアメリカ社会学協会で行った講演録だ。
「もうひとつの可能な世界--弾圧から蘇る希望」ナオミ・クライン講演録/安濃一樹 訳・解説
講演は、「もうひとつの可能な世界を考えるとき、最初にはっきりさせておきたことがあります。もうひとつの世界に近づけないのは、私たちに理想がないからではありません。」から始まり、それは資金不足でもなく(彼女は環境汚染企業に課税を、投機マネーに課税を、と述べている)、まして政治家やエリートの意識が低いからでもない、「問題は信念です」と、語る。
講演全体は、社会運動の中にも蔓延する「もうひとつの世界は可能なのか?」という疑問符をつけて語る社会的雰囲気のなかで、2001年1月にブラジル・ポルトアルグレで開かれた第一回WSFで受けた感銘について、「世界社会フォーラムでは、スローガンに疑問符などついてはいなかった。そこには、誇りに満ちた感嘆符がありました。『もうひとつの世界は可能だ!』」と語り、1990年代以降、世界的に流布されてきた「歴史の終わり」(=資本主義の勝利)や「ワシントン・コンセンサス」とはことなる、新しい歴史が「ここからはじまる」と、当時受けた力強い印象を述べる。
2001年911テロと対アフガン・イラク戦争によって、その「新しい歴史」の道筋が一度は閉じられてしまったことについて触れ、これまでの歴史のなかで、「少なくとも過去35年間にいくども、新しい社会を求める運動が広がりを見せるたびに、弾圧は繰り返されてきました」と述べて、1973年9月11日のチリ・アジェンデ政権に対するピノチェットのクーデター、1989年ポーランド「連帯」とその後の瓦解、1989年中国天安門で花開いた民主化運動と共産党政権の弾圧、そして1994年の南アフリカにおけるANCの歴史的勝利などを紹介する。
もちろん世界に開かれた希望のたたかいはこれだけではないだろう。しかし1980年代末から90年代にかけて世界的に広がった、「歴史の勝利」という新自由主義イデオロギーは、世界、そして日本における社会運動や階級闘争を、根底から揺るがしたことも事実であり、ナオミ・クラインの歴史観、世界観は、きわめて示唆に富む。
もちろん彼女は「敗北の歴史」だけを提示して終わるわけではない。「私たちの運動は反グローバル運動と呼ばれてきましたが、実際にはもともと民主化運動です」と述べ、上記の民主化運動の敗北の歴史だけでなく、運動が掲げてきた理念、とりわけ経済的な理念について語る。
「チリではじまったのは、全体主義的な共産主義でもなく、過激な資本主義でもない。本当の意味で第三の道です。」
ポーランドの連帯は「中央に集中していた権限を分散し、労働者である市民がそれぞれn職場を運営する。それが基本理念です」
中国の天安門では「人々は生活水準が低下していくのを目の当たりにする。労働者の権利も奪われました。人々は街頭に出て、移行しつつある経済を民主的な方法で管理できるよう要求し、デモをはじめました。」
南アフリカのネルソン・マンデラは刑務所から釈放される二週間前に書いた覚書で「鉱山と銀行と独占産業を国営化することがANCの政策である。」
敗北してきた民衆の歴史には、漠然とではあるが、希望ある「もうひとつの可能な世界」が提示されていたのだ。
+ + + + +
第一回世界社会フォーラムに参加して「巻き起こる強い風邪に胸を打たれて、気が付くと深く息を吸い込んでいた」ナオミ・クラインは、講演の最後の最後まで、聴衆に向けて希望を提示しつづける。
「私たちはいつでも理想を抱いていた。市場経済とは別の選択はいつでもあった。そう知ることは大切です。私たち自身の歴史を語りなおして、その歴史の意味を悟らなければなりません。私たちが物語る歴史には、打ちひしがれ、夢を失い、命さえ奪われた私たち自身の姿がある。それでも私たちは、語りつづけなればならない。なぜなら、歴史に終わりなどないからです。」
「もうひとつの世界は、生活の基盤を保証された何百万もの人びとが、人間としての尊厳を持って生きてゆくことができる世界です。だからそこ大きな支持を得ました。もうひとつの世界は、富める人びとの利益を制限する世界です。だから彼らは手を下して、その世界を破壊して見せた。私たちは理想の戦いで破れてことは、一度もありません。繰り返し仕掛けられた汚い戦争に敗れただけです。この歴史を理解することが、失われた自信を取り戻す第一歩となります。それが私たちの心に大切な灯をともし、消えかけていた情熱を炎と燃やすでしょう。」
情熱を炎と燃やす、もうひとつの可能な世界のために、ぜひ一人でも多くの友人に、ナオミ・クラインの情熱的な講演録を読んでもらいたい。
※アメリカ社会学協会では、ジェフリー・サックス教授も招待して、ナオミ・クラインとの公開討論会を予定していたが、サックス教授は直前になって出演を取りやめた。ナオミ・クラインの講演の中でも触れられているが、「貧困解消のための開発」に力を注ぐサックス教授は、ポーランドの「連帯」に対して、IMFのショック療法を提案した当の本人である。講演のなかでナオミ・クラインは痛快に同教授のスタンスを批判している。
(参考)『世界』2007年12月号(岩波書店)
2001年911テロと対アフガン・イラク戦争によって、その「新しい歴史」の道筋が一度は閉じられてしまったことについて触れ、これまでの歴史のなかで、「少なくとも過去35年間にいくども、新しい社会を求める運動が広がりを見せるたびに、弾圧は繰り返されてきました」と述べて、1973年9月11日のチリ・アジェンデ政権に対するピノチェットのクーデター、1989年ポーランド「連帯」とその後の瓦解、1989年中国天安門で花開いた民主化運動と共産党政権の弾圧、そして1994年の南アフリカにおけるANCの歴史的勝利などを紹介する。
もちろん世界に開かれた希望のたたかいはこれだけではないだろう。しかし1980年代末から90年代にかけて世界的に広がった、「歴史の勝利」という新自由主義イデオロギーは、世界、そして日本における社会運動や階級闘争を、根底から揺るがしたことも事実であり、ナオミ・クラインの歴史観、世界観は、きわめて示唆に富む。
もちろん彼女は「敗北の歴史」だけを提示して終わるわけではない。「私たちの運動は反グローバル運動と呼ばれてきましたが、実際にはもともと民主化運動です」と述べ、上記の民主化運動の敗北の歴史だけでなく、運動が掲げてきた理念、とりわけ経済的な理念について語る。
「チリではじまったのは、全体主義的な共産主義でもなく、過激な資本主義でもない。本当の意味で第三の道です。」
ポーランドの連帯は「中央に集中していた権限を分散し、労働者である市民がそれぞれn職場を運営する。それが基本理念です」
中国の天安門では「人々は生活水準が低下していくのを目の当たりにする。労働者の権利も奪われました。人々は街頭に出て、移行しつつある経済を民主的な方法で管理できるよう要求し、デモをはじめました。」
南アフリカのネルソン・マンデラは刑務所から釈放される二週間前に書いた覚書で「鉱山と銀行と独占産業を国営化することがANCの政策である。」
敗北してきた民衆の歴史には、漠然とではあるが、希望ある「もうひとつの可能な世界」が提示されていたのだ。
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第一回世界社会フォーラムに参加して「巻き起こる強い風邪に胸を打たれて、気が付くと深く息を吸い込んでいた」ナオミ・クラインは、講演の最後の最後まで、聴衆に向けて希望を提示しつづける。
「私たちはいつでも理想を抱いていた。市場経済とは別の選択はいつでもあった。そう知ることは大切です。私たち自身の歴史を語りなおして、その歴史の意味を悟らなければなりません。私たちが物語る歴史には、打ちひしがれ、夢を失い、命さえ奪われた私たち自身の姿がある。それでも私たちは、語りつづけなればならない。なぜなら、歴史に終わりなどないからです。」
「もうひとつの世界は、生活の基盤を保証された何百万もの人びとが、人間としての尊厳を持って生きてゆくことができる世界です。だからそこ大きな支持を得ました。もうひとつの世界は、富める人びとの利益を制限する世界です。だから彼らは手を下して、その世界を破壊して見せた。私たちは理想の戦いで破れてことは、一度もありません。繰り返し仕掛けられた汚い戦争に敗れただけです。この歴史を理解することが、失われた自信を取り戻す第一歩となります。それが私たちの心に大切な灯をともし、消えかけていた情熱を炎と燃やすでしょう。」
情熱を炎と燃やす、もうひとつの可能な世界のために、ぜひ一人でも多くの友人に、ナオミ・クラインの情熱的な講演録を読んでもらいたい。
※アメリカ社会学協会では、ジェフリー・サックス教授も招待して、ナオミ・クラインとの公開討論会を予定していたが、サックス教授は直前になって出演を取りやめた。ナオミ・クラインの講演の中でも触れられているが、「貧困解消のための開発」に力を注ぐサックス教授は、ポーランドの「連帯」に対して、IMFのショック療法を提案した当の本人である。講演のなかでナオミ・クラインは痛快に同教授のスタンスを批判している。
(参考)『世界』2007年12月号(岩波書店)
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